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「平和を実現する人々」マタイによる福音書5章1-12節

2023年1月1日
牧師 武石晃正

 主の2023年を迎えまして、最初の1日を皆様とともに主の日としてささげることができますことは幸いに覚えます。クリスマスとその翌週の元日を主日礼拝において祝えることは数年に1度しかないので、とても珍しいことです(2028年が閏年のため、次は2033年クリスマスと2034年元日が日曜日)。
 昨年2022年を振り返りますと、元旦礼拝においてマタイによる福音書11章を開きました。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)とのイエス様のお言葉は、今年度の標語聖句として掲げられています。

 標語聖句は主日礼拝で唱和こそいたしませんが、定期総会において宇都宮上町教会の総意として主から受けた御言葉であります。そして主は真実な方ですから、ご自身の御言葉をもって年度内に2名の受洗者と希望者を含む3名の転入会者を起こされました。
 「肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく」(ヨハネ1:13)人々を神の子として生まれさせ、「武力によらず、権力によらず/ただわが霊によって」(ゼカリヤ4:6)と事をなされる方に信頼し、2023年も主がおっしゃったことは必ず実現すると信じて歩ませていただきましょう。本日はマタイによる福音書より「平和を実現する人々」と題して御言葉を求めて参ります。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.天の国はその人たちのものである
 朗読いたしました箇所は「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれるイエス・キリストの一大説教の冒頭です。群衆を見て山へ退かれたイエス様が、みもとへ寄ってきた弟子たちだけに語られた教えであると山上の説教には前置きされています(1,2)。
 8つの「幸いである」と告げられる教えは「八福の教え」ともと呼ばれており、教会ばかりでなくキリスト教学校などでも引用されて広く知られていることでしょう。そのうち1番目と8番目がともに「天の国はその人たちのものである」と結ばれることで、ちょうど一巡したようにまとめられています。

 それぞれが大切な教えでありながらも、8つをもって一つの結論に至るとも言えましょう。すなわち「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」(11)とは主の弟子としての心得です。
 「わたしたちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)と使徒パウロを通して伝えられていることにより、「天の国はその人たちのものである」とのイエス様の約束がより明らかになります。この世の支配は神の支配に相反するものですから、キリストが降って来られた天とそこを本国とする神の子たちは「敵国」と見なされ迫害されるでしょう。

 思えば洗礼者ヨハネにおいてもガリラヤで宣教されたイエス様においても、その使信は「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2、4:17)でした。天の国が近づきつつある今のうちに悔い改めなければ、到着するや否や圧倒的な裁きによって滅びに至るのです。
 キリストを信じて神の子とされて天が本国となった途端、生まれ育ったこの国が敵国のど真ん中に転じるのです。この世から見れば天の国は敵国同然ですから、迫害もあれば「身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる」のです。

 この世から迫害や悪口を受けるとき「天の国はその人たちのもの」であることを思い出せとの励ましがイエス様から弟子たちへ、福音書によって教会へ与えられました。


2.平和を実現する人々
 イエス様はこの短い説教の中で「心の貧しい人々」に始まり8度も「幸いである」とおっしゃいました。しかしこれらは単に心の貧しさや悲しみを覚えることではなく、あくまでも「わたしのためにののしられ、迫害され」また悪口を浴びせられることに伴うものであります。
 「幸いである」と言われているこれらの8つのうちいずれかに当てはまったのなら、「前の預言者たちも、同じように迫害された」ことを思い出せとの目印であるわけです。地上では報われないことを前提に「天には大きな報いがある」と教えられます。

 「報い」というよりも代価なしに与えられる恵みとしては、キリストを信じる人々に永遠の命とともに神の子となる資格が与えられることが挙げられます。8つの幸いの中で「その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ5:9)との報いに重なります。
 幸いとされている7つ目の「平和を実現する人々」について、イエス様はこの「平和」という語をいわゆる国際平和を指しているわけではないことが文脈から読み取れるでしょうか。イエス様ご自身が「悔い改めよ。天の国は近づいた」と宣教されたことから、天の国あるいは父なる神との和解による平和であると分かります。

