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「神の民の選び」ルカによる福音書3章1-14節

2022年11月6日
牧師 武石晃正

 本日は聖徒の日記念礼拝として主日礼拝を行い、地上において神の民とされキリストと共に生涯を送った人たちを覚えます。これらの方々の魂はすでに天の御国にありますからなんらかの弔いを必要とはせず、むしろ地上においてキリスト共に歩む者がキリストの死と復活の恵みに与ることを覚えます。
 朗読いたしましたルカによる福音書を中心に、「神の民の選び」と題してご一緒に思いめぐらせましょう。


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1.神の民が置かれている世界
 ルカによる福音書はイエス・キリストが天に帰られた後に、その弟子たちから証しを聞いて信仰の道に入った医者ルカが取りまとめたものです。紀元1世紀半ばのローマ帝国が支配する一帯において、かなりの広範囲へ急速に広まったユダヤ教の一派について記した2巻の続き物です。
 世を騒がしている集団の成り立ちと活動について使徒言行録に記されており、彼らが信奉するナザレ人イエスについて福音書で述べられています。「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました」(1:3)と書き出されているのは、巷ではこのキリスト者と呼ばれる者たちについて噂が噂を呼び憶測が憶測を呼ぶので定かな情報を得るのが容易でなかったことを匂わせています。

 ガリラヤから始まった「ナザレ人の分派」(使徒24:5)は同族であるユダヤ人からも異端視され、追放と迫害を受けました。世間一般から見ればいかがわしくも怪しい集団、当時の新興宗教だったと言えましょう。
 ところが邪宗と見られている一方で、誠実で穏やかに生きる人たちの姿がありました。「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず」(Iペトロ2:23)との生き方は、実に彼らが信奉しているナザレの人イエスそのものだったのです。

 また時に医者に見放されたような病人でさえイエスの名によって癒され、あるいは家族を死の淵から取り戻した人々の証しがありました。これらについてルカは自らもキリストを信じた者として、敬愛するテオフィロという人物への報告を取りまとめたのが福音書と使徒言行録です。
 物事を正しく書き著すためにはいくつかの要点があるかと思いますが、いつどこで誰が何をしたのかが明確であることが望まれるでしょう。ルカはローマ皇帝の年号だけでなく、地域の為政者たちの名を並べることで当時のパレスチナの情勢を示しています。

 3章1節だけでもかなりの情報が詰め込まれています。パレスチナにはまだイスラエルが国として存続しており、ローマ帝国の統治下にあったのでピラトが総督として駐留していました。このピラトによってナザレの人イエスが十字架に掛けられることになります。
 ヘロデという一族が兄弟3人で領土を分割して統治しておりましたから、パレスチナの情勢は当時も非常に不安定だったようです。ユダヤの人たちはローマ帝国から宗教上の自治権が認められ、自分たちで大祭司を擁することができました(2)。

 時代の波に翻弄される小国イスラエルの姿です。かつては偉大な王が立てられ、東はメソポタミア、南はエジプトとの境まで支配していたとはにわかには信じがたい落ちぶれようが暗に示されます。神の民、契約の民とは見る影もないといったところです。
 このような時流の中にザカリヤの子ヨハネすなわち洗礼者ヨハネが現れました(2)。旧約の預言者のような風貌と荒れ野で叫ぶその様は、教えと併せてローマ各地へ離散しているユダヤ人にも噂が一早く伝わりました。

 ローマ皇帝から洗礼者ヨハネまでを結んだことで、ルカは当時のユダヤの歴史的背景と宗教的事情を一つにつなげました。ところが21世紀の日本に生きる者にとってはあまり関心のある内容とは言い難く、よその遠くの人の話です。
 歴史があり生き方があるという点においては、礼拝堂に並べられた写真によって偲ばれる方々も同様です。今日はじめて礼拝に来られた方にとっては遠くの話のようであっても、この方々が生きてこられた時代がありその信仰の生き方があるのです。

 写真はいつか廃れていきますが、信仰の歩みは神の御前にまで至ります。この人々はイエス・キリストを信じ、神の霊によって生まれ変わった者、神の民となりました。
 地上において神の民とされた者は信仰の歩みを通してキリストの恵みの証しします。そして世を去るときは父なる神の御前で憩うことが約束されているのです。


