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「天にある大きな報い」マタイによる福音書5章1-12節

2022年10月16日
牧師 武石晃正

 教会暦ではペンテコステの後に5か月も続く聖霊降臨節ですが、今年も早いもので今週までとなっております。聖霊降臨節はペンテコステにおいて神の霊が天から降ったことを覚えるばかりでなく、むしろそこから始まった教会の働きを思い巡らせます。
 教会の働きと申しましても、私たちにとって個人的な事柄も含まれています。イエス・キリストを自分で信じたように思っていても、何らかの方法であなたに福音を伝えたその人は教会を通して主に遣わされたのです。

 稀に教会とは直接のつながりがなくとも、書籍や映画などによってイエス様を求めるに至った人もおられるでしょう。ところが著作物の原作者や製作者の内にも主の聖霊が働いており、これらの人々もまたキリストの体である教会に関わっているのです。
 聖書が神の言葉であることを確証させるのも聖霊によるものであり、信仰告白と共に教会へ委ねられました。御言葉を通してキリストを信じた者に聖霊が与えられ、同じく聖霊に満たされている主の教会に結び付けられます。

 聖霊によって教会を通して、地上に生きている間も私たちの本国は天にあることを覚えます(フィリピ3:20)。本日は「天にある大きな報い」と題してマタイによる福音書から読み進めて参りましょう。


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1.天の国の教え
 イスラエルの国の北部にあるガリラヤ地方でイエス様は弟子たちを召し集め、天の国を宣べ伝えられました。ガリラヤの町々で教えを説かれ、多くの病人たちをお癒しになるにつれ、噂を聞いた人たちが方々からやってくるようになりました(4:23-25)。
 当時のユダヤではある種の病は先祖の誰かが犯した罪の結果であると思われておりましたので、町の中にいてはこれらの人々が不自由な思いをするでしょう。そもそも群衆と言われるほどの大人数が地方の集落に押し寄せては大変な迷惑となりましょうから、イエス様はこの群衆を見て山に登られました(1)。

 群衆はイエス様を遠巻きにしながら癒しや奇跡を待っていますが、弟子たちは近くまで寄ってきました。きよめが済んでいない者たちとの間にある程度の隔たりを設けられていたことは、多くの人たちの誤解やつまずきを避けることでもありましょう。
 弟子たちを訓練して天の国の教えを説き、イエス様はこれから彼らを町々へと遣わされます。山上の説教は弟子の心得であり、同時に彼らが遣わされる先々で語るべき教えであるわけです(5-7章)。ナザレのイエス一門の説教集とも言えましょう。

 イエス様がこれらの説教を弟子たちに伝授したのは紀元30年頃のことですが、福音書としてまとめられたのはそれから30年ほど後になります。イエス様より直接に教えを受けた世代の人々が一人また一人とこの世を去り始めた頃合いです。
 当初はイエス様の御教えを弟子たちが口伝えにしながら孫弟子たちを育てたのですが、教会への迫害が強まるにつれ殉教者も増えていきます。次の世代へ福音を正しく伝えるために主の召しを受けた人たちが聖霊に促されて筆を執り、教会が聖霊の導きによって福音書として受け継ぎました。

 ガリラヤの山辺で弟子たちと群衆がイエス様から直接に聞いた数々の教えが書き文字で保存されました。それらが教会の中でイエス様のお言葉として読み上げられ、福音書から聞いた者も新たな弟子として山上の説教を携えて遣わされたことでしょう。
 その中の一つとして今日ここに詠まれているのが「幸い」の教えです。八福の教えなどと呼ばれることもある箇所ですが、3節から10節まではそれぞれが対句で詠まれている詩文のような成り立ちです。

 8通りの幸いが説かれつつも、1番目と8番目がともに「天の国はその人たちのものである」と詠まれております。ちょうど円を描くように一回りして収まります。
 これら8つをもって1つの真理が説かれていると言えましょう。つまり「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(11)ということが教えの芯となっているのです。

