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「豊かに蒔く人」コリントの信徒への手紙二9章6-15節

2022年9月25日
牧師 武石晃正

 今年は3年ぶりとなるアジア学院サンデーとしてこの主日礼拝を備えており、アジア学院で農業を学ぶ学生と職員の方々がこの礼拝堂に集っておられます。様々な制限や不安を覚える要素は残されていますが、このように行き来ができ礼拝を共にささげることができるようになったことは大いなる恵みです。
 これまでの苦難を覚えつつも、今後の歩みにおいてますます主の豊かな恵みを期待します。その恵みに応える思いを抱きつつ、本日はコリントの信徒への手紙二より「豊かに蒔く人」と題して読み進めて参りましょう。


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1.祝福の業として
 「つまり、こういうことです」とはどのようなことがあったのか、初めにこの手紙が送られた事情の一部に触れましょう。コリントとはギリシアにある商業と流通に栄えた町で、宣教の旅を続けていた使徒パウロにしては珍しく一年六か月の間ここにとどまって人々に教えたほどに思い入れがある町です(使徒18:11)。
 聖書にはコリントの信徒への手紙は一と二が収められていますが、ほかに「涙の手紙」とも呼ばれる書簡が送られています(2:4)。後代の人々に対して内容を伏せなければならないほどの苦渋の決断を迫られ、パウロは筆を執らざるを得なかったのでしょう。

 「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です」と言われるほどに厳しい出来事がコリントの教会に起こりました(2:6)。分裂の危機あるいは深い悲しみに瀕した教会を何とか力づけるため、パウロは非常に細やかな気配りをしながらコリントの信徒への手紙二を書き送っています。
 それでもどうしても先送りにできない課題がありました。迫害と飢饉に窮乏するエルサレムの教会は今にでも資金を届けなければ息絶えそうなのです。

 エルサレムの窮乏を知ったパウロは自身が伝道して回った各地の教会から募金を集めました。コリントの人たちも当初は熱意をもって協力的でしたので、そのことをパウロから聞かされたマケドニアの人たちも励まされたのです(9:2)。
 ところが何らかの出来事を境にコリントの人たちが急に渋ってしまい、彼らが約束していた用意が整わないという事態が起こりました(4)。パウロが私利私欲のためにお金を集めているのだという憶測が流れたのか、エルサレムなんて遠いところの人たちを助けても何も見返りが期待できないと言い出した人がいたのか、普段であれば気にもかけないような些末な噂でさえ弱っている教会を揺さぶってしまったのです。

 誰かの窮地に際して見返りを求めたり名を上げたりするかのように、渋りながら寄付や献金をする人たちがいました。あるいは「自分たちだって苦しい思いをしているのになぜ会ったこともない人たちのために手助けしなければならないのかと」などと出し惜しみをしているうちに、どこかで主の働きが途絶えてしまうことがあるのです。
 聖なる者たちと呼ばれているのは、ここではイエス・キリストの福音のゆえに迫害を受けてなお辛うじて残っている人たちです。惜しまず差し出したものとして用意してもらうため、「つまり、こういうこと」とパウロは丁寧に説き進めていきます。


2.豊かに蒔く人
 「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです」との言葉について、受け取り方や感じ方は読む人によってそれぞれあることでしょう。見渡す限りの広々とした農地であればいくらでも種を蒔くことができるかも知れませんが、限られた土地で闇雲に多くの種を蒔いても収穫が増えるわけではないことは農業に疎い者でも考え及ぶところです。
 これはあくまでも物のたとえとして種蒔きを引き合いに出していますから、ここで言われている種蒔きとは祝福の業としての奉仕や献金のことです。量が多いか少ないかということではなく、思い切りよく明け渡すことが勧められています。

 惜しまず豊かに蒔くという表現からパウロは恐らく麦の類を思い浮かべていることでしょう。知恵のある人は種を蒔くべき季節を知っているので、時期が来ると風向きを読んで吹かれるままに種を蒔いたそうです。
 思い切りよく風に乗せて種を蒔きますと、良い地である畑ばかりでなく道端や岩地、いばらの中にも落ちるので無駄が多く見えます。しかし時期を逃すことなく畑の隅々まで種を蒔き終えることができれば、無駄を補って余りある豊かな刈り入れを得られます。

