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「裂かれた体と契約の血」マルコによる福音書14章10-26節

2022年10月2日
牧師 武石晃正

 10月に入り、本日は聖霊降臨節第18主日を数えます。聖霊降臨節は主の聖霊によるご支配を覚え、特に教会の役割や働きについて教えられます。
 地域的にも民族的にも多様化しながら広がっていく天の御国は、はじめイエス様ご自身によって種が蒔かれて弟子たちへその働きが委ねられました。福音書からイエス様の直接の教えを読みつつ、それらがどのように教会の中で膨らんでいったのかを使徒言行録や書簡から知ることができます。

 あのペンテコステの日以来、主の聖霊が教会を満たしてくださっています。キリストの救いを受けた者として主の再び来られる日を待ち望みつつ、主の死と復活とを告げ知らせるのが教会の使命です。
 とくに本日は世界宣教の日を覚えつつ、マルコによる福音書から「裂かれた体と契約の血」と題してイエス・キリストの救いについて思い巡らせて参りましょう。

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1.備えられた道
 順序は前後しますが「除酵祭の第一日」を「過越の小羊を屠る日」と書かれておりまて(12)、これは当時のユダヤでも祭の暦どおりに過越の食事を祝うことができるのはとても喜ばしいことだったでしょう。と申しますのも過越のいけにえについては遠方にいる者や事情のある者たちのために月遅れでささげることまで認められており、この規定はモーセを通して神様が律法をお授けになられた当初から既にありました(民9:10-11)。
 何事もなければ暦どおりに、しかもエルサレムの都の中で過越を祝えるという喜ばしい日を迎えるところです。ところが他の弟子たちの知らないところで、「十二人の一人イスカリオテのユダは、イエスを引き渡そうとして、祭司長たちのところへ出かけて行った」というのです(10)。

 このユダが裏切りの算段をつけている一方、他方ではイエス様がほかの弟子たちに過越の食事の用意について指示を出されます(12-13)。まさか仲間が祭司長たちと通じていようとは思いませんので、弟子たちはユダの姿が見えなくとも祭に必要なものを買ったり貧しい人たちに施しをしたりと駆け回っているのだろうと思ったようです(ヨハネ13:29)。
 都へ使いに出された2人の弟子は「水がめを運んでいる男に出会う。その人について行きなさい」と命じられました(13)。2人が都でその男を見かけてついて行くと、実にイエス様が言われたとおりに席が整って用意のできた二階の広間へ通されました(14-15)。

 祭りのために混雑する時期にもかかわらず最寄りの町ベタニアで宿を取れたように、都の中には巡礼者たちへ過越の食事を提供する家々があったようです。むしろ「先生が、『弟子たちと一緒に過越の食事をするわたしの部屋はどこか』と言っています」と伝えただけで話が通じたことから、イエス様が律法学者たちと同等の教師であると認められていたことが分かるでしょう。
 弟子たちにとっては神殿の膝元で祭りの食事ができることはこの上ないお祝いです。しかしこれから捕えられようとしているイエス様を思いますと、あまりにも順序良くことが運ばれているのです。

 ご自分が死に向かって進むために備えられた道が目の前に敷かれています。滝に向かって流れてゆく川を留めることができないように、ベタニアで油を注がれた方は抗うことができないほどの勢いでその職務を全うしようとしていました。


2.裂かれた体と契約の血
 過越の食事の準備が昼間の内から手配され、いよいよ夕方になりました(17)。多くの弟子たちや関係者とともに巡礼の旅をしてきたのですが、ここでは側近である12人だけをイエス様は伴われました。
 本来であれば喜びに満ちた祭りの食事のはずなのです。ところがイエス様は「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている」と身内の誰かがご自身を裏切ることを予告されました。

 伝統的な式文と異なる運びに戸惑うように、弟子たちは「まさかわたしのことでは」と代わる代わる言い始めます(19)。裏切りの予告をする中でイエス様は弟子たちに、そしてユダにパンを渡されました(20、ヨハネ13:27)。
 ユダが出ていくとイエス様は残った弟子たちに新しい掟について明かされました(ヨハネ13:31-35)。共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書では主の晩餐の制定として記されています。

