「主が来られる時」ルカによる福音書21章25-36節
2022年11月27日
牧師 武石晃正
教会暦では本日よりアドヴェントに入ります。主が天より降りて来られることを待ち望むこの待降節は、「主の再び来りたまふを待ち望む」という教会の究極的な希望を表す期間と言えましょう。
折しもクリスマスから始まる教会暦が一巡りしますので、世の終わりにおける再臨を待ち望みつつもアドヴェントは新たな1年への備えともなります。本日はルカによる福音書を開き、「主が来られる時」と題して主にお会いする備えといたしましょう。
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牧師 武石晃正
教会暦では本日よりアドヴェントに入ります。主が天より降りて来られることを待ち望むこの待降節は、「主の再び来りたまふを待ち望む」という教会の究極的な希望を表す期間と言えましょう。
折しもクリスマスから始まる教会暦が一巡りしますので、世の終わりにおける再臨を待ち望みつつもアドヴェントは新たな1年への備えともなります。本日はルカによる福音書を開き、「主が来られる時」と題して主にお会いする備えといたしましょう。
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1.人の子が来る
ところで皆さんは普段の生活の中で「人の子」という言い回しを用いることはありますでしょうか。よその家のお子様であれはせめて「他人様(ひとさま)の子」と様付けで呼ぶことでしょうし、あるいは「大きくなるのは早いわねぇ、人の子って」などと言うことはありましょう。
聖書の中でも旧約においては人の子と言えば神の御前で人に過ぎない存在を示すことがほとんどです。例外的にはエゼキエル書やダニエル書において「人の子よ、この幻は終わりの時に関するものだということを悟りなさい」(ダニエル8:17)など終末や裁きに関して用いられています。
新約聖書では一部を除いて、イエス様がご自身をメシアすなわちイスラエルの救い主と示す際に「人の子」と言う語を用いられています。ダニエル書の中で「人の子」のような者が権威、威光、王権を受け(7:13-14)、人の子のような姿の者(10:16)が「主よ」と呼ばれていることに通じます。
朗読いたしました箇所は「それから、太陽と月と星に徴が現れる」(25)と世の終わりについての教えです。イエス様は闇雲に人々の不安を掻き立てたのではなく、その前の箇所で「異邦人の時代が完了するまで」と既に預言者たちの言葉から示されています。
「この世界に何が起こるのか」(26)とは古今東西の諸国において多くの人々が関心を抱いていることですが、それは神様だけがご存じのことです。イエス様も聖書も具体的に詳しいことまで述べていないのは、地震ばかりでなく天体が揺り動かされるほどの天変地異であり、知ったところでどうすることもできないほど恐ろしいことだからでしょう。
弟子たちでさえイスラエルのために国を再建してくださるのがいつであるのかと知りたくて仕方なかったわけです(使徒1:6)。ところがイエス様ははやる弟子たちに「父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない」(同7)とお答えになり、聖書は依然そのことに沈黙しています。
使徒たちにさえ明かされていないことです。もし世の終わりや裁きの日がいつとかどんな時であるとかを具体的に告げる者があれば、それは偽キリストであると分かります。
いつであるかは明かされずとも「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」とイエス様がおっしゃるとおり、必ず主の再臨があるのです (27)。異邦人と呼ばれる人々には気を失うほどの恐怖ですが、キリストの弟子たちには「あなたがたの解放の時が近いからだ」と救いの完成が約束されています。
続けてイエス様は「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」とたとえを用いて説き明かしをされます(29)。「葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる」(30)とは雨季と乾季が顕著なパレスチナの気候ならではの表現のようです。
日本は国土のほとんどが温帯に位置しているので四季が豊かでありまして、春先などはしばしば「寒の戻り」と季節の進みが遅れることもあります。とは言え、桜が咲く頃に雪が降ったとしても、真冬まで季節が戻るということはなく春は既に来たのです。
「これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい」(31)と聞く耳のある者たちに告げられます。少し先延ばしされることがあるとしても、決して後戻りすることなく必ず人の子が来られるからです。
同時にまた逆も然りで、「はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない」(32)のです。世界中が恐怖におびえるほどの天変地異が起こってから、ようやく「人の子」が現れます。
