「聖霊があなたに降る」ルカによる福音書1章26-38節
2022年12月18日
牧師 武石晃正
いよいよ今年もアドヴェント第4主日になりました。例年では教会暦のクリスマスである12月25日を過ぎる前にクリスマス礼拝を主日に行いますので、アドヴェント第4主日と重ねて私たちは主日礼拝で主のご降誕を祝うところです。
今年はクリスマスがちょうど日曜日にあたりますので、教会暦の降誕日その日に主日礼拝をクリスマス礼拝としてささげることができます。そしてその前夜は文字通りクリスマスイヴを覚えて、この礼拝堂でも集いましょう。
年末にかけて何かと忙しく過ごしたり、冷えのせいもあってか疲れを覚えたりしやすい時期でもあります。主の母マリアに天使が遣わされた記事を福音書から読みながら、「聖霊があなたに降る」という大きな恵みを数えて参りましょう。
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牧師 武石晃正
いよいよ今年もアドヴェント第4主日になりました。例年では教会暦のクリスマスである12月25日を過ぎる前にクリスマス礼拝を主日に行いますので、アドヴェント第4主日と重ねて私たちは主日礼拝で主のご降誕を祝うところです。
今年はクリスマスがちょうど日曜日にあたりますので、教会暦の降誕日その日に主日礼拝をクリスマス礼拝としてささげることができます。そしてその前夜は文字通りクリスマスイヴを覚えて、この礼拝堂でも集いましょう。
年末にかけて何かと忙しく過ごしたり、冷えのせいもあってか疲れを覚えたりしやすい時期でもあります。主の母マリアに天使が遣わされた記事を福音書から読みながら、「聖霊があなたに降る」という大きな恵みを数えて参りましょう。
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1.マリアへの受胎告知
時は「ユダヤの王ヘロデの時代」(5)、紀元前37年から4年にかけての年代です。このヘロデが死んだという記述は早く見てもイエス様がお生まれになった翌年のようですから(マタイ2:22)、ザカリアに天使のお告げがあったのは紀元前6年頃でしょう。
「六か月目」(26)とは既に年齢を重ねていたエリサベトが身ごもってからの月日です。エルサレムの神殿で祭司ザカリアに現れた天使ガブリエルが、今度はイスラエルの北部にあるガリラヤ地方のナザレという町を訪れました。
ナザレにはヨセフという大工がおりまして、「ダビデ家」と書かれているとおり彼は血筋の上でイスラエルの王家の末裔でした。ヨセフの家系はマタイによる福音書の冒頭に記されておりますが、実はいいなづけのマリアもまたダビデの家系の娘であることをルカが示しています(3:31)。
マリアについて言えば、遠縁とはいえ親戚筋は大祭司アロンの家系です(5、36)。ザカリア夫妻がそうであったように、マリアの生家も「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(6)と呼ばれるにふさわしいものだったでしょう。
由緒正しく掟に忠実である家の娘に天使が現れ、「おめでとう、恵まれた方」と挨拶をしました。天使と申しますと白く輝く衣を着た人との描写もありますが(24:4)、時にはそれと知られないようにごく普通の旅人の装いでやってくることが聖書には記されています(ヘブル13:2、創18:2)。
恐らくマリアのもとを訪れた際も天使は旅人の姿でやって来たことでしょう。見知らぬ人が急に「おめでとうございます」と尋ねてきたら不信感しかありませんし、今のご時世であれば「いったいこの挨拶は何のことか」と考え込む以前に特殊詐欺か何かではないかと疑ってしまうことでしょう。
「マリア、恐れることはない」と声をかけられ、見ず知らずの人に名前を知られているだけでも怖い思いをいたしましょう。続けて「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」とは、家柄も身持ちもよい娘にとっては身に覚えもなければ人違いであるとしか思えない挨拶です。
ひどく戸惑って言葉もでない田舎娘に、この旅の人は生まれてくるという子どものことを一方的に語ります。「その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない」 (32,33) と言うのですからマリアは驚くばかりです。
「どうして、そのようなことがありえましょうか」(34)とはもちろん理由を聞いているわけではなく、なぜこの話を自分にされているのか分からないという意味でしょう。ヨセフとの結婚を控えて特に念を入れて身を慎んでいるところですから、マリアとしては人違いにしても迷惑な話です。
ところが「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」(35)と宣言されるや、このナザレの娘には親戚筋から伝え聞いた話が心当たりました。そして「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」(36)と、胸の内に浮かんだことを全くその通りに言い当てられたのです。
その上で「神にできないことは何一つない」と言われてしまえば、マリアは心の底まで見通されてしまったように感じたでしょう。エリサベトが子を授かったことと、彼女が自分の親戚であることを知っているのは、ごく身近な者たちかザカリアにお告げをした天使ぐらいのものでしょう。
