「生ける神に立ち返る」ルカによる福音書12章13-34節
2022年10月23日
牧師 武石晃正
10月も半ばを過ぎますと日の入りも随分と早くなったように感じられます。このまま昼間が短くなる冬至を迎えるとクリスマス、教会暦が一巡りいたします。
主イエス・キリストの体である教会の暦として降誕節から1年が始まり、公現日より公生涯を覚えつつ受難節から復活節を経ます。天に上られた主を覚えつつ、ペンテコステからの聖霊降臨節には教会の時代について思いめぐらし、いよいよ「主の来たり給うを待ち望む」待降節で一回りするのです。
待降節に先立って今週より降誕前主日を数え、改めてイエス様が世に来られたことをお迎えする備えもいたします。かつて神の民イスラエルが救い主メシアを待ち望んだように、キリストを頭とする教会もまた主を待ち望む者とされました。
本日はルカによる福音書より「生ける神に立ち返る」と題して思いめぐらせましょう。
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牧師 武石晃正
10月も半ばを過ぎますと日の入りも随分と早くなったように感じられます。このまま昼間が短くなる冬至を迎えるとクリスマス、教会暦が一巡りいたします。
主イエス・キリストの体である教会の暦として降誕節から1年が始まり、公現日より公生涯を覚えつつ受難節から復活節を経ます。天に上られた主を覚えつつ、ペンテコステからの聖霊降臨節には教会の時代について思いめぐらし、いよいよ「主の来たり給うを待ち望む」待降節で一回りするのです。
待降節に先立って今週より降誕前主日を数え、改めてイエス様が世に来られたことをお迎えする備えもいたします。かつて神の民イスラエルが救い主メシアを待ち望んだように、キリストを頭とする教会もまた主を待ち望む者とされました。
本日はルカによる福音書より「生ける神に立ち返る」と題して思いめぐらせましょう。
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1.神の前で豊かになる者
福音書の中でイエス様を取り巻く人々にはいくつかの立ち位置がありまして、最も近くに招かれていたのが12人の使徒たちです。使徒たちを含めてイエス様の教えを聞いて従う者たちが弟子と呼ばれており、その時々に集まって来る者たちは群衆と記されています。
13節は冒頭から「群衆の一人」としてある人が登場します。つまり福音書はこの人がイエス様と問答をするけれども聞き入れずに去って行った者であると示しているのです。
ですから13節から21節までの部分については、イエス様の教えを聞いても離れて行ってしまうような者の考え方として示されていると言えます。翻って22節には「弟子たちに言われた」とありますから、33節までの教えはたとえ「信仰の薄い者たちよ」(28)と呼ばれようとも御言葉に従って生きる者たちへの勧めであります。
さてこの群衆の一人が申し出るところは「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」というものです。当時の律法学者たちはユダヤの言い伝えや律法に照らして人々の相談や仲裁などにも携わっていたようですので、ラビすなわちユダヤの教師であるイエス様にこの話を持ち込んだこと自体は筋が通っているようです。
ところがこれと似たような申出が福音書の中にありまして、少し後の章においてたとえ話の中に見られます。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった」というくだりです(15:11-12)。
教えを説くためのたとえとして用いられているわけですから、ごく当たり前の一般的なことであるか極端な事例であるかどちらかです。遺産を分けることは一般的ではありますが日常茶飯事ということでもありませんので、たとえにおいては後者でありましょう。
ユダヤの人たちがラビに向かって律法に関する相談を持ち掛けるのは当たり前のことでしょうし、私たちがイエス様を信頼して何事でも包み隠さず祈ることは神の子とされた者の特権です。ところが何事でもイエス様に信頼すると言うときに、求めていることや動機そのものが正しくないとことも考えられます。
「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」とイエス様はこの群衆の一人の申出を断られました(14)。そしてもはやこの人のことは取り合わず、一同に向かって戒められたということです
いわば先の一人の申出は見当違い、的外れだったと言えましょう。そしてこの的外れという言葉は、聖書において「罪」と訳されている単語に相当します。
熱心に祈り求めているようでも的外れであれば、聖書ではそれが罪になります。なぜ神の民でありながら見当違いの的外れ、罪を犯してしまうのでしょうか。
それは「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」とイエス様が言われるように、財産や蓄えといったこの世のものにこだわる貪欲さによるのでしょう。先の遺産の件についても願い出たのが神の民イスラエルの人であるにも関わらず、神の子イエス様が否まれたのは彼が自分のために富を積もうとしたからです。
偶像を拝まずとも、人を殺めることがなくとも、たとえキリストの教会で毎週の礼拝に出席しるいとしても、神の目に罪とされることがあるのです。願い求めるところが見当違いで的外れである例として、イエス様はある金持ちのたとえを説かれました。
