「福音を告げ知らせる」ルカによる福音書4章16-30節
2023年1月22日
牧師 武石晃正
振り返りますと3年前のちょうどこの時期のことになりますが、初めて宇都宮上町教会の主日礼拝に出席させていただきました。日本基督教団の教師として1年目、まだ海の物とも山の物ともつかない伝道師でしたが、役員をはじめ教会の皆さんが受け入れてくださったことをありがたく思い出します。
同年4月、招聘を受けて着任するや否や、首都圏などに史上初の緊急事態宣言が発表されました。それ以降もまん延防止措置を含めて断続的に様々な規制がかかる中、延べ2年ほどの間に教会員だけでも5名の兄姉を主の御許へと見送りました。
誰もがやがて世を去る日が来ると分かっているとは言っても、礼拝を伴にしてきた方がおられなくなることはポッカリと穴が開いたような寂しさです。そのような私たちを慰め励ますかのように、主は2022年度のうちに洗礼者2名転入会者3名の5名を加えてくださいました。
折が良くても悪くても主の日毎の礼拝をたゆまずに続け、教会は福音を正しく宣べ伝えて参りました。本日はルカによる福音書を開き、「福音を告げ知らせる」と題して思いめぐらせましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
振り返りますと3年前のちょうどこの時期のことになりますが、初めて宇都宮上町教会の主日礼拝に出席させていただきました。日本基督教団の教師として1年目、まだ海の物とも山の物ともつかない伝道師でしたが、役員をはじめ教会の皆さんが受け入れてくださったことをありがたく思い出します。
同年4月、招聘を受けて着任するや否や、首都圏などに史上初の緊急事態宣言が発表されました。それ以降もまん延防止措置を含めて断続的に様々な規制がかかる中、延べ2年ほどの間に教会員だけでも5名の兄姉を主の御許へと見送りました。
誰もがやがて世を去る日が来ると分かっているとは言っても、礼拝を伴にしてきた方がおられなくなることはポッカリと穴が開いたような寂しさです。そのような私たちを慰め励ますかのように、主は2022年度のうちに洗礼者2名転入会者3名の5名を加えてくださいました。
折が良くても悪くても主の日毎の礼拝をたゆまずに続け、教会は福音を正しく宣べ伝えて参りました。本日はルカによる福音書を開き、「福音を告げ知らせる」と題して思いめぐらせましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.御言葉を受け入れない人たち
イエス様の言葉が語られてもそれを受け入れない人たちがいることは、ルカだけでなく4つの福音書が異口同音に伝えています。福音書は主イエス様の言行録であると同時に、この事実を教会の中にいるキリストの弟子たちへ問いているところです。
ちょうどイエス様が世におられた時代においてイスラエルと呼ばれる神の民の中にも御言葉を聞いて信じる者とそうでない者がいたように、洗礼を受けてキリストの弟子とされた者たちの中にも両者が含まれていることを暗に示されます。というのもイエス様のお言葉は直接お会いになった弟子たちばかりでなく、聖書を通して聖霊によっていつの時代の弟子たちにも語られているからです。
朗読の箇所は「イエスはお育ちになったナザレに来て」(16)と始まっており、それまでは「イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた」(15)とあるようにガリラヤ地方の町々で天の御国の福音を宣べ伝えておられました。表向きには洗礼者ヨハネの弟子という立場をお持ちでしたので、ユダヤの教師の一人として安息日には会堂で聖書を朗読したり説き明かしたりしていたのです。
お育ちになったナザレでも同じく安息日に聖書を朗読し、その口から出る解き明かしは恵み深い言葉だったとルカは記しています。聞いている人々に対してイエス様は「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21)とおっしゃいました。
この「実現した」という語は満たされていっぱいになった状態を示すので、聖書の言葉が耳の奥まで入っていかず入口で溢れてしまったことを表します。彼らはイエス様が「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いた」ので褒めはやすだけ褒めはやし、主に従うことなく自分たちの勝手な都合でみわざを行わせようとしたのです(23)。
「この人はヨセフの子ではないか」(22)とは、「一丁前の教えを説くからどこの誰かと思えば大工のヨセフのせがれではないか」という驚きのようです。彼らの求めは「あんたの家とは親父さんの代からの付き合いだし、お前さんが子どものころから面倒を見てきてやったんだぞ」「世話してやったんだから我々の言うとおりにしろ」との無理強いです。
返してイエス様は「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(24)とおっしゃいます。福音書を通してこの言葉は教会にも向けられていますから、ルカの目にはナザレでイエス様が受けたと同じ仕打ちを教会の教師たちが受けていると映ったでのしょう。
