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「キリスト共に苦しむ」マルコによる福音書14章27-42節

2022年10月9日
牧師 武石晃正

 季節が急に進んだようで、先週は秋を通り越して冬を迎えたかのように肌寒い朝がありました。夕方は実に秋の日は釣瓶落とし、ふと気が付くと辺りは真っ暗です。
 日の入りが早い分、この時期は東の空に低いうちから円い月影が赤く光って見えます。夜の長さが同じ春先と比べても、空気が澄んでいるせいか秋のほうが深夜には月明かりによる影がくっきり現れるようです。

 日本では月見の季節はもっぱら秋でありますが、イエス様のおられた地域と時代では春分を過ぎた頃の過越祭の月夜を楽しまれました。月齢にして十三夜、もし晴れていれば今日明日あたりの晩に同じ頃合いの月を見ることができましょう。
 煌々と輝く月明かりの下でオリーブ山へ出かけられたイエス様と弟子たちの様子を思いつつ、本日はマルコによる福音書から読み進めて参りましょう。


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1.つまずきの予告
 明るい月影と祭の気分に水を差すかのように、イエス様は弟子たちに重い口調で語られました。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。」(27)
 弟子たちにとっては寝耳に水、復活した後などと言われても何のことかさっぱり分からず戸惑うばかり。勿論イエス様におかれては弟子たちが理解できないのを承知でつまずきを予告なさったわけで、それゆえ「先にガリラヤへ行く」と時をお定めになったのです。

 思えば過越の食事において、主は裏切る者が同席していることを知った上でその契約の食事に弟子たちを招かれたのです。パンを食べ杯から飲まれた折には、イスカリオテのユダが内通者であるばかりでなく、他の11人も散り散りにご自分から去っていくことをご存じでした。
 たまりかねたペトロが口を開き「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました(29)。他の弟子たちの前に出しゃばったようにも見えますが、イエス様を追って大祭司の家まで行ったのは12弟子のうち彼だけでした。

 「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と皆の者も同じように言いました(31)。しかしペトロだけは予告されたとおりに知らないと三度言うことになろうとも、鶏が二度鳴くまではイエス様と目を合わせられるほどのところに留まっていたのです。
 12人の弟子のうち1人が裏切り、11人がそれぞれに独り子である神から離れて行きました。イエス様におかれては、これまでに一緒に過ごした3年間は一体何だったのかと嘆きたくなるような出来事です。

 つまずきの予告をしつつも、既にイエス様はご自身の体を指してパンを裂き、流される血潮を杯にたたえておられたのです。私たち人間が離れたり敵対したりするよりも先に、神様は私たちをご自分と和解させ、罪からきよめる手段を備えてくださいました。
 この時には弟子たちはまだ聖霊を受けていませんので、すべてを理解することは難しかったでしょう。けれども彼らがイエス様のお言葉を理解できなかった原因の一つは、誰が一番偉いのかと言い争っていたこともありました。

 彼らが聞いたことを理解できるとできないとに関わらず、イエス様は愛する弟子たちを伴ってゲツセマネへと向かわれました。


2.キリストの苦しみ
 ユダヤの教師の中でもその名門に師事したことがある使徒パウロが次のように手紙の中で述べています。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。」(コロサイ1:21)
 書簡は直接にはコロサイの信徒たちへ宛てられたものですが、「以前は」と言われていることがキリストを信じる前に限らないことが分かるでしょう。なぜなら使徒たちでさえ「羊は散ってしまう」と予告されたとおり、主から離れて行ってしまったからです。

 またここでは「あなたがたは」と二人称で記していますが、パウロ自身においてもかつては「教会を迫害したほど」の熱心によって神に敵対していた者でした。12弟子でさえ誰が一番偉いかと言い争って、肝心の神の子イエス様から心が離れていたこともあります。
 あるいは独り十字架に向かおうと道を定めたイエス様に向かって、来たるべき日に右と左に座らせてほしいと求める弟子たちがおりました(マルコ10:40)。この2人の弟子たちは知らずに願ったとはいえ道中で3度も引き渡されて殺されると聞かされていたのですから、早く十字架にかかってしまえと、つまり心の中で神に敵対していたともいえましょう。

