「最初の弟子たち」ルカによる福音書5章1-11節
2023年1月15日
牧師 武石晃正
2020年より続いております新型コロナウィルスの全世界的な広がりも4年目を迎えました。世の中全般的には当初ほどの緊迫感は見られなくなったように感じられますが、それでも医療や介護の現場はひっ迫しているところです。
アフターコロナと呼ばれるほどの新しい時代に移るにはまだしばらくかかりそうです。時代の狭間にあって、古いぶどう酒を飲んで「古い物は良い」と言うのか「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言うべきかと主が問うているように思われます。
聖書の時代から移り変わる世界の中で、神の民は真理の教えを曲げずに礼拝や生活の様式を見直しながら歩んできました。いつもその時代における「最初の弟子たち」がいたことを覚え、本日はルカによる福音書を中心にみことばを思いめぐらせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
2020年より続いております新型コロナウィルスの全世界的な広がりも4年目を迎えました。世の中全般的には当初ほどの緊迫感は見られなくなったように感じられますが、それでも医療や介護の現場はひっ迫しているところです。
アフターコロナと呼ばれるほどの新しい時代に移るにはまだしばらくかかりそうです。時代の狭間にあって、古いぶどう酒を飲んで「古い物は良い」と言うのか「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と言うべきかと主が問うているように思われます。
聖書の時代から移り変わる世界の中で、神の民は真理の教えを曲げずに礼拝や生活の様式を見直しながら歩んできました。いつもその時代における「最初の弟子たち」がいたことを覚え、本日はルカによる福音書を中心にみことばを思いめぐらせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.異邦人の最初の弟子たち
ひと言に「最初の弟子たち」と申しましても、どの時点での最初であるのかと問いながら考えていくのがよいでしょう。イエス・キリストの弟子でいくつかの「最初」があるとすればガリラヤの漁師たちはもちろんですが、「すべての民をわたしの弟子にしなさい」(マタイ28:20)と命じられた使徒たちが洗礼を授けた「最初の弟子たち」もいるわけです。
宣教命令(マタイ28:18-20)による最初の弟子たち、ペンテコステにおいて聖霊が降った最初の弟子たちです。イエス様も使徒たちもユダヤ人であり、ステファノたちもギリシア語を話すとはいえユダヤ人でした(使徒6:1-6)。
福音を携えた教師たち、パウロやアポロたちがローマの支配下の各地を訪れます。宣教が広がる先では使徒たちから見て異邦人と呼ばれた非ユダヤ人がイエス・キリストを信じ、ユダヤの会堂に直接の由来を持たない最初の弟子たちとなりました(使徒16章)。
教会の成り立ちを思えば、当初12使徒と70人を中心にしたユダヤ人の集団でした。ペンテコステに聖霊を受けた弟子たちも、安息日と会堂を中心としたユダヤの人です。
使徒言行録において福音宣教の時代を大きく分ける出来事が15章に記されています。主の兄弟として知られるヤコブのもとに使徒たちが会した「エルサレム会議」です。
パウロたちが自分たちを通して異邦人の間で行われた神様のあらゆるしるしと不思議な業について報告しました(使徒15:1-12)。「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と言った人たちもいましたが、長老であるヤコブは「神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません」(同19)と結論を出しました。
そして使徒たちと長老たちの名前で異邦人の弟子たちに対して声明が出されました。「聖霊とわたしたちは、次の必要な事柄以外、一切あなたがたに重荷を負わせないことに決めました。すなわち、偶像に献げられたものと、血と、絞め殺した動物の肉と、みだらな行いとを避けることです。以上を慎めばよいのです。」(使徒15:28)
これを機に福音はますます広められ、パウロがフィリピというローマの植民都市までやってきましたことが続く16章に記されています。そこではユダヤの会堂を用いることができなかったのか、安息日であるにも関わらずパウロは町の門を出て川岸へと行きました。
ユダヤの人たちは安息日に労働したり町の外まで出かけたりすることが禁じられていました(参考ネヘミヤ記13:15-22)。しかしパウロはその線を踏み越えることによって、新しい弟子たちに重荷を負わせないだけでなく自らを異邦人と同じ高さに置いたのです。
エルサレムでの使徒会議の後の世代、律法や掟の要求を免れた最初の弟子たちがフィリピの町でも起こされました。家族ぐるみで洗礼を受けた異邦人の弟子たちは、かつてイエス様を家に招いた収税人たちのようにパウロたちを家に迎えたのです(使徒16:15、33-34)。
「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってパウロとルカを招いたリディアの姿は、マタイやザアカイにも重なります(マタイ9:9-10、ルカ19:5-6)。異邦人における最初の弟子たちが起こされて以来、「今日、救いがこの家を訪れた。(中略) 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:9-10)とのイエス様の招きがイスラエル以外の人たちにも宣べられています。
