「王の職務」ルカによる福音書23章32-43節
2022年11月20日
牧師 武石晃正
11月は幼児祝福式が終わるとみふみ認定こども園では一足早くアドヴェントに入ります。今年も園舎からクリスマスにかかわる音楽や歌声が聞こえてくる季節となりました。
園の先生たちとアドヴェントのための学びをした折には、宿屋や家畜小屋のことでちょっとした質問がありました。幼い子どもたちのページェント(降誕劇)とは申しましても、その指導に携わった担任の先生の心の中に御言葉の一片が残っていました。
印象的な存在としては東の国の博士たちも挙がります。彼らはエルサレムを目指してメソポタミアの地域から道のりにして1000km近くもあろうかという陸路をやってきました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(マタイ2:2)と王宮と尋ねた彼らは、新しい王への貢として黄金、乳香、没薬を宝の箱にいれて携えておりました。本日はルカによる福音書を開きつつ、ユダヤ人の王としてお生まれになった方イエス・キリストの「王の職務」についてその一面に尋ね求めましょう。
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牧師 武石晃正
11月は幼児祝福式が終わるとみふみ認定こども園では一足早くアドヴェントに入ります。今年も園舎からクリスマスにかかわる音楽や歌声が聞こえてくる季節となりました。
園の先生たちとアドヴェントのための学びをした折には、宿屋や家畜小屋のことでちょっとした質問がありました。幼い子どもたちのページェント(降誕劇)とは申しましても、その指導に携わった担任の先生の心の中に御言葉の一片が残っていました。
印象的な存在としては東の国の博士たちも挙がります。彼らはエルサレムを目指してメソポタミアの地域から道のりにして1000km近くもあろうかという陸路をやってきました。
「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」(マタイ2:2)と王宮と尋ねた彼らは、新しい王への貢として黄金、乳香、没薬を宝の箱にいれて携えておりました。本日はルカによる福音書を開きつつ、ユダヤ人の王としてお生まれになった方イエス・キリストの「王の職務」についてその一面に尋ね求めましょう。
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1.弟子たちが求めた王座
ナザレの人イエスが弟子たちを率いてガリラヤ地方を中心に神の国を説いて回った後、北のはずれにあるフィリポ・カイサリアに退かれました。そこで3人だけを伴って上った高い山で律法のモーセと預言者エリヤと語らい、エルサレムへと進路を定められました。
神の都エルサレムへと向かうにあたり、弟子たちはイエス様がいよいよイスラエルの王となられるものと考えていたようです。エルサレムを目前にして「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す」(マルコ10:33)と覚悟のほどを示されたにもかかわらず、ある者たちは自分たちの権力を求めて「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願い出たというのです(同37)。
「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」と答えたイエス様は、続けて「わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない」とおっしゃいました(同40)。殺されるために引き渡されようとしている時に、栄光だの右や左の座だの構っていられない、知ったことではないという響きのようです。
栄光をお受けになるときとは一般には王位に就くときか、あるいは戴冠式のことを指すでしょう。イエス様が「ユダヤ人の王」と呼ばれたのは降誕記事にある東方の学者たちによるか、ローマの総督ポンテオ・ピラトによるものでした(23:3)。
ポンテオ・ピラトの配下にあるローマの兵士たちは茨で冠を編んでイエス様の頭に載せ、晴れ着を着せたうえで「ユダヤ人の王、万歳」と言って、平手で打ったというのです(ヨハネ19;2-3)。 弟子たちが求めた王座とは大違い、とんだ戴冠式となることはイエス様だけがご存じでした。
2.ユダヤ人の王
少し遡ってイエス様が都に上られた中での話をいたしましょう。その週はちょうどイスラエルの建国記念ともいえる過越祭の最中でした。
過越は主がモーセを通してご自分の民イスラエルをエジプトの国、奴隷の家から導きだされたことの記念です。屠られた小羊の血が門の柱と鴨居に塗られた家だけを主の災いが過ぎ越していったので、イスラエルの民だけエジプトから救い出されました。
イエス様は弟子たちの前でパンを裂き、また杯をお渡しになって「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マルコ14:40)と、十字架に先立って新しい契約をお示しになられました。そして契約の食事の後に弟子たちを連れてオリーブ山へと向かわれ(ルカ22:39)、そこでイスカリオテ・ユダの裏切りによって祭司長たちや律法学者たちに引き渡されたのでした(同54)。
捕らえられたイエス様は大祭司の家に連行されると、夜明けまで罵られたり殴られたりした上で最高法院(サンヘドリン)に連れ出されました。更にポンテオ・ピラトのもとへと身柄が送り付けられると処刑が決まり、ピラト自身の手によって罪状書きが「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれたのです(ヨハネ19:19)。