ここでは農地を所有することや豊作を得ることが罪であると言われているのではないのです。穀物や蓄えというこの世の富を自分の頼りとし、「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ」と神様ではなく財産を生涯の支えとしたことが咎められているのです。
先の遺産を求めた人についても財産に信頼することが世の富を自分の神とすることになり、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」(出20:3)という十戒を第一戒から破ったことになるのです。あなたが今日もし「今夜、お前の命は取り上げられる」と神様からお声が聞こえたなら、その備えができているでしょうか、それとも「神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と御前から退けられてしまうでしょうか。
神の前に豊かになる者となるためにイエス様は「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と戒められました。使徒パウロも手紙の中で「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2:3-4)と教会に勧めています。
2.富を天に積みなさい
遺産の件で申し出た人は恐らくイエス様が一同に向かって教えておられる間に群衆の中に紛れてしまったことでしょう。そこでイエス様はその人からも群衆からも向き直って、弟子たちへ天の御国について説かれました(22)。
「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」との教えは、食卓や身だしなみを整えることを言われているのでしょうか。「烏のことを考えてみなさい」と身近な生き物を引き合いに出していますから、ここでは普段の生活や営みにおける心得について語られています。
「あなたがたのうちのだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか」と、倉を建てた金持ちのたとえとの類比です。イエス様が烏のことを心配して語られたわけではなく、野の花についても然りです。
人間は家畜を養い、水を引いて田畑を潤しますが、天の父はあらゆる動植物を支配し養っておられます。これほど大きく想像も及ばないほどの偉大な神様であるのに、この方に向かって人はいったい何を願い求めているのでしょうか。
「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」(32)というのに、衣食住といった消えてなくなるものを創造主なる神に求めるとは見当違いというものです。この方がどなたであるかを知らない人は「かみさま」と聞いて自分の願いが叶うように求めますので、まさに「それはみな、世の異邦人が切に求めているものだ」と言われているとおりです(30)。
弟子たちがユダヤ人であるのにこの世の異邦人と同じように求めていたのであれば、生まれながらの異邦人である私たちはどれほど考え違いをしやすい者でしょうか。ある人たちはキリストの名による奇跡を目の当たりにしても自分たちの価値観で評価しました。
使徒言行録のなかでパウロとバルナバがある町で生まれつき歩けない人を癒したことがあります(使徒14:8以下)。その奇跡を見た人々はイエス様のお名前による奇跡であるにも関わらず、「神々が人間の姿をとって、わたしたちのところにお降りになった」と勝手な解釈をしたのです。
これはイエス・キリストの恵みによる御業でさえ偶像崇拝の対象となり得るという一つの例です。偶像とは人間の理想や願いをかたちにしたものですから、教会に通って聖書を毎日読んでいる者であっても、自分勝手な思いによる祈りと願いによってイエス・キリストという名前をつけた偶像を心の中で作ってしまうことさえあり得るのです。
聖霊の導きなしには祈りでさえも偶像崇拝という罪に至ることもあるのです。「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです」とのパウロの言葉が響きます(15)。
ルカによる福音書に戻りますと「ただ、神の国を求めなさい。そうすれば、これらのものは加えて与えられる」(14:31)とのイエス様のお言葉です。この世の富を求めて祈ることのないよう、「尽きることのない富を天に積みなさい」と命令を覚えます(33)。
一人ひとりが独善的な信仰にならないように教会は主の日ごとに礼拝を捧げ、時を定めて聖餐の恵みにあずかって生ける神に立ち返るのです。「あなたがたの父は喜んで神の国をくださる」とのお約束をしっかりと握ります。
<結び>
「あなたがたが、このような偶像を離れて、生ける神に立ち帰るように、わたしたちは福音を告げ知らせているのです。」(使徒14:15)
独り子である神が世に来られる際、御自分の権威と豊かさ、神としてのあり方を全て天に捨て置いてきてくださいました(フィリピ2:6)。天の富を携えたままでは人間として罪の世にお生まれになることができなかったからです。
御子は世に降り、「あなたがたの父は、これらのものがあなたがたに必要なことをご存じである。」(30)と身をもってお示しになられました。神が人となって世にお生まれくださったことの意味を降誕前の主日ごとに改めて思い巡らします。
最後にもう一度、心の内で吟味しながらイエス様のお言葉を受けましょう。
「あなたがたの富のあるところに、あなたがたの心もあるのだ。」(33)