2.最初の弟子たちへの召し
いつの時点での最初であったとしてもキリストの弟子であるには変わりないので、イエス様からの召しと使命は同じはずです。時代と様式が変わっても、キリストの弟子としての原点はやはりガリラヤの漁師たちにあります。
ヨハネによる福音書によればイエス様とペトロたちはガリラヤ湖で初めて会ったのではなく、洗礼者ヨハネが弟子として引き合わされました。ヨハネから洗礼を受けたイエス様がガリラヤの漁師4人を弟子として裾分けされた様子が記されています(ヨハネ1:35-42)。
朗読いたしました箇所には「イエスがゲネサレト湖畔に立っておられると」(1)とありますが、これはガリラヤ湖のことです。押し寄せてきた群衆から少し離れるためにイエス様は顔見知りであったシモン・ペトロの舟に乗せてもらいました。
話し終えられた後に「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(4)と言われたイエス様に対して、シモンは一度「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」と断りを入れます(5)。それでも乗りかかった舟とはよく言ったもので、「しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と彼は気前の良く応じます。
ところが何ということでしょう、一晩中かけても魚が網に入らなかったのにイエス様のお言葉ひとつで「おびただしい魚がかかり、網が破れそうになった」(6)のです。助けに来た仲間ヨハネとヤコブが乗る舟も魚でいっぱいになり、二そうとも沈みそうになりました。
この4人の漁師たちがイエス様とともに洗礼者ヨハネの門下にいたときには、他の人より知恵のある教師の一人だと思っていたのでしょう。ところがイエス様にかけられたお言葉ひとつで、それに従っただけで本職の漁師にも見通せない出来事が湖で起こったのです。
大工の息子に湖のことなど分かるはずがないと高を括りつつ「先生」と呼んでいた彼らは、途端にイエス様を「主よ」と呼び、神の人として受け入れました(8)。驚き恐れる漁師たちを「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10)とイエス様は招かれ、応えた弟子たちは「すべてを捨ててイエスに従った」のでした(11)。
シモンたちがガリラヤの漁師だったので「人間をとる漁師」という呼び方が印象的ですが、実は彼らが師事していた洗礼者ヨハネこそイスラエルの子らを釣り上げさせるために神様から遣わされた漁師の役目(エレミヤ16:16)を果たしていました。エレミヤ書によれば、主は漁師たちを遣わしてご自分の民を釣り上げさせた後に多くの狩人たちを遣わすことで、立ち帰ろうとしない者たちを「彼らはわたしの前から身を隠すこともできず、その悪をわたしの目から隠すこともできない」(同17)と容赦なく狩り出させるのです。
漁師は主の前に帰って来た者を水の中から引き上げますから、神の民に授けられる悔い改めの洗礼を暗示します。洗礼者ヨハネは自分より後に来る方を「わたしはあなたたちに水で洗礼を授けるが、わたしよりも優れた方が来られる」(ルカ3:16)と示し、聖霊と火による洗礼すなわち神の子による裁きを説きました。
「隅々まできれいにし」「消えることのない火で焼き払われる」と逃れることのできない裁きは、エレミヤによる「すべての山、すべての丘、岩の裂け目から、彼らを狩り出させる」と言われた狩人たちが容赦のない様に通じます。すなわちイエス様が「人間をとる漁師」を遣わしたのは悔い改めの洗礼を授けさせるためであり、再び来られるときには裁きとしての狩人たちつまり聖霊と火による洗礼を授けると予告されるのです。
使徒たちは多くの奇跡を見てイエス様を信じましたが、主は「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」(ヨハネ20:29)とも言われました。そして今の時代もまだ教会を通して水による洗礼が授けられておりますから「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(2コリント6:2)です。
キリストの弟子である私たちもまた、最初の弟子たちと同じく人間をとる漁師としてこの世に遣わされています。
<結び>
「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。」(一ペトロ1:8)
十字架から3日目に復活したイエス様は、40日ほど弟子たちと過ごされた後に人々の見ている前で天に昇られました。キリストを見ないのに信じる最初の弟子たちの時代に入ります。
更に律法に対する義務を持たない、異邦人による最初の弟子たちが生じました。新約聖書に記されている限られた期間でさえもいくつかの世代における「最初の弟子たち」がありました。
今の時代にあるキリストの弟子たちにも、世代によって適用される基準に違いが設けてられてもよいでしょう。従来の習慣や様式と異なる人たちが教会に加わってくるとき、新らたな時代における「最初の弟子たち」と受け入れることができれば将来は明るく見えるでしょう。
違和感があればもはや自分の方が古いのだと気づかされるところです。聖霊によって新しくされ、私たちもまたこれからの時代における最初の弟子たちとなりましょう。