 決して悪気がないつもりでも、神様に敵対していることはクリスチャンにも起こり得ることです。何事かが思い通りにならなかったときに「神様は祈りを聞いてくれない」と思うことはないでしょうか。あるいは願ったとおりに事が運ばないと「イエス様は私の祈りを聞いてくれない」と心の中でつぶやくこともあり得るのです。
 イエス様のお気持ちはイエス様にしか分からないことのほうが多いでしょう。それでも自分が間もなく死のうという時に誰も見舞いに来ないとか、われ関せずと知らぬふりをされることを思えば、その苦しみや情けない思いはいくらかでも想像できるところです。

 ローマの兵士らに力にまかせて痛めつけられ、十字架に磔(はりつけ)にされたことは正気が保てないほどの苦痛でした。これらの苦しみに増して、寝食を共にして愛の限りを尽くしたはずの弟子たちに見捨てられることは、主に孤独と失望を味わわせたでしょう。
 もし私たちがこの地上において不信仰な歩みをするならば、それは「キリストを知らない」と言うようなものです。私たちはもはや神から離れて再びキリストを苦しめることのないよう、日々に御言葉と聖霊の助けとをいただきつつ歩みます。


3.とりなしの祈り
 御自分のことを3度も知らないと言うことを知って、イエス様は弟子のペトロの信仰が無くならないように祈られました。そして「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とペトロにお命じになりました(ルカ22:33)。
 主から受けたことを人々に施すこと、教会に仕える働きです。同じように使徒パウロも「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」(コロサイ1:24)と自分の使命を明らかにしました。

 キリストの苦しみの欠けたところとは一体どういうことでしょうか。イエス様が十字架上で受けられた苦しみ、罪の贖いが不十分だったということではないようです。
 ゲツセマネでのイエス様のお言葉を思い起こします(マルコ14:32以下)。いよいよ捕らえられ十字架にかけられるに臨んで「わたしは死ぬばかりに悲しい」と告白し(34)、「この杯をわたしから取りのけてください」と祈っています(36)。

 何もイエス様が悪いことをしたから処刑されるわけではないので、これらの苦しみは全てご自身が愛しておられる者たちのために受けられました。そのご自分の肉体における苦しみと死によって私たちを御父と和解させ、御自身の前に聖なる者としてくださいました。
 この神との和解、とりなしの祈りをなしてくださる方が天に帰られたので、地上においては欠員が出ています。その欠けたところを満たす、つまり人を神と和解させ、神の前に瑕のない聖なる者とする働きが私たち教会に委ねられているのです。

 人は主キリストの教会を通してイエス様に出会い、主の体である教会を通して主に仕えます。パウロが一人でイエス様の代わりを果たすのではなく、私たちもイエス様が再び来られる時までその欠けたところを満たすのです。
 イエス様がゲツセマネで祈っている間、弟子たちは3度とも眠ってしまいました。ひどく恐れてもだえている主を見ながら、「知らない」と言っているようなものです。

 それでも主は「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。もうこれでいい。時が来た」と言って、ご自身が進むべき道へと向きなおられました。「見よ、わたしを裏切る者が来た」とおっしゃりつつも、罪人たちの手に渡したユダをも最後まで弟子として向き合われる主のお姿がここに記されています。


<結び>
 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」(38)
 肉体は滅びます。死に向かっていくのです。しかしキリストと共に苦しみを負って、自らに死んだ者は、新生の恵みに与かって魂すなわち内なる人が日々新たにされます。

 弟子たちも私たちも主の契約によってその死を告げ知らせる者となり、復活の福音と再臨の希望を携えて歩む者とされました。そして「キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています」と、神の御言葉を余すところなく伝えるという務めが私たち一人ひとりにも与えられています。
 「父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈ります。和解の務めを果たすためにキリストと共に苦しむ者は、新生と復活の恵みを得ています。

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