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「最高の道」マルコによる福音書12章28-34節

2022年9月11日
牧師 武石晃正

 悔いのない生涯を送りたいと願う人は多いでしょう。後悔にさいなまれながら息を引き取りたいと言う人にお目にかかったことはありませんし、この先もないことを願います。
 若いうちに自分では最高だと思うように生きることができたとしても、年とともに経験を積み知恵が深まってみると、何とも愚かだったことかと振り返ることもあり得ます。完璧だと思って建てた生涯設計であっても、大きな災害や世界規模の感染症の前にたちまち崩れ去ることを私たちは経験しています。

 この世は移ろいやすく、人の営みにも流行り廃れがありましょう。「草は枯れ、花はしぼむが わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40:8)と天地創造の神の言葉に信頼します。そして今日も独り子である神イエス・キリストの福音に聞きましょう。


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1.最も重要な戒め
 宇都宮上町教会では毎月第1週の主日礼拝に日本基督教団信仰告白を唱和します。旧新約聖書は私たちに福音の真理を示す拠るべき唯一の正典であり、信仰と生活との誤りなき規範であると告白します。

 「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です」と使徒パウロを通して聖書は教えます(テモテ二3:16)。この聖書をどれほど慕って私たちは日頃から読んでいるでしょうか。
 旧約から新約まで合わせますと、新共同訳聖書では2000ページほどにも及びます。通して読むだけでもなかなか骨の折れる取り組みですが、読破してすべてを覚えて理解するということはとても困難です。

 イエス様が世におられた時代、今から2000年ほど昔のことです。当時はまだ神様がご自身を契約の民イスラエルにしか明らかにされておりませんでしたので、ユダヤの人たちだけが天地創造の神様のことばとして今でいうところの旧約聖書を持っていました。
 旧約聖書だけでも十分な量であるのに、その上にユダヤの掟や伝統が積まれていました。それでもこれらを熱心に研究し実践しようとした人たちが、律法学者やファリサイ派の人々として聖書に登場します。

 一人の律法学者がイエス様に尋ねました。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28)。この人はサドカイ派と呼ばれる他の一派の人たちがイエス様との議論に打ち負かされたのを見てやってきましたから、安直な思いからイエス様に尋ねたのではないことが分かります。
 律法学者とは律法すなわち旧約聖書やユダヤの掟と歴史について、専門的に研究していた人たちです。その中の一人として学んでいたのですから、この一人の律法学者も膨大な御言葉のどこに神のみこころの核心があるのかと日々追い求めていたことでしょう。

 その思いを汲まれてか、イエス様はこの律法学者にはっきりとお答えを授けられました。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない」(29-31)。
 なんと驚くべきお答えでしょう。この時「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)のお言葉がこの律法学者に成就したので、彼は胸がすく思いで「先生、おっしゃるとおりです」と喜びました。

 「どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています」(33)という一言から、この人を永らく悩ませていたものを推して知ります。この人が熱心に求めてきた道、ユダヤの伝統や掟と呼ばれるものと神の言葉である聖書との間に大きな矛盾がありました。
 別の箇所でイエス様はファリサイ派の人々と律法学者たちに対して、「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものである」と断罪されました(7:9)。その内訳は「あなたたちは言っている。『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、何でもコルバン、つまり神への供え物です」と言えば、その人はもはや父または母に対して何もしないで済むのだ』と」というものです(同11-12)。

 コルバンとは「焼き尽くす献げ物やいけにえ」のことで、ここではファリサイ派や律法学者の道に入門して生涯を神にささげることをたとえています。神の言葉に生涯をかけて仕えることという立派な目的のために家を出たのはよいのですが、神を愛することを強調するあまりに隣人どころか肉親さえもないがしろにすることになってしまいました。
 立派な先生たちに教えられ言い含められるままに従ってきた者にとっては、それらの教えが間違っているのではないかと疑うことだけでも罪責感が伴います。「もはや父または母に対して何もしないで済むのだ」との言い伝えに対して「父と母を敬え」という聖書の言葉との矛盾を感じても、抗うことさえ許されないような状態です。

