FC2ブログ

「主に先立って行く者」ルカによる福音書1章5-25節

2022年12月11日
牧師 武石晃正

 コロナ禍で3度目のアドヴェントを迎えております。初めの年は世の中が一体どうなってしまうのかという不安を感じては、何かを食べるにも飲むにも怖々していたように覚えております。
  平和の君として世に来られた救い主キリスト、イエス様の恵みと憐れみが多くの人々に注がれることを祈ります。癒し主キリストの御手が速やかに延ばされますように。

 本日は主イエス様をお迎えする備えのために遣わされた洗礼者ヨハネについて、ルカによる福音書から「主に先立って行く者」と題して読み進めて参りましょう。


PDF版はこちら


1.救い主の道備え
 救い主の来臨を告げる預言者として、旧約聖書の中からイザヤ書やミカ書が引用されることが福音書の中でも目立ちます。「ユダヤの王ヘロデの時代」(5)とは、イザヤやミカが活躍した時代から700年ほど経った年代です。
 ユダヤの祭司にザカリアという人がいました。アビヤ組が祭司たちの中でどれほどの階級にあったかはともかく、ザカリアの妻エリサベトはアロン家という一流の血筋です。

 アロンとは出エジプト記に出てくるあの偉大な指導者モーセの兄であり、ユダヤの律法における初代の大祭司です。実はユダヤの祭司でもバビロン捕囚から帰って来た人たちのうちには系図を明らかにすることができず、訓練を受けることによって祭司の働きに就いた者たちもおりました(エズラ2:63)。
 ですからアロン家の筋といえば祭司の中でも生粋であり、また神殿の聖所に入ることが許される祭司の血筋であります(出28:33)。「二人とも神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(6)との評価はザカリアとエリサベトの行いや人物についてという以上に、祭司としての正統性を言い得ていると言えましょう。

 生まれも育ちも神の恵みの真っただ中を歩んできたような二人でしたが、「彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」(7)と述べられています。この時代のユダヤでは子宝は神様の祝福の象徴であり、翻って子を授からないということはその家系が神の御前で断たれることを意味します。
 子どもが与えられなくとも祭司でありますから、村に子どもが生まれるとザカリアは割礼を施したり命名の祝福の祈りを奉げたりしてきたことでしょう。人々が我が子に名前を付けて主の前に捧げる傍らで、この祭司には自分だけが神様の祝福から取り残されているようなむなしさがついて回ります。

 年齢までは記されてなくとも、ザカリアもエリサベトも子を授かるには人生をかなり過ごしておりました。跡継ぎを求めつつも諦めかけていたこの二人を、主はご自身に最もふさわしい時を定めて彼ら救い主の道備えとして用いられたのです。


2.ザカリアに現れた天使
 当時ユダヤの祭司たちは氏族ごとにそれぞれの地に分かれて住んでいました。皆が皆エルサレムの神殿で仕えるわけには参りませんので、当番の組ごとに宮へ上りました。
 宮におけるたくさんの務めの中でも最も名誉な務めは「主の聖所に入って香をたくこと」(9)です。その日の当番の組に属していなければ機会を得られないのはもちろんですが、祭司の中でもアロン家の者に限られます。

 一生に一度あるかどうかの大舞台のため、祭司たちは若い頃から聖所での香のたき方の稽古を積んできました。ザカリアが「非の打ちどころがなかった」のはこの務めに当たるくじを引くのにふさわしい者であったことを示します。
 いよいよザカリアが主の聖所に入ります。祭服の下には決まった数の鈴が取り付けられており(出28:33)、所作が型からはずれれば鈴の音で聖所の外でも分かってしまいます。

 聖所に入るだけでも興奮と緊張で震えるほどであるにも関わらず、よりにもよってこんな一大事に主の使いがザカリアに現れました(11)。極度の緊張に加えて想定外の出来事ですから、単にうろたえたという言葉では済まないでしょう(12)。
 恐怖の念に襲われているザカリアへ天使は「ザカリア、あなたの願いは聞き入れられた」と言うのです(13)。「確かに念願かなって聖所の務めにあたったたけれども、あなたのせいですべてが台無しですよ」という一祭司の気持ちも汲めなくもないところです。
天使は続けます。「あなたの妻エリサベトは男の子を産む。その子をヨハネと名付けなさい」(13)と言うのです。

