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「教えるキリスト」ルカによる福音書8章4-15節

2023年2月5日
牧師 武石晃正

 早いもので今年も1か月が過ぎました。2月を迎えますと最初の祝日が11日の建国記念の日、キリスト教を含めた宗教界ではこの日を信教の自由を守る日と呼んでいます。
 信教の自由についての解釈や見解はあまたとあるようですが、日本国憲法が保障する国民の権利の一つであります。自由だからといって何をやってもよいというのではなく、日本国においては他の権利に並んで公共の福祉に反しない限り尊重されるものなのです。

 同時にキリスト教を信じることについても好き勝手に信じてよいのではなく、ニカイア信条を継承しないとか聖書以外を神の言葉とする者は異端と見なされます。何を信じるのかを選ぶ自由が保障されることと、入門した宗教の教えが正しいかどうかとは別物であると言えましょう。
 またキリスト教を学ぶこととキリストの教えに聞き従うこととは似て非なるものです。本日はルカによる福音書からイエス・キリストの御言葉をいただき、「教えるキリスト」と題して取り扱って参りましょう。

PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.弟子たちだけに説き明かされた教え
 4つの福音書のうちマタイ、マルコ、ルカの3つは共観福音書と呼ばれており、一つの出来事や教えについてそれぞれの視点から捉えて記されています。両目を開いて何かを見るときに左右の目で見える角度が違うように、視点の違う複数の福音書によってイエス様を立体的に知ることができるのです。
 聖書新共同訳では小見出しがつけられており、この「種を蒔く人」のたとえも3つの福音書に共通して記されています。いずれもガリラヤの町カファルナウムの郊外で群衆に向けてイエス様が語った教えの一つです。

 何の種であるかは記されていませんが、たとえとしては4つの結果があり、実を結んだのはそのうちの一つです。道端や石地、茨の中と違いはあっても、良い土地に落ちたものだけが実るのです。
 日常生活で身近なものやごく当たり前のものをイエス様は教えのたとえに用いられます。種を蒔く人は道端や石地に種が落ちることをいちいち気に留めることなく、良い土地を目指して種を蒔くのです。

 解き明かしによれば「種を蒔く人」は神の言葉を蒔きますから(11)、この人は天の父あるいは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)とおっしゃったイエス様を第一に指しています。そして「良い土地」とは説き明かしを受けることが許されている「弟子たち」(9-10)です。
 イエス様におかれても福音書の記者たちにおいても「群衆」と呼ばれる人々と「弟子たち」とを明確に分けて扱います。群衆と扱われている者たちは程度の差こそあれ、道端、石地、茨の中といずれも種を蒔くに相応しくない土地なのです。

 繰り返しになりますが、種を蒔く人は良い土地を目指して種を蒔きに出て行ったのです。イエス様ご自身が御国の言葉を宣べ伝える者であり、弟子たちには「立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たち」と呼んで福音を委ねられます。
 弟子たちもまた「種を蒔く人」として良い土地へ種を蒔くようにと遣わされます。そこで「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい」(マタイ10:11)と命じられたことで、蒔かれた種が「生え出て、百倍の実を結んだ」良い土地であると明らかになるのです。

 他方で道端や石地に蒔くことは目的ではないこともイエス様は弟子たちに言い含めます。「あなたがたを迎え入れもせず、あなたがたの言葉に耳を傾けようともしない者がいたら、その家や町を出て行くとき、足の埃を払い落としなさい」(マタイ10:14)と言われているとおりです。
 癒しや奇跡を求めて集まって来た群衆は大勢でしたが、御言葉を聞いても実らない彼らのためにイエス様は説き明かす時間を費やしていないことを福音書は示します。しかし群衆ではなく弟子として御言葉を聞き入れる良い土地は、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶので、主も忍耐強く教えてくださるのです。