身を隠しているはずのエリサベトの消息まで知っておられる方の前ですから、もはや逃れようがなくなってしまいました。「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(38)と答えるのがマリアには精一杯だったように察します。
あえて直訳を試みますと「私はご主人様の女奴隷です。あなたのお言葉だけです」と書かれています。しもべが主人に対して図らずも言葉を返してしまった時に、慌てて口を覆って命乞いをする様子を匂わせる言い回しにも聞こえます。
2.聖霊があなたに降る
降誕記事の一場面として、クリスマスには必ずと言ってよいほど取り上げられる箇所です。降誕劇でも恐らくほとんどの脚本では山場の一つとなっているでしょう。
まだ10代半ば、あるいは10代前半とも言われているおとめマリアの身の上について語られることが多いように思われます。もちろんマリアの信仰はかけがえのないものではありますが、天使ガブリエルが彼女について語っているのは
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む」ということです。
聖霊が一人の人に降ることによって、地上において神の子が生まれるのです。本日は残りの時間で聖霊が人に降るということについて考えてみましょう。
確かに主イエス・キリストは聖霊によって世にお生まれになりましたが、ご自身を世に現わそうとされた時にも聖霊が降ったことを福音書は伝えています(3:22)。聖霊が降るとは内なる人としてその人に神の霊が宿ると同時に、「あなたはわたしの愛する子」であると天の父が太鼓判を押してくださることです。
新たに生まれるということに聖霊の働きがあり、イエス様は「新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」とおっしゃいました(ヨハネ3:3)。新たに生まれるとはどういうことでしょうか、ある人は「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」と尋ねました(同4)。
ところであなたは神の国に入りたいと思いますか。幼い頃まだ教会に通うようになる前のことですが、親や近所の大人から「いいことをした人は天国に行けるが、嘘つきや盗みなど悪いことをする人は地獄に落ちる」などと言い聞かされたことを思い出します。
果たして良いこと、善行に励めば天国へ行けるのでしょうか。イエス様は「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(同5)と断言されます。
そこで「どうして、そんなことがありえましょうか」(同9)と口を突いて出たのはおとめマリアではなく、年を取ったイスラエルの教師ニコデモでした。天から聖霊が降るなどこの世では思いつくことではありませんから、老若男女問わず受け入れがたく戸惑うのです。
もし本当に聖霊が降ってその人の内にあるならば、どうやってそれを知ることができるでしょうか。中身を改めるには、穴を開けるなり肉を裂くなりすればよいでしょう。
生身の人にそのようなひどいことができるものかと思われるかも知れませんが、聖霊によって生まれ聖霊によって神の子と宣言された方が肉を裂かれ槍で刺し通されたのです。「わたしを信じる者は、死んでも生きる」(11:25)と言われた方を誰も信じなかったので、罪のない方が私たちの代わりに十字架の上で血を流されました。
人々の目に映ったのは裂かれた体と流された血だけでしたが、死んで葬られて3日目に神の霊がキリストをよみがえらせたのです。「それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:15)との約束が成就するためでした。
肉によって生まれたままの人は肉として朽ちていきますが、神の霊によって生まれた者は死んでも生きるのだとキリスト自らが死と復活によって示されました。「いと高き方の力があなたを包む」「死んでも生きる」との約束です。
「どうして、そのようなことがありえましょうか」、死んだら終わりでしょうと疑うのは人の自由です。けれどおとめマリアに宿り、ナザレの人イエスに降った聖霊は証しします。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3;16)
<結び>
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。」(使徒1:8)
これは聖霊によりて宿りおとめマリアより生まれた方が、葬られて三日目に聖霊によってよみがえられた後に弟子たちへ語られた言葉です。独り子である神を人として世に生まれさせた主の霊は、マリアだけでなくキリストを信じるすべての弟子たちに降ります。
「すべての民をわたしの弟子にしなさい」と弟子たちを遣わされた主は(マタイ28:20、ヨハネ20:21)、「聖霊を受けなさい」と祝福されました。つまり教会を通して父と子と聖霊の名によって洗礼を授けられた者には、主が命じておいたことをすべて守って生きるようにと聖霊が降るのです。
「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる」との天使の言葉をマリアはそのまま受け入れました。この聖霊によって生まれたイエス・キリストを信じる者もまた神の子とされます。
クリスマスに臨み、主は御子イエス様を救い主としてくださったばかりか、聖霊によって私たちをも神の子として生まれ変わらせてくださる恵みを賜りました。イエス・キリストを唯一の救い主と信じるなら、聖霊があなたに降るのです。