 十字架の直前に過越の食事で主が新しい掟すなわち新しい契約をお与えになったのは、裏切る者が席を外している時のことでした。ところで主が復活された日にも、弟子たちの中で一人だけ不在にしていた者がおりました。
 その時、トマスだけがどこかへ行っていたのです。自分だけが不在のときにイエス様が復活を弟子たちにお示しになったことは、イスカリオテのユダが席を立った後でパンと杯が与えられたのと重ならないでしょうか。

 トマスの心の中にはイエス様にお会いできなかったことの悔しさだけでなく、裏切り者だと疑われていることへの恐れや不安もありましょう。しかしイエス様は彼のために1週間後にまた同じように現れて、トマスの心の疑いを晴らしてくださいました。
 けれども本当はそのようなことをしなくてもトマスは他の弟子たちと一緒に主の晩餐を受けていますから、ユダとの違いは明らかであります。イエス様ご自身がパンを取って裂き「これはわたしの体である」と渡され、杯を「多くの人のために流されるわたしの血、契約の血」として飲ませてくださったからです。

 復活の主にお会いしたトマスは、この方が自分のために十字架上で体を裂かれ、また血を流して命を注いでくださったのだと知るわけです。イエス様を信じているとは言え、私たちもトマスのようにしばしば迷い、あるいは疑いを抱いてしまうことがありましょう。
 心からお委ねすることがまだできないという意味でのイエス様への疑いというものもあり得ますが、むしろ自分自身の罪深さに気づいて落胆することがあるのです。「本当は救われていないのではないか」と疑ってしまうことが多いようにも感じます。

 ときに世の中には「信仰など自分の心の中で信じていればよいのだ、心をしっかりと保って自分で聖書を読んでいれば教会に行かなくてもよいのではないか」とおっしゃる方もおられましょう。しかし私たちは重々承知しているとおり非常に迷いやすい者であり、サタンは狡猾にもそのような隙間をいつも付け狙っているのです。
 信仰が弱りそうなときでも既に自分が洗礼を授かった者であること思い起こすことで、聖霊を受けてキリストと一つに結び付けられている事実を認めることができます。また主の晩餐を教会が正しく執り行うことは既に弟子とされた者たちだけのためでなく、これからイエス・キリストを信じようとする者たちのためでもあるのです。

 「このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」と使徒パウロを通して示されます(コリント一11;26)。十字架上で裂かれたキリストの体と流された契約の血を覚えるとき、私たち自身について「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」のだと改めて思い知らされます(ヘブライ9:27)。
 生まれながらに神に背いているあなたの代わりに、罪のない方が十字架上で死んでくださったのだと告げ知らせるのです。この方が私の身代わりとなってくださったので、私たちは神の御前に出ることが許され、罪の告白と悔い改めをする機会を得たのです。

 「取りなさい。これはわたしの体である」「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」とご自身のすべてを弟子たちに明け渡し、イエス様は父なる神へ賛美の歌をささげながらオリーブ山へと向かわれました。いよいよこの先には十字架が待ち構えており、福音書が私たちに求めるのは主と共に歩む決心です。
 

<結び>
 「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」(コリント一11:26)

 主の食卓には一人で招かれるのではなく「弟子たち」として招かれます。この弟子たちもまた信仰を守っていくために、あるいは罪を犯してしまったことに気づいたときに、神の御前で身を裂かれるような苦しみを味わうことでしょう。
 一つのパンが裂かれ、一つの食卓からいただく、一つの教会です。教会は主の日毎に礼拝を守り、時を定めて聖礼典を執行します。一人一人もまた揺るがされないよう、主日礼拝と主の晩餐を守ります。

 共に交わり共に愛し、主の食卓を囲んで、キリストの裂かれた体と契約の血の恵みを受けています。こうして主の教会とそこに結ばれている私たちは、たとえ偽の教えが横行する時代であっても、主が再び来られる時まで福音の宣教と聖礼典によって正しい道をこの世に示すのです。
 「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。」(ヘブライ9:28)

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