 広く一般に群衆へ向けて語られたのではなく近寄って来た弟子たちに向けてイエス様は説かれています(2)。これからご自分の弟子として仕えようとしている者たちを励ましつつ、心得と覚悟とを授けられました。
 これからイエス様に従うおうとする者はみな、人々からののしられ、迫害され、身に覚えのないことで悪口を言われることでしょう。これらの迫害を受ける中で息苦しさや悲嘆を覚え、物事を主張できず、不当な扱いを受けることなどがキリストの弟子である証拠のようです。

 そして幸いである理由は受ける報いによるところですが、それらも「天の国はその人たちのものである」ということの内訳です。これらの8つの幸いは「天には大きな報いがある」ことの前触れであると言えましょう。
 「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された」とイエス様はおっしゃいましたが、実際にはまずご自身が迫害をお受けになられました。私たちがイエス様のためにののしられ迫害される時、イエス様も共に苦しみを引き受けてくださいます。

 神の子として生きることは天の国を自分の本国とすることです。神に逆らうこの世から虐げられ追い出されるので、天にある大きな報いを受けることができるのです。


2.天の国はその人のものである
 天には大きな報いがあるとして、あるいは天の国はその人たちのものであると言われて、事実どのような報いを受けることができるのでしょうか。迫害に遭っても最後までキリストに従った者たちがどのような報いを受けるのか、ヨハネの黙示録に記されています。
 「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、大声でこう叫んだ。」(黙示録7:9-10)

 世の終わりに起こる出来事についてヨハネが神の霊によって幻を見せられています。いくつかの出来事について見たうえで「この後」と記しています。この白い衣を身に着けて神の前に罪がない者とされた大群衆は一体どこから来たのでしょうか。
 「彼らは大きな苦難を通って来た者で、その衣を小羊の血で洗って白くしたのである」(同14)と言われており、この小羊とはすなわち全ての罪の犠牲となられた神の小羊、救い主イエス・キリストです。キリストが十字架の上で流された血、独り子である神のいのちによって罪の代価が支払われたので罪とけがれが洗い清められました。

 キリストの十字架の血がどうしてこれらの人々に及ぶのでしょうか。「大きな苦難を通って来た者」と言われたように、彼ら自身が迫害を受けたことによってキリストの苦しみを身に負ったことによるのです。
 十字架を遠くから眺めているだけ、あるいは聖書の話を聞くだけ聞いただけの人がその衣を小羊の血で洗って白くされることができるでしょうか。山上の説教を聞いた弟子たちたちでさえ、ゲツセマネの祈りの後で皆それぞれに逃げ出したほどです。

 主が葬られて3日目に死人のうちよりよみがえり、弟子たちは復活したイエス様にお会いしました。すべてを説き明かされた後に約束の聖霊を受けた彼らは、ユダヤとサマリアの全土から地の果てに至るまでキリストの証人として遣わされました。
 一度は逃げ出した者たちでしたが復活の主に出会い、主の聖霊に満たされてキリストと共に苦しむ者と変えられました。イエス様が8つの幸いとして予告されたことが弟子たちに成就したのです。

 弟子たちが受けた幸いは何でしょうか。当時のローマの市民権は多額の金を出してようやく得ることができたと言いますが(使徒22:28)、天の国のそれはこの世では手に入れることができないのでキリストが命をもって支払ってくださったのです。
 時に私たちも迫害や困難に窮して信仰の道から逃げ出したくなることもあるでしょう。「天の国はその人たちのものである」との約束を思い出し、主がお示しくださった幸いに立ち返ることができるのです。


<結び>
 「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」(12)

 幸いな者は誰でしょうか。天の国はその人たちのものであると主ご自身のみことばをいただいた者たちです。
 言葉として聞いただけでなく、心で信じて、イエス・キリストの苦しみを自分のものとして生きる人です。「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」のです。

 その幸いとは天には大きな報いがあることであり、神の国を自分のものであると信じることができる特権です。キリストを信じた者に聖霊が与えられ、地上においては教会に籍を置かれることによって天においても神の民として生かされている恵みに与ります。
 主が再び来られることを待ち望むにあたり、いよいよ来週から降誕節前の週が始まります。この世にあるかぎり悩み苦しみが尽きることはないとしても、天にある大きな報いに望みをおいて歩みます。

 イエス・キリストの弟子として神の国の福音を携え、愛のわざに励みましょう。

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