 これを聞いたザカリアの胸中は複雑です。跡継ぎが欲しいと夫婦で願ってきたものの、今さら子を授かっても産むことができるのか、産んでも育てることとができるでしょうか。
 長子の出生における命名はユダヤでは父親の特権だと聞いたことがあります。それなのに付ける名前まで決められているのはザカリアとしても不本意でしょう。

 しかもこのヨハネという名のついた親類にはザカリアにはおりませんから、自分に縁のない名前をつけよと天使は命じているわけです。つまり「あなたとエリサベトの間に子どもが生まれても、それはあなたの子にはならない」と言われているようなものです。
 あまりにも突然で理不尽にも思われる御告げではありますが、天使は生まれてくる子の大切な役割を明かします。「彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」(17)

 ザカリアでなくとも俄かに受け入れることは難しい状況です。永年祈って主に願っていたことが叶うというのに言葉を返してしまったので、天使はしるしとしてザカリアの口を利けなくしてしまいました。
 皆が心配して待っている中へ、ザカリアはようやく聖所から出てきました。「人々は彼が聖所で幻を見たのだと悟った」(22)とありますので、聖所の務めにおいては不思議なことがしばしば起こっていたようにも思われます。

 さてアビヤ組の祭司たちが務めを終え、ザカリアも家に帰りました。天使のお告げのとおり彼の妻エリサベトは身ごもり(24)、主はアロン家の祭司の娘を報いてくださいました(25)。
 これは主の母マリアに天使ガブリエルが現れる半年も前の出来事です。


3.主に先立って行く者
 もし天使がザカリアに現れたのが山奥だったなら誰がその話を信じるか分かりませんが、民衆が囲んだ聖所の中だったので幻を見たという事実を多くの人が認めました。あるいはエリサベトがまだ若かったならば、マリアに天使が現れた際に「もう六か月になっている」と彼女を指しても何のしるしとなったでしょうか。
 洗礼者ヨハネについては天使の言葉と彼自身の働きで「主に先立って行く者」であることで明らかです。ヨハネ自身だけでなくその両親であるザカリアとエリサベトもまた救い主の道を備え、マリアのために主に先立って行く者となりました。

 ヨハネの働きはエリヤの霊と力によるものであり、預言者としてもっぱら神の民への悔い改めを宣告しました。神の国の到来を告げ、悔い改めに導くバプテスマを授けることで「準備のできた民を主のために用意する」のです。
 神の国の到来すなわち福音を宣べ伝え、悔い改めた者にバプテスマを授ける働きを担う者が他にもあります。主キリストの体である教会です。

 教会は福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行います。主の再び来たりたもうを待ち望み、その日に備えて恵みによって召された者たちを主のために整えます。
 主の降誕を前にして天使が示したヨハネの働きは、主の再臨に先立って教会を通して続けられます。教会とそこに集う私たち一人一人が主に先立って行く者とされ、救い主イエス・キリストを世に告げ知らせます。


<結び>
 「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。」(テサロニケ一5:16-18)

 実に多くの信徒たちを慰め励ました聖句の一つでしょう。更にその続きがより大切で「これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」
 せっかく唯一のお役目に当たり、聖所で天使のお告げを受けるほどの恵みがあったとしても、それを喜んで感謝して受け取ることがなければふいにすることさえあり得ます。そして神様は私たち一人ひとりに求めておられるばかりでなく、「イエス・キリストにおいて」とあるように主キリストの体である教会に求めておられます。

 イエス様の現れに先立ってヨハネは神の国の福音を伝え、悔い改めに導くバプテスマを授けました。その両親も主の母マリアへのしるしとして、先立って行く者となりました。
 主キリストの体である教会も福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐とを執り行います。そして再び来たりたもう主に先立って行く者として今日もここに立つのです。


 祈ります。「どうか、平和の神御自身が、あなたがたを全く聖なる者としてくださいますように。また、あなたがたの霊も魂も体も何一つ欠けたところのないものとして守り、わたしたちの主イエス・キリストの来られるとき、非のうちどころのないものとしてくださいますように。」(テサロニケ一5:23)

コンテンツ

お知らせ