2.キリストの弟子に倣う者
 御言葉が蒔かれて実るはずの良い土地ではありましたが、遣わされた当初の弟子たちにも本当の意味での福音は隠されていました。12人の使徒たちでさえ最初から豊かに実ったわけではなく、オリーブ山でイエス様が捕らえられた時にはみな恐れて逃げ出してしまったほどです。
 裏切られ引き渡され、不当な裁判の末に散々な暴力を加えられたイエス様は無残な姿で十字架にかけられました。壮絶な痛みと耐えがたい孤独に苦しまれ、罪のない方が私たちすべての受けるべき罰を御父の前で受けてくださったのです。

 一粒の麦が地に落ちて死んだことで多くの実が結びました(ヨハネ12:24)。葬られて3日目によみがえられた主は弟子たちに再び現れ、彼らの目の前で天に昇った後、彼らに聖霊を下されました。
 キリストの復活と昇天の後、ペンテコステ以降の弟子たちはユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで遣わされました。ユダヤ人だけでなくギリシャ、ローマの異邦人へと遣わされた弟子の一人に使徒パウロという人がおりました。

 小アジア半島の各地からギリシャにかけてパウロは町々でキリストの死と復活とを宣べ伝えました。神の言葉は良い土地に蒔かれるばかりでなく、道端や石地、茨の中にも落ちました。
 ギリシャのコリントという町での宣教はパウロにとって難儀を極めました。しかしそこには「平和の子」(ルカ10:6)がいたのでしょう、パウロはその町に1年半もとどまって人々に神の言葉を忍耐強く教えました(使徒18:11)。

 ここで「種を蒔く人」の側ではなく、弟子となる側に視点を向けてみましょう。弟子あるいは信徒となるということは言い換えれば入門することであり、指導する資格のある者から教えを受ける立場です。
 ところがコリントの教会の一部はユダヤ人のようには教師を敬うことをせず、その傍若無人な様子をパウロは「わたしたちを抜きにして、勝手に王様になっています」(一コリント4:8)と指摘しています。「わたしたちは弱いが、あなたがたは強い。あなたがたは尊敬されているが、わたしたちは侮辱されています」(10)とパウロが綴ったところは、異教徒の中で受けた迫害ではなくなんと教会の中で起こったことなのです。

 蒔かれた種はどこへ行ったのか、良くても茨の中、実ることがないのでパウロは苦心と徒労を重ねたことです。遠くからコリントの人たちを思いやりつつも、パウロは「わたしがあなたがたのところへ鞭を持って行くことですか、それとも、愛と柔和な心で行くことですか」(21)と決断を迫ります。
 後にコリントの教会は苦渋の選択により、大きな痛みを伴いながら問題に取り組みました(二コリント2:5-6)。その知らせを受けたパウロは「あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」(同10)と書き送り、キリストの弟子の掟が全うされました(ヨハネ13:34-35)。

 こうして御言葉が道端や石地、茨の中に落ちながらも良い土地へと蒔かれたことによって、主キリストの体である教会が建て上げられていきました。ガリラヤで弟子たちにたとえを用いて教えるキリストが、今もなお聖霊によって教会を通して良い土地に種を蒔くのです。
 

<結び>
 「悪い実を結ぶ良い木はなく、また、良い実を結ぶ悪い木はない。木は、それぞれ、その結ぶ実によって分かる。」(ルカ6:43-44)

 大勢の群衆がイエス様のもとに集まりましたが、同じ御言葉を聞いても説き明かしを受けたのは弟子たちだけでした。それは聞く耳のない者たちが見ても見えず、聞いても理解できないようになるためだとイエス様はおっしゃいました。
 「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われても聞こうとしない者もあれば、神の国の秘密を悟ることが許されている者もいます。種は道端にも落ちますが種を蒔く人が蒔こうとするのは良い土地だけです。

 御国の言葉を教えるキリストのみわざが体である教会に委ねられています。同じ御言葉を聞いても石地や茨の中である群衆なのか、良い土地である弟子なのかと問われます。 
 「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。」(ルカ8:15) 次週の聖餐に備え、各々が自分をよく確かめましょう。

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