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「生きている者の神」ルカによる福音書20章27-40節

2022年11月13日
牧師 武石晃正

 先日の教会学校で生徒さんから挙がった質問を一つ紹介しましょう。「どうして王様はモーセの造った青銅の蛇を打ち砕いたのですか」と、あのモーセが造った物であればなぜ壊さなければならないほどの罪になったかという疑問です(列王下18:4)。
 たしかにモーセはある事件に際して蛇の形をしたものを造りました(民数2:19)。ところが後の時代になってイスラエルの人々がその復刻版を造り、外国の神々と同じように拝むようになったので偶像崇拝の対象となってしまったのです。

 たとえ聖書に書いてあることであっても、自分勝手に用いたり間違った解釈を施したりすれば罪になることがあるのだと手短に回答しました。質問をした生徒さんはうなずいて納得した様子でしたが、礼拝者の皆さんはいかがでしょうか。
 本日はルカによる福音書からモーセの律法に関してのイエス様とユダヤの人々との問答を朗読しました。この箇所より「生きている者の神」と題して読み進めて参りましょう。


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1.復活を否定する人々
 福音書に登場するユダヤの人たちにはいくつかの立場や身分が見られます。律法学者たちやファリサイ派の人々はイエス様の初期のガリラヤ宣教から論敵として登場します。
 サドカイ派について新共同訳聖書の巻末にある「用語解説」を見ますと「ファリサイ派と共にイエス時代のユダヤ教の2大勢力で、祭司や上流階級を代表していた」と説明されています。祭司や上流階級ですので地方よりも都やその周辺に多くいたのでしょう、福音書にはイエス様が最後に都へ上る途中のこの時だけサドカイ派の人々との問答があります。

 「復活があることを否定するサドカイ派の人々」(27)と呼ばれている彼らがモーセの律法についてイエス様へ質問をしました。申命記には「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない」(申25;5)と書かれています。
 現代の日本ではなかなか受け入れがたいことでありますが、旧約の律法は血筋や系図によって神様からいただいた契約が有効とされます。「彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(同6)という大切な目的があったのです。

 ところがサドカイ派の人たちは「七人の兄弟がいました」と面倒な例を挙げて、長男をはじめ七男まで亡くなったらどうなるのかと尋ねました。これは当時のサドカイ派の流儀における問答の一つだったのかも知れませんが、なんとも意地悪に思われるものです。
 この問いのようなことが実際に起こったならば、7度も夫を亡くしたこの女性は本当に気の毒です。サドカイ派の人たちは「死んだら終わりなんだ、諦めなさい」と声をかけるのでしょうか。

 「すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです」(33)とは、モーセの律法を理解しようとせずに言葉尻を捕らえるものです。もし復活があるなら一人の女性が7人の夫を持つことになるが、モーセはそのような理不尽なことを命じたと言うのか、そんなはずはないだろうという主旨です。
 冒頭で取り上げた青銅の蛇の件も然りですが、モーセの権威や律法そのものに間違いがあったわけではないのです。聖書の言葉に誤りがあるのではなく、その読み方や用い方に何らかの歪みや誤解が生じることがあるわけです。

 思えばこのサドカイ派の人々は本心から復活のことを知りたくて質問を投げかけたのではなく、モーセの権威を借りてイエス様を陥れようとしたまでです。旧約聖書の箴言にある「曲がった言葉をあなたの口から退け/ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ」(箴4:24)と戒めは、神の言葉でさえ曲がった言葉に変えようとする者たちのためにあるようです。
 本来であれば神の民であるサドカイ派の人々ですが、信じようとしない人は聖書の言葉を用いてでさえも神様の力を信じようとしないものです。マタイによる福音書ではイエス様が「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」と、憤りを通り越して嘆きともとれるお答えをしています。

 「論語読みの論語知らず」ということわざがありますが、せっかく信仰をいただいて礼拝に連なっていても「聖書読みの聖書知らず」ではもったいないことです。使徒パウロが「文字は殺しますが、霊は生かします」(二コリント3:6)と記しているように、私たちは神の霊の助けをいただいて御言葉に正しく生きるのです。

 
2.復活にあずかる者として
 「この世の子らはめとったり嫁いだりするが」(34)とイエス様は口を開かれましたが、「この世の子ら」とはすなわち「あなたがた」と読み替えることもできましょう。律法さえも曲がった言葉にしてしまう人たちを「復活するのにふさわしいとされた人々」の括りから除かれたことが読み取れます。
 純粋に神の国と神の義を求める質問であればまっすぐにお答えになり、律法学者やファリサイ派の人々は少なくとも聖書を追求しているので議論を交わされます。イエス様に置かれても福音書の記者たちにおいても、御言葉を曲げたりひねくれた言葉にしたりするような者たちを取りあおうとしないようです。

 翻って、復活するにふさわしいとされた人々については続けて「もはや死ぬことがない」「神の子だからである」と言われています。キリストが「神の子となる資格」をお与えになるのは、ご自分を受け入れてその名を信じる人々です(ヨハネ1:12)。
 神の国については子ども祝福式の中でも読みましたように、「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」とイエス様が言われています。私たち自身が神の国を正しく受け入れていることよって、子どもたちや次の世代へとキリストの福音を伝えることができるのです。

 話を戻しますと、「柴」の箇所とは聞きなれない呼び方です。これはモーセが神様の召しを受けた出エジプト記を指しており、「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた」と書かれている箇所です(出3:2)。
 神様ご自身がモーセに対して「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と名乗られました(同6)。信仰によって、アブラハムは、試練を受けたとき、イサクを献げました(ヘブライ11:17)。

 このアブラハムは神様が人を死者の中から生き返らせることもおできになると信じ、イサクを返してもらいました(ヘブライ11:19)。アブラハムの信仰は彼自身だけでなく息子イサクを死から救い、イサクの祈りがヤコブすなわちイスラエルの祝福へと結ばれました。
 死んでいる者がどうして神を呼び求めることができるでしょう、実に「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神」なのです。「すべての人は、神によって生きているからである」とのお言葉どおりに信じている者が、「復活にあずかる者として、神の子」なのです。

 人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっています(ヘブライ9:27)。私たち自身はまだ復活を見ていませんが、キリストが十字架上で私たちの身代わりとなって死んでくださり、3日目によみがえられました。
 アブラハムが死者の中からイサクを取り戻し、天の父が御子を死者の中からよみがえらせました。アブラハムの神、イサクの神であり、イエス・キリストの父なる神こそ、信仰によって生きている者の神です。


<結び>
 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」(38)
 キリストが十字架上で死んでくださったので、この方をよみがえらせた聖霊の恵みによって私たちは生きる者とされました。サドカイ派の人々ばかりでなくこの世は信じないかも知れませんが、実に「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」(コリント一1:18)。

 信じてもいない事柄を求めることはできないように、神の恵みを受けずしてどうして子どもたちへ伝えることができましょう。どなたをどのように信じているのかがその人の生き方として現われ、その信仰は本人だけでなく子どもたち、次の世代を生かすのです。
 救い主イエス・キリストは死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。

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