神の国の福音を聞いても受け入れない人やそれを曲げて用いる人がいます。イエス様はエリヤとエリシャという旧約聖書の列王記に登場する偉大な二人を引き合いに出し、神の民が受け入れなかったので預言者が異邦人へと遣わされたのだと示されました。
そこでイエス様に本心を暴かれてしまったナザレの会堂の人々は、なんと「総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(29)というのです。聞くに堪えないようなことではありますが、信じがたいことにこの人たちは自分たちの伝統や秩序を守るために真面目に行動しているのです。
人々の間を通り抜けて立ち去られてイエス様は難を逃れましたが、使徒たち以降の教師や牧師たちにも教会あるいはその町を追われるという状況があったでしょう。結果としてイスラエルが御言葉を受け入れなかったので主の恵みが異邦人に注がれたように、ユダヤの人々から否まれたパウロもまた異邦人へ福音を告げ知らせる者とされました(使徒18:6)。
お育ちになったナザレでイエス様が拒まれたので、ガリラヤ全域からシリアの人たちに神の国の福音が告げ知らされることになりました。エリヤとエリシャの時代と重なります。
2.召された聖なる者たち
福音書を記したルカを伴ってローマ各地を宣教した使徒パウロもまたいくつもの書簡を書き送りました。聖霊によって始まったばかりの教会とそこに仕える教師たちを励ます書簡のうち、その一つがコリントの信徒への手紙です。
土地柄や地域性もあいまってコリントでのパウロの宣教は困難を極めました(使徒18:6以下)。そのコリントの教会へパウロは「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」(一コリント1:2)と呼びかけています。
パウロが伝えた福音とは何か、コリントの信徒への手紙からも知ることができます。2つだけ挙げるとすれば、一つはキリストに召されて聖なる者とされたということであり、もう一つは言葉と知識とによってキリストの証しが確かにされることです(同5-6節)。
あのナザレの人たちと違い、この手紙の受取人たちは福音を耳から溢れさせることなく受け入れたのです。「その結果、あなたがたは賜物に何一つ欠けるところがなく、わたしたちの主イエス・キリストの現れを待ち望んでいます」(同7)と、その信仰の目指すところはキリストの再臨にあることをパウロは明らかにしています。
ところが主が再び来られることを見る前にこれまですべての信仰者が世を去っていることから、実はこの再臨信仰は個々の信仰心だけでは成り立たないのだと分かります。主キリストの再臨に望みをおくこの福音は、イエス様が再び来られるその時まで受け継がれてはじめて意味を成すのです。
実際にイエス様を見たという人たちは遅くとも2世紀初頭には地上から消え去っています。それ以降の人たちについて「キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(一ペトロ1:8)と聖書は告げています。
ベツレヘムに生まれナザレで育ちエルサレムで十字架の上で死なれた方を見たことがなくても信じることができるように、主が再び来られることもまだ見なくても再臨を信じることができるのです。見たことがない方を信じることができるのは誰かに伝えられたからであり、見てもいない再臨を信じていることは「わたしたちの主イエス・キリストの日」(一コリント1:8)まで語り継ぐことで明らかになります。
聞かされなければ求めることもできず、伝えなければ確証されない福音です。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)とご自身に主権があることをイエス様は断言されました。
更に「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、(中略)わたしがあなたがたを任命したのである」と続けられます。福音を聞いたなら伝えても伝えなくてもよいものではなく、再臨の時まで告げ知らせるためにあなたをイエス様が選んで召されたということです。
もちろん意思をもってキリストを信じたのは紛れもない事実ですが、召して下さったのは神の子イエス様なのです。ナザレの人たちは自分たちに選ぶ権利があるように思っていましたが、私たちはそのような思い違いをして主の口から出る恵み深い言葉を逃すことのないよう心がけましょう。
「主も最後まであなたがたをしっかり支えて、わたしたちの主イエス・キリストの日に、非のうちどころのない者にしてくださいます。」(一コリント1:8)
<結び>
「神は真実な方です。この神によって、あなたがたは神の子、わたしたちの主イエス・キリストとの交わりに招き入れられたのです。」(一コリント1:9)
交わりに招き入れられるとはキリストと一つにされること、主キリストの体の一部とされることです。体の一部ですから私が頭に命令するのではなく、招き入れられたあなたを通して主がご自身のわざをなそうとされるのです。
礼拝に集い、教会の交わりに加えられて、キリストとの交わりに招き入れられました。この恵みのうちにわたしたちは主の十字架を負い、主が再び来られる時まで福音を告げ知らせるのです。