 丹念に御言葉を追い求める中で、この律法学者は「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し」ても「隣人を自分のように愛する」ことに矛盾しないのだと結論にたどり着きました。神を愛する者は、神が愛しておられる人々をも愛するからです。
 しかし彼が歩んでいる道の掟は年功序列、言い伝えを重んじるユダヤのしきたりにあります。「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」などと声を大にするならば、直ちに破門され、ユダヤの社会では生きていくことができなくなるでしょう。

 ところがこのナザレ人イエスは臆することなく、彼が求めていた答えを明快に導き出したのです。このイエスこそ本当に神様から遣わされた預言者であると、聖書の言葉に照らしてこの人は信じることとなりました。
 またイエス様におかれては、この時代の律法学者たちの中に純粋に御心を求める者を見出して喜ばれたことです。「あなたは、神の国から遠くない」とは、直訳すると神の国から隔たりがない、つまり「あなたは神の国とともにある」という意味になります。

 「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する」ことこそ、神の御心になった人間にとって最高の道なのです。


2.神を愛し隣人を愛すること
 「この二つにまさる掟はほかにない」(31)とイエス様がおっしゃった時、聖書の他の教えを疎かにしてよいと教えてはいないことを私たちは心に留める必要があるでしょう。どのように受け止めるのがよいかと申しますと、聖書全体に対して第一の掟「あなたの神である主を愛しなさい」と第二の掟「隣人を自分のように愛しなさい」の2つに照らして読み解くことです。
 「論語読みの論語知らず」とのことわざがあります。キリストを信じる者も自己流あるいは独善的になると聖書を正しく読み取ることが難しくなり、「聖書読みの聖書知らず」などと呼ばれてしまうことにもなりましょう。

 信仰の熱意が自己満足や自己実現に置き換えられてしまったり、自分の好みの聖句だけを引き抜いて教条主義に陥ったりしないように、第一の掟と第二の掟に照らすのです。それを助けるために歴史上の教会は信条や信仰告白文を備え、聖書のことばと照らしながら歩んできました。
 日本基督教団信仰告白では「愛のわざに励みつつ」と掲げて、神に仕え人を愛することを告白しています。信仰と生活との誤りなき規範として聖書を読みつつ、聖書を正しく読みかつ行う助けとして信仰告白を唱えるのです。
神を愛するとはいったいどのようなことを指すのでしょうか。目に見えない神様を愛することは至難であり不可能のようにも思われます。

 「御子は、見えない神の姿であり、すべてのものが造られる前に生まれた方です」と聖書は教えます(コロサイ1:15)。キリストを愛することによって「あなたの神である主を愛しなさい」との掟が全うされます。
 また教会はキリストの体ですから(エフェソ1:23)、教会を愛することによってキリストを愛することになります。つまり教会を愛することがキリストを介して、実は父なる神を愛することに一致するのです。

 「あなたがたはキリストの体であり、また、一人一人はその部分です。神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました」と、神様が教会を愛して大切に扱ってくださることを覚えます (コリント一12:27-28)。隣人を愛することで神様を愛し、神様を愛することが互いに愛し合うことに通じるのです。
 キリストの救いによって結ばれて、神様のご愛の中に生かされて、聖霊の親しい交わりにおいて互いに愛し合うことこそ最高の道なのです。


<結び>
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」(30)

 天地の創り主、全能の父なる神を信じて愛します。この目に見えない神の姿として世にお生まれになった独り子である神イエス・キリストを信じます。
 教会は主イエス・キリストの体であり、教会を愛することによって私たちはキリストへの愛を示すことができます。教会を愛するとはそこに集う隣人、主にある家族を愛することです。

 キリストを信じ、罪の赦しと体のよみがえりの約束をいただいた者が信仰を告白し、バプテスマを受けて教会に加えられます。主キリストの弟子として最高の道を歩む者として、愛をもって多くの隣人たちにこの道を宣べ伝えましょう。
 「『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」(31)

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