かつて「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか」と呼び求められてお生まれになった方が、多くの人のために流される契約の血によってユダヤ人の王となられました。イエス様が「ユダヤ人の王」となられたときにその右と左に就いていたのは誰でしょう、それを願っていたどの弟子でもなく2人の犯罪人だったのです(23:33)。
当時のローマにおける十字架刑は公開処刑に値するほどの極悪な重罪人のためにありました。模倣者が出ることがないよう見せしめとしての極刑であり、しかも前もって痛めつけることで見るに堪えない姿にしてから磔(はりつけ)にするのです。
「彼の姿は損なわれ、人とは見えず/もはや人の子の面影はない」(イザヤ52:14)と預言者イザヤの言葉どおりに、イエス様は変わり果てた姿で人々の目に晒されました。心ない人々は「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」とあざ笑い、ローマの兵士たちは「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」とイエス様に罵声を浴びせました。
自分が犯した罪のために刑に処せられている犯罪人でさえ「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」と身の程をわきまえない言い草です。しかし天の父は「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために/彼らの罪を自ら負った」とご覧になりました(イザヤ53:11)。
こうして主は自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられたことによってユダヤ人の王としての栄光をお受けになりました(同12)。
3.王の職務
マタイによる福音書ではイエス様が栄光の座にお着きになってからの役割について記されています。「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、その栄光の座に着く」(マタイ25:31)と前置きをして、羊飼いが羊と山羊を分けるようにすべての国の民をより分けるという裁きについて明かされています(同32)。
「羊を右に、山羊を左に」(同33)という語順は十字架における犯罪人が「一人は右に一人は左に」付けられていたことを彷彿させます。羊も山羊もその時が来るまでは同じように群れて暮らしていたのに、ある時それぞれが区別され右と左に分けられるのです。
一緒に十字架にかけられていた犯罪人は2人とも初めは同じようにイエス様のことを罵っていました(マタイ27:44)。ところが一人がふと心に示されたのでしょう、「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」ともう一人の受刑者をたしなめました(ルカ23:40-41)。
何も悪いことをしていないのに十字架に掛けられているこの「ユダヤ人の王」を神と等しい存在であると告白として、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と祈ったことになります。この告白と祈りを受けてイエス様は「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束されました(23:43)。
そこには「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」という告白への評価も含まれているでしょう。裁きにおいて王は右側にいる人たちに「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言い、また左側にいる者たちは「この最も小さい者の一人にしなかったのは、わたしにしてくれなかったことなのである」(同45)と、各々が「自分のやったことの報い」としての裁きが示されているからです。
人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられました(ヘブライ9:27-28)。二度目には、御自分を待望している人たちには救いをもたらすためにおいでになります。
「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリント一15:20)と聖書は言っています。この方を王とし、この方に従うすべての民に復活の希望が与えられています。
キリストすなわち救い主メシアは油注がれた者として、預言者として御国を説き、大祭司として執り成しと癒しを賜ります。そして王の職務として、御自分の民をその行いに応じて右と左により分けられるのです。
<結び>
「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。」(ペトロ一2:23)
キリストは「ユダヤ人の王」として世に来られ、ユダヤ人の王として十字架上で私たちの罪のために死なれました。私たちと同じ罪人のひとりに数えられ、民の身代わりとなる王として神の前に裁きを受けられたのです。
「今こそ、神の家から裁きが始まる時です」(ペトロ一4:1)との御言葉どおりに、すべての者が右と左により分けられる時が来ます。栄光の座に着かれた王の職務として「この者どもは永遠の罰を受け、正しい人たちは永遠の命にあずかるのである」(マタイ25:46)とご自分の民をお裁きになるのです。
どんな罪を犯した者であっても、キリストを信じて罪を悔い改めその報いを受け入れた者は救われます。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。