「生涯のささげもの」マルコによる福音書12章35-44節
2022年9月18日
牧師 武石晃正
昨年のこの時期は緊急事態宣言が発表されており、礼拝堂への出席自粛のご協力をいただきつつ主日礼拝を維持しておりました。今年の敬老感謝礼拝は一堂に会することが許され、主の恵みの御手に守られていることを感謝に覚えます。
世の中では恐らく長寿ということそのものがめでたいことして祝われているのだと思われますが、教会すなわち主にある家族においては老いも若きも神の恵みの内に生かされていることを感謝します。とりわけ年を重ねるほどに主から受けた恵みのお証しが増し加えるので、年配の方々を主の祝福を受け継ぐ者として一層に敬うことです。
長寿を全うする者も若くして主の御もとに召される者も、年月の多寡ではなくその生涯が主に捧げられていることにおいて尊いのです。本日はマルコによる福音書から「生涯のささげもの」と題して読み進めて参りましょう。
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牧師 武石晃正
昨年のこの時期は緊急事態宣言が発表されており、礼拝堂への出席自粛のご協力をいただきつつ主日礼拝を維持しておりました。今年の敬老感謝礼拝は一堂に会することが許され、主の恵みの御手に守られていることを感謝に覚えます。
世の中では恐らく長寿ということそのものがめでたいことして祝われているのだと思われますが、教会すなわち主にある家族においては老いも若きも神の恵みの内に生かされていることを感謝します。とりわけ年を重ねるほどに主から受けた恵みのお証しが増し加えるので、年配の方々を主の祝福を受け継ぐ者として一層に敬うことです。
長寿を全うする者も若くして主の御もとに召される者も、年月の多寡ではなくその生涯が主に捧げられていることにおいて尊いのです。本日はマルコによる福音書から「生涯のささげもの」と題して読み進めて参りましょう。
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1.見せかけの宗教心
「イエスは神殿の境内で教えていたとき」(35)と何気なく読み流してしまうところでした。十字架にかけられる前の最後の週であるのに、ご自身の命を狙う者たちがいるであろうエルサレム神殿の中でイエス様は姿を現わしました。
それだけでも危険であるのに「どうして律法学者たちは、『メシアはダビデの子だ』と言うのか」と名指しで律法学者たちを非難するのです。「ダビデの子にホサナ」(マタイ21:9)と群衆の歓声を浴びながらエルサレムに迎えられた方ご自身が「どうしてメシアがダビデの子なのか」(37)とおっしゃると、傍らで弟子たちは肝を冷やしたことでしょう。
最大の祭であった過越祭の週ですから、神殿には国内だけでなく国々に散らされているユダヤの人々が巡礼者としてエルサレムにやってきます。非常に多くの参拝者が行き交う境内でイエス様が「律法学者に気をつけなさい」と続けられると、このガリラヤ訛りで型破りな教えに群衆は喜んで耳を傾けました。
福音書ではほとんどイエス様の論敵として登場する律法学者たちですから、イエス様を信じる者としては彼らを意地悪な堅物、むしろ悪者であると見てしまいがちでしょう。イエス様が非難している点について異論はありませんが、彼らの営みを客観的に考えてみますとなかなか立派なものです。
普段から身だしなみを整え、街角や広場で人々の相談を受けたり祝福を祈ったりするのです(38)。会堂すなわち礼拝堂では後ろや隅っこのほうではなく一番前の正面から詰めて座るのです(39)。
宴会とは単なる酒盛りの席ではなく、ユダヤの掟に従って開かれる祭の食事や祝宴です。この時期であれば過越の食事がエルサレム内外で行われます。特に地方や国外からの巡礼者などは掟やしきたりに明るくないでしょうから、正しく祭を祝うことができるように専門家を迎えて手助けしてもらうのです(39)。
夫に先立たれた独り身の女性を助けるのも律法学者たちの役目です。財産や事業、使用人らが残されますと、当時のユダヤでは女性がそれらを管理することは困難です。
当時のユダヤの掟では女性は祈りや礼拝に関しての制限がありました。そこで律法学者らが呼ばれて家人たちの前で立派な祈りを長々とすることで、故人の名誉や沽券が保たれます(40)。奉納物も専門家が代わりに対応してくれるので、女性でもユダヤの掟に沿って安心して生きられるでしょう。
このように律法学者たちは弱い者や困っている人を助け、人々から必要とされる働きをしていました。堅苦しいところがあったとしても、誰も困らないどころか人々の暮らしになくてはならない存在です。
ではなぜイエス様が目くじらを立て、時には憤慨してまで彼らを叱責したのでしょうか。それは一言で言うなら「見せかけ」だからです。
「あなたたちは、受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている。また、これと同じようなことをたくさん行っている」(7:13)とイエス様は断罪されます。当初の動機はさておき、律法学者たちは過去の権威ある人間の言葉をあたかも父なる神様の御心であるかのように言い伝えてきたのです。
「受け継いだ言い伝えで神の言葉を無にしている」とは、結局のところ聖書に模した偽りの教えであることを意味します。律法学者たちは「メシアはダビデの子だ」とダビデの生まれ変わりは認めたけれど、メシアすなわちキリストそのものは信じなかったのです。
