FC2ブログ

「イエスの洗礼」ルカによる福音書3章15-22節

2023年1月8日
牧師 武石晃正

 元旦から始まった2023年もあっという間に1週間が過ぎました。主日礼拝に始まり、御言葉と祈りによって歩ませていただいていることを幸いに思います。
 「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と説かれ、主イエス様ご自身が断食を通してその道をお示しになられたことを覚えます。今年も主の御言葉によって生かされるにあたり改めてその入り口に立ってみましょう。
 本日はルカによる福音書より「イエスの洗礼」と題して読み進めて参ります。


PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.洗礼者ヨハネの出現
 福音書の記事のうち話の途中から朗読いたしましたが、3章の前半は洗礼者ヨハネについて記されています。「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」(1)は西暦29年ないし30年、その時代の権力者や支配者の名としてポンテオ・ピラト、ヘロデとその兄弟フィリポとリサニアが挙げられています。
 このヘロデはアンティパスとも呼ばれ、イエス様がお生まれになった時にユダヤを治めていたヘロデ大王の息子です。ヘロデ大王の亡きあと、3人の息子たちが領主としてそれぞれの地域を支配していました。

 「そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って」(3)と、当時ユダヤ全土だけでなく周辺地域へ散っているユダヤの人たちにも知れ渡っていた洗礼者ヨハネが登場します。ヨルダン川はイスラエル北部にあるガリラヤ湖から南部ユダヤ地方に面した死海へと流れる川で、この川に沿って敷かれた街道を通ってユダヤの人々はサマリアを迂回しました。
 交易商や行商人ばかりでなく、ユダヤの祭には各地からエルサレムへと向かう巡礼者が通ります。これから都に上っていこうという者も、神殿で誓願を果たして来た者も、「荒れ野で叫ぶ者の声」を耳にしたことでしょう。

 「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ3:2)との呼びかけは神を全く知らない者たちに向けられたのではなく、契約の民イスラエルに向けられたものです。そして福音書は聖霊によって教会の文脈の中で書かれたものですから、全くの未信者に対してではなくキリストの契約にあずかる者たちに向けて「悔い改めよ」と今も呼びかけるのです。
 本来であれば契約の民ですからイスラエルの人たちは律法や掟を守っていれば、神様の前に正しいはずでした。ところが悔い改めよと言われると不安になったのでしょうか、神殿で祭の義務は果たしてきたけれどとりあえずヨハネから洗礼でも受けておくかと人々が集まって来たようです(ルカ3:7)。

 非常に多くの人たちがヨハネのもとを訪れたようですし、後に使徒たちの時代に至ってもその日だけで3000人もの人たちが洗礼を受けたこともありました(使徒2:41)。しかし洗礼を受けに来た者たちに向かってヨハネは「蝮の子らよ」と忌々しさを露にし「差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか」と叱責したのです(ルカ3:8)。
 「良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」(9) 「悔い改めにふさわしい実を結べ」(8)とヨハネは悔い改めと主の裁きを宣告しました。そして福音書はヨハネの言葉を通して教会に集うすべての者たちを戒めます。


2.ヨハネのバプテスマ
 洗礼者ヨハネはユダヤとガリラヤを結ぶ街道沿いのヨルダン川で洗礼を授け、イエス様も一時期はヨハネの一門として神の国とその到来を告げては洗礼を授けさせていました。聖書新共同訳では洗礼と訳した部分に(バプテスマ)と振り仮名が付されておりまして、本来はその語源のとおり水の中に浸すという儀式でした。
 回心者に洗礼を授ける際にヨハネやイエス様のようにその人を水の中に浸す方法を浸礼と呼び、司式者が洗礼盤の水に浸した手でその人に注ぐ方法を滴礼といいます。ホーリネスの群の信仰伝統では浸礼が本式であり、滴礼が略式とされています。

 ヨハネが授けたバプテスマの場合、川に浸された人が水の中から起こされます。古い人が水の中に死んで、新しい人が新生児のように水の中から生まれることが象徴されます。
 もちろん洗礼者ヨハネが勝手に思いついたものではないでしょう。旧約聖書の中にその根拠を見いだすならば、その一つは創世記に記されているノアの時代の洪水です。