 種を惜しむ人が耕した部分だけに種を蒔こうとすると時間ばかりかかるので、所有地すべてを回り終えるころには時期を逃してしまいます。蒔いた種が少ないばかりか、刈り入れ時までに十分に育たないこともあるでしょう。
 ここでは困窮しているエルサレムの人たちを助けるための献金と奉仕について扱われています。「昨年から」(2)この計画が始まったということは、今すぐに助けが必要なのです。

 様々な問題を抱えていたとはいえコリントは他の地域の町々より経済力がある町ですし、南北の陸路と交えて東西の海路が接続されています。マケドニアの人々を待たずとも、その気になれば昨年のうちに真っ先に支援を届けることができたはずです。
 来年まで待てば今の手持ちより何倍か多くの寄付をできると考えたのでしょうか。しかしそれがどれほど多額であったとしても、たった今助けを必要としている人に対しては季節外れに蒔いた種のようになってしまうでしょう。

 ところで主はパウロを通してコリントの人々ばかりでなく私たちの身ぐるみを剝いでまで献金を集めるように望まれているのでしょうか。「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(10)と言われているように、主は私たちに蒔くための種を与え、蒔いた後の収穫まで面倒を見てくださるのです。
 豊かに蒔く人とは単に多くの財と労を捧げることではなく、必要な時に心を定めて行動できる人です。このように神への信頼と奉仕は、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるのです(12)。

 種を豊かに蒔く人の刈り入れが豊かであると知っている人が豊かになるのではなく、実際に種を蒔いた人が収穫を得ます。そして「この奉仕の業が実際に行われた結果として」神がほめたたえられるのです(13)。
 

3.この人はできるかぎりのことをした(マルコ14:1-9より)
 コリントの信徒たちへパウロが書き送ったのは具体的にはエルサレムの信徒たちへの支援のことでした。まだ用意のできていないのを見たら恥をかくことになりかねないと、パウロは時期を逸しないことに心を割いています(4)。
 ところで、一人の女性についての証しが福音書に記されています。イエス様がいよいよエルサレムで捕らえられようという2日前の出来事です(マルコ14:1)。

 それはエルサレムにほど近いベタニアという町でのことでしたイエス様はラザロと呼ばれるシモンの家を訪れて、食卓に着いておられました(同3)。そこへラザロの姉妹の一人が小さな壺を手に持って近寄ってきました。
 壺の中身はナルドと呼ばれる非常に高価な香油です。弟子たちによれば当時の通貨で300デナリオン以上と言いますから(同5)、今の日本円で数百万円の価値と言えましょう。

 彼女はその高価な香油を惜しむことなくイエス様の頭に注ぎ、その御足まで塗ると自分の髪で油を拭ったというのです(ヨハネ12:3)。「なぜ、こんなに香油を無駄遣いしたのか」と憤慨した弟子たちの姿と併せて、「世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられる」ことになりました(マルコ14:9)。

 非常に高価な捧げ物だということが印象深く伝わりますが、イエス様が心を留められた「この人はできるかぎりのことをした」ことにあります(8)。つまり今この時にしかできないことについて、イエス様は驚きつつ喜びを示されたのです。
 彼女はイエス様がこの後まもなく捕らえられ異邦人の手に渡されることを聞いており、この先は自分の手が届かないところに行ってしまうと知っていました。「明日のことまで思い悩むな」と言われたとおり、マリアはその日できるかぎりのこととして前もって埋葬の準備をしたのです。

 来年でも来月でも明日でもなく、今できるかぎりのことを彼女は実行しました。こうして惜しまずに豊かに蒔いた人の豊かな刈り入れは、世界中どこでも福音が宣べ伝えられる所で語り伝えられることになりました。


<結び>
 「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。」(コリント二9:6)

 決して物惜しみをしているつもりはなくとも、時期を逃してしまうとせっかく蒔いた種が台無しになってしまうこともあります。来年の計画を立ててもその時が来てみると身動きが取れないことは、大きな災害や感染症のまん延を通して経験したばかりです。
 私たちは主の招きを受けたら明日ではなく今日いますぐ従います。助けを必要としている誰かに手を延ばすとき惜しまずに分けることで、私たちではなく背後におられる神様がほめたたえられることになるのです。

 種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方がついておられます。この主キリストの恵みによって私たちも豊かに蒔く人とされ、その慈しみが結ぶ実を成長させていただきましょう。

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