2.地上における神の民
 イスラエルの民は天地の創り主、全能の父なる神様から一方的に選ばれて契約が与えられました。「わたしはあなたを大いなる国民にし あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12:2)とアブラハムを選び、その子孫へ約束が受け継がれました。
 この神の民に向けて洗礼者ヨハネが預言者として遣わされました。「ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」とあるとおりです(3)。

 人は神の御前で悔い改めることで罪が赦され、バプテスマを授かることで神の霊を受けます。神の民であっても常に罪の悔い改めときよめを必要とし、むしろ神の民であるからこそ立ち返る先を知っているのです。
 多くの人々はヨハネの教えを聞き、悔い改めのバプテスマを受けました。特にイエス様の出身であるガリラヤ地方にヨハネの支持者や信奉者が多かったようです。

 その一方でヨハネの教えに耳を傾けるでもなく、単に人目を気にすることで洗礼を受けようとする者たちもおりました。そこでヨハネは「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と彼らを厳しく戒めました(7)。
 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8)と言われているとおり、この群衆と呼ばれる人たちは口では罪を告白しても生き方を改めてまでは神に従おうとはしない人たちです。彼らは生まれながらに選民すなわち神の民なので、悔い改めなど必要ないと考えたのでしょう。

 そこでヨハネは「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」と続けます。
アブラハムの子孫である以上は神の選びの民でありますから、群衆はこの民族この家に生まれたことを神の御心として生きてきました。
 さて福音書を記したルカは当時のユダヤ人の宗教心について物申したくて筆を執ったのでしょうか。テオフィロという宛先はあるものの、当時の教会の人々へ神の救いの計画を明らかにするために福音書は記されたのです。

 救い主であるイエス・キリストが天の御国へ帰られてから20年30年と経ちますと、イエス様を直接には見聞きしたことがない世代が増えてまいります。中には親がクリスチャンだということで自分が生まれながらに神の民であると考える者もあったでしょう。
 もちろん生まれてくる者はどの民族のどこの家であるかと選ぶことはできませんから、神様が選んでくださったことは確かです。生まれてくる子どもが御言葉によって育まれ、キリストの福音にいち早く触れることができたのも主の深い恵みのうちにあることです。

 もう一度「『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな」とのヨハネの言葉を思い返します。言うなれば「私の親はクリスチャンだ」ということだけでは神の御前に悔い改めたことにはならないのだと、読み替えることもできましょう。
 「わたしたちはどうすればよいのですか」(10,12,14)と尋ね求めた者にだけヨハネはそれぞれに答えを返しました。今までの生き方や考え方を改めて、一歩踏み出すことによって「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言われたことがその人の内に起こるのです。

 ユダヤの人たちはヨハネを通して語られた御言葉を聞き、そこで初めて悔い改めの必要に気づかされました。私たちも誰一人として自分から神を求めた者はおらず、必ずどなたか主から遣わされた方から御教えを受けたのです。
 御前に悔い改めることも知らないないまま生まれた者を救うために、主は十字架の贖いだけでなくそれを伝える人をもお選びになって備えてくださいました。私が自分で決めてイエス・キリストの十字架の福音を信じたように思っていましたが、このような小さな者をも神の民とするために最もふさわしい道を神様が選んでくださったのです。

 ある人にとってはそれが親であったり、ある人にとっては幼稚園や学校の先生であったり、あるいは直接に教会からの誘いであったりするでしょう。自分からキリストを選んだのではなく、キリストが私を選んで神の民としてくださったことを覚えます。
 今なお地上における歩みの中で互いに祈り合い励まし合うことができる方もおれば、既にこの世を去って主のみもとへお帰りになられた方々もおられます。すべての聖徒たち、先に神の民に加えられ方々の「悔い改めにふさわしい実」としてキリストの福音が宣べ伝えられ、新たな神の民が生まれ育ちました。
 

<結び>
 「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)
 神の民の選びはその人だけでなく、家族にも及びます。神の民として選ばれているという神の招きをあなたは自分のものとして受け取っていますか。

 今日ここに導かれていることそのものが神の招きであり選びです。キリストを信じる者に永遠の命を下さるとの約束を受け取った者が、神に選ばれた民とされるのです。
 そのために先に遣わされ道を進んでくださった方々がおられたことをここに覚え、彼らを選び私たちをお救いくださった主イエス・キリストに感謝の祈りを奉げます。

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