 天地創造ののち地上に人の悪が増した時、神様は正しい人ノアに「見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす」と告げました(創6:17)。お告げを受けて箱舟を作ったノアとその家族だけが水の中を通って救われました(Iペトロ3:20)。
 ほかにも主がイスラエルをエジプトから解放された時、モーセたちは海を通り抜けて約束の地へと導き出されたことがありました(出エジプト14章、Iコリント10:1-2)。また40年の旅の後、ヨルダン川の川床を通った者たちを主は荒れ野から約束の地へと入れてくださいました (ヨシュア記3章)。

 ユダヤの荒れ野で「叫ぶ者の声」を聞いた者が悔い改め、ヨルダン川で洗礼を受けました。神の前に罪を犯した古い自分を死骸として荒れ野にさらし(ヘブライ3:17)、水の中から新しく生まれた者として約束の地へと歩むのです。
 ここまではヨハネが授けた洗礼について延べましたが、これをイエス様がヨハネから受けたことで私たち罪人と一体となってくださいました。頭であるキリストが受けたので、体である教会とその肢(えだ)である一人一人に洗礼による新生の恵みが及ぶのです。
「この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。」(Iペトロ3:21)


3.イエスの洗礼
 さて「わたしよりも優れた方が来られる」(16)とヨハネは裁きを行うためにメシアが来られることを示します。「手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる」とは、見た目は同じでも実を結んだ者と殻だけの者とがより分けられることを指しています。
 「聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる」と言われています。洗礼はバプテスマすなわち浸されるということですから、聖霊にどっぷりと沈められるなら身も心もくまなく調べつくされることでしょう。

 火の洗礼も浸すという意味で受ければ、やけどを負わせる程度の罰ではなく全身が炎に包まれる様子です。イエス様は世の終わりについて、「正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込む」(マタイ13:49-50)と説かれました。
 「イエスの洗礼」と題しておりますが、二通りの捉え方があるかと思われます。一つはイエス様が授ける洗礼、もう一つはイエス様が受けた洗礼です。

 前者であれば聖霊と火による洗礼であり、その時が来るまでは麦と殻、正しい人々と悪い者どもとの見分けがつかないのです。実を結ばない者や悪い者どもが聖霊によって見分けられ、ついには燃え盛る炉の中に投げ込まれるのです。
 イエス様が受けた洗礼はヨハネが授けた洗礼です。「ヨハネは、ほかにもさまざまな勧めをして、民衆に福音を告げ知らせた」(ルカ3:18)とありますように、神の言葉を聞いて悔い改めた者に授けられる水による洗礼です。

 御言葉による神の招きがあり、あなたの魂がそれに応答するのです。招きと応答によって神と人とが結ばれて、聖霊がその人の内に注がれます。
 「民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た」(21-22)と、罪人と同じくなられた神が改めて聖霊をお受けになりました。キリストが御父から「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼ばているので、この方に依り頼む者は神の子とされます。

 十字架の死と3日目の復活ののち、イエス様は弟子たちにこの水による洗礼を託されました。「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。」(マタイ28:19-20)
 遣わされた使徒たちはイスラエル人だけでなく異邦人にもイエス・キリストの福音を宣べ伝えました。そこでペトロを通して「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです」と明らかにされたのです。

 「正しいこと」とはイエス様が洗礼者ヨハネに求められた「正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ3:15)との言葉に通じます。神の前に悔い改めて聖霊によって新しく生まれた者は、イエス様が命じられた洗礼の恵みを受けるのです。


<結び>
 「そこでペトロは、『わたしたちと同様に聖霊を受けたこの人たちが、水で洗礼を受けるのを、いったいだれが妨げることができますか』と言った。」(使徒10:47)

 まだ水による洗礼が授けられている時代、悔い改めるならば創造主である神の御前に受け入れていただける時代です。聖霊と火による洗礼がやって来る前に、水による洗礼すなわち聖霊による新生の恵みにあずかりましょう
 キリストを救い主として知らなかったのは仕方がないとしても、聞いて遠巻きに拒んできたことはないでしょうか。あるいは父なる神様が天地万物をお創りになったことを疑ったり信じなかったり、神様がおられること自体を否んだことはありませんでしょうか。

 これらはいずれも万物の創造者であり支配者である神様に対して背くことであり、聖書ではその背きを「罪」と呼んでいます。独り子である神キリスト・イエスだけが私たちのすべての罪を贖い、父のみもとへと連れ帰ってくださいます。
 罪人を神の子として生まれ変わらせてくださる聖霊を受けましょう。既に受けた者はもう一度自分を吟味し、これからの者は救い主キリスト・イエスの洗礼を受けましょう。

コンテンツ

お知らせ