律法学者たちをイエス様が論破した話は4つの福音書を通して数えられないほど記されています。神の御言葉を模した偽の教えやキリストを騙る偽者が教会を惑わそうとしたので、本物であるイエス様と偽者との対比を明らかにする必要があったからでしょう。
使徒パウロがガラテヤの信徒への手紙の中で次のように送っています。「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(ガラテヤ1:7)。
今の時代においても天使から啓示を受けたと言う者や自分こそキリストの生まれ変わりだと騙る者を信奉する宗教集団があります。このような者たちに対してパウロを通して神ご自身が「天使であれ、わたしたちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」と繰り返し宣言しています(同8)。
明らかな悪であると人の目に映ることであれば誰もが気づきますし、安易に断罪できるものです。むしろ本物のイエス・キリストの福音をしっかりと握っている私たちは、見せかけの宗教心や偽りの教えを見抜き、毅然とした態度をとることができるのです。
2.持っている物をすべて
ここでマルコとルカはイエス様が神殿の境内にある賽銭箱とその周りの人たちをご覧になった出来事を挿入しています(41)。新共同訳聖書ではどちらにも「やもめの献金」との小見出しが付されている箇所です。
その場所は群衆や大勢の金持ちのほか女性も入ることができましたから、神殿の中でも正式な礼拝をする場所ではないことは確かです。レプトン銅貨とは当時の最小貨幣であり、この女性はそれを2枚入れたと記されています。
現在の日本円に比べるにも為替や物価の都合で一概には推し量れませんが、仮に2~300円程度としておきましょう。これを見て弟子たちを呼び寄せたイエス様は「この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた」とおっしゃいました(43)。一体どういう意味でしょうか。
ユダヤの律法には興味深い教えがあります。ある人が神殿に一旦おささげしたものを物惜しみするなら、その価値の5分の1を加えて支払えば取り戻すことができるというものです(レビ27:13)。
2割も上乗せできるのは金持ちと呼ばれる人たちぐらいしょう。麦などの農作物は収穫の10分の1を納める決まりですが、初めから収穫高の12%に相当する金額をお金で納めれば作物のすべてを手元に残すことができるのです。
極端な例になりますが、たとえば全収穫高に2割を上乗せした現金を一括で献金し「私は今年の収穫のすべてを神にささげました」と宣言するとしましょう。なんと麦を一粒たりとも神殿に納めずに全収穫を神にささげたことになるのです。なんと作物を一切手放していないのに、収穫の全てに2割も加えて献金をするほどの篤志家が現れうるのです。
庶民では目にすることができないほどの献金が神殿の銀貨で納められます。しかしそれは収穫に対する評価額であって、いわゆる卸値にも満たない額です。
金額が大きい上に2割増しと聞けば庶民には立派な行いに思われますが、手元の作物を小売りにすれば何倍かの利益が見込まれます。一部を種もみとして貸し与えれば、更に翌年には数倍になって返ってくるでしょう。
ここまであからさまな企みが実際にあったかは分かりませんが、問題なのは「持っている物をすべて」と見せかけたことです。少なくとも祈りの家と呼ばれるべき神殿で不正が行われていたので、イエス様が「それを強盗の巣にしてしまった」と怒りをあらわにしたということは確かです(11:17)。
2枚の銅貨をささげた女性にはそのような手立てや二心はなく、額面どおりをささげました。誰の目に留まることなく、イエス様に見つかりさえしなければ語り草にもならなかったことでしょう。
「だれよりもたくさん入れた」(43)とは、量ではなく質を言い得ています。「生活費を全部入れた」と結ばれている部分において生活費と訳されている語は、生活や生き方そのもの、ときに命を指す言葉です。
「自分の持っている物をすべて」(44)という表現は、イエス様が神の国を高価な真珠を見つけた商人にたとえた中にも出てきます。そこでは「高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」と言われています。「持ち物をすっかり」と全く同じ語法が用いられています。
この女性は「自分の持っている物をすべて」を投じたことにより、高価な真珠を得たのに等しいとイエス様の目には移りました。彼女の信仰は天の国への生涯のささげものです。
<結び>
「皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」(44)
この信仰の歩みの手本のように、二心なく企みもなく純粋に奉仕とささげ物とを神の前に積まれた方々がここにおられます。この豊かな恵みをお与えになる主イエスキリストをほめたたえつつ、この教会の中で主が養い育まれた信仰の先輩方がますます祝福されますよう祈ります。
キリストの体で教会とそこに加えられた私たちは皆すでに十分な恵みを受け、むしろ償いきれないほどの代価を主イエス様からいただきました。応じることができる力はそれぞれ大小の差はあるかもしれませんが、キリストの十字架の血によって贖われたこの私自身を生涯のささげものとして神の御前に捧げます。