「大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来る」とイエス様がおっしゃっているのですから、自らを「キリストの生まれ変わりだ」と言う者は人々を惑わす真っ赤な偽物です。御言葉を捻じ曲げることはキリストを偽り者にすることであり、決して滅びない言葉を損なおうとする者は天地とともに滅ぼされるでしょう。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(33)とイエス様はご自身の名に懸けて念を押されましたが、キリストを信じない者にとって「人の子」の再臨は恐怖であり滅びに至るものです。しかし、主を信じて待ち望む弟子たちにとっては「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」との希望が与えられています。
2.主が来られる時
どれほどの熱意をもって主を待ち望むのか、ユダヤの人々がイエス様を迎えたのはアブラハムへの祝福から2000年も経った時代のことでした。教会もまた、主が再び天から来られることを待ち焦がれて2000年になろうとしています。
主が来られる時を「主の日」と呼んで、使徒たちは口をそろえて「盗人のように」突如としてやってくると警告します(テサロニケ一5:4、ペトロ二3:10、黙示3:3)。イエス様の教えどおりに再臨を待ち望んでいる者たちは「神の国が近づいている」と悟ることができますが、備えができていない者たちをこの「主の日」が襲うことになります。
主の兄弟として知られるヤコブがその手紙の中で「主が来られる時」について記しています(ヤコブ5章)。世の終わりに主が来られる時、イエス・キリストを頼りに生きてきたのか、他の何かをよりどころとして生きてきたのかと問われます。
そこでは「富んでいる人たち、よく聞きなさい。自分にふりかかってくる不幸を思って、泣きわめきなさい」(同5:1)と主の裁きが予告されています。富、衣類、金銀などこの世の朽ちていくものに頼った者は、頼ったとおりに朽ちて焼かれてしまうのです(2,3)。
この富んでいる人たちは世間一般の人ではなくキリストを信じていたはずの教会内の人たちです。ヤコブは急に畑の労働者の話を切り出しますが、畑とはイエス様が御国の言葉が蒔かれた地を指して用いていますから教会と言い換えてもよいでしょう。
畑に従事する労働者は教会に仕える人々、当時は使徒や預言者、教師などがおりました。「富んでいる人たち」と呼ばれている人々に対して、彼らのために「あなたがたが支払わなかった賃金が、叫び声をあげています」とヤコブは追及しています(4)。
教会の中でどのようなことが起こっていたのでしょうか。「あなたがたは、この終わりの時のために宝を蓄えた」(3)と言われており、一部の実力者が教師たちの困窮について見て見ぬふりをしたのです。
「地上でぜいたくに暮らして、快楽にふけり」(5)と言われている様が、イエス様の説教における「放縦や深酒や生活の煩い」(ルカ21:34)と合致します。これらは恐らくローマの習慣であり、迫害下にありながらローマ人のようになりたかった人々の姿です。
その挙句に「正しい人を罪に定めて、殺した」と言われており、言いがかりや密告によって教師を罷免あるいは追放したことがあったのでしょう。教師とその家族は生活の場を奪われ、迫害の時代でしたから殉教者が出れば家族は路頭に迷います。
かつて日本では第二次大戦下においてホーリネス系の教会が国家から弾圧を受けましたが、教団は「これを見放して、教師職を剥奪し、教会の解散処分を黙認しました」(関東教区「日本基督教団罪責告白」)。現代においてもアジアのある国では子どもたちへの伝道が禁じられ、集会は監視され、福音宣教に専心する指導者たちが監禁や拘留されていると報じられております。
海を隔てて隣国である日本の教会はこの「畑を刈り入れた労働者」たちのためにどれほど関心を寄せているでしょうか。私がキリストを信じて救われて、信仰生活を全うできればそれでよいのでしょうか。
「刈り入れをした人々の叫びは、万軍の主の耳に達しました」(4)とヤコブは天においては全てが明されていると宣告します。この主の誠実を知っている働き人たちは「富んでいる人たち」やその仕打ちに目もくれず、「忍耐しながら、大地の尊い実りを待つのです」(7)。
他方で「裁く方が戸口に立っておられます」(9)「さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる」(ルカ21:34)と、とその責任がすべての教会に緊迫しています。イエス様が弟子たちに説き、ヤコブが教会に向けて書き送ったのですから、たとえ洗礼を受けた者だとしても免れることはできないでしょう。
「その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである」(35)と、主の裁きは洪水のように分け隔てなく一切合切を飲み込みます。主が来られる時に、あなたは身を起こして頭を上げていることができるでしょうか。
<結び>
「しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」(36)
単に善行を積めということだけでよいのであれば、キリストに従おうとしなくても道はいろいろとあるでしょう。あるいは教会や教職者がないがしろにされたり食い物にされたりしていないかと、自分自身が裁きを受けないようにするばかりでなく、地区や教区の教会のことも心に掛けることは良いことです。
アドヴェントの第1週にあたり、主をお迎えする備えができているか各々が確かめてみましょう。クリスマスを祝う整えとともに、主が来られる時の備えをいたしましょう。
「あなたがたも忍耐しなさい。心を固く保ちなさい。主が来られる時が迫っているからです。」(ヤコブ5:8)