 創造主である神様との平和は使徒パウロが「キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい」(コリント二5:20)と記したように、キリストの十字架による救いの中心であります。この平和の実現することはすなわち神の国と神の義を求めることになりますから、平和を実現する神の子たちは義のために迫害されることにもなりましょう。
 山上の説教が説かれた頃のイスラエルはローマ帝国の支配下にあり、人々にとっては困難な時代でした。現代の私たちも状況は異なりますがたとえば新型コロナ・ウイルスによる困難を覚えること4年目を迎え、また国際情勢においても緊張と不安が報じられるところです。

 このような世においても「神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました」(コリント二5:18)と聖書が私たちに示しています。人々を神様との和解へ導く任務、イエス様が求めておられる平和を実現するために、宇都宮上町教会として何かできることがあるでしょうか。
 特にこのことのためとして役員会が取り上げたわけではありませんが、扱われている議案の中から一つ挙げるとすればグレースヒル(納骨堂)の働きがあります。納骨堂の働きは普段あまり意識されることはなくとも、主キリストの体である教会にとって非常に大切なものです。

 教会が墓所や納骨堂を構えることは単に埋葬先の確保だけではなく、キリストにある死者の復活と主の再臨における希望とを指し示すものです。地上において神との平和を実現した人々の名が刻まれ、わたしたちの本国が天にあることを明らかにするのです。
 世の中には生きづらさを抱えて生きている人もあれば、死ぬことが怖くて不安で仕方がないという人もあるでしょう。地上における生涯の先にあるものが分からないので死に対する恐れがあるのだとすれば、そこへ至るまでの生き方にも迷いや不安が伴うでしょう。

 そこへ主イエス・キリストは「悔い改めよ。天の国は近づいた」と御声をかけて招かれるのです。イエス様の代わりに主キリストの体である教会を通して御言葉が語られます。
 「悔い改めよ」と招かれても、立ち帰った先に何が待ち受けているか分からないという不安もあります。例えば家の門限を過ぎてしまった少年が、父親に叱られるのが怖くてますます帰りあぐねてしまう場面を思い浮かべてみましょう。

 素直に父親に謝ることができればよいのですが、家に帰っても怒られるだけならいっそのこと家出をしてしまおうかなどと考えているうちに時間がどんどん過ぎていきます。そこへ兄か姉が通りかかり、一緒に帰ろうと声をかけてくれたならどれほど心強いでしょう。
 父と平和を保っている兄姉が執り成すことで、多少の懲らしめがあるとしても少年は父との和解へと促されるでしょう。これは帰る家がどこであるかはっきりしているから言えることです。

 地上において教会は天の門であると言われおり、この門を通って神の子たちは父の家に帰ります。納骨堂が天の本国を指し示すなら、門に掲げられた表札と言えましょうか。
 帰れと呼ばれても帰りあぐねている子どもたちに兄姉が声をかけ、父との和解をもたらします。この神との平和を実現することは、神の子たちだけにできる務めです。


<結び>
 「つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。」(コリント二5:19)

 主イエスは「あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害された」(12)とおっしゃいましたが、実際にはまずご自身が苦しみを受けられました。そして主は「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と説き、自らも「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(ペトロ一2:23)。
 世にあってののしられ迫害される者であるにも関わらず、平和を実現することが神の子なのです。ののしり返したり人を脅したりするならば、どうして神との和解、平和を実現する者となりえましょう。

 「天の国はその人たちのものである」と一貫される教えの中で、イエス様が「平和を実現する人々は、幸いである」と説かれた意義を年の初めに思います。ご自分を受け入れた者たちに「その人たちは神の子と呼ばれる」との幸い与え、神との和解の務め、平和を実現する努めをゆだねられました。
 救い主キリストに贖われ神の子とされたわたしたちは、キリストのゆえに迫害や困難に直面することがあっても平和を実現する人々となりましょう。

「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」(マタイ5:9)

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