「いやし主キリスト」ルカによる福音書5章12-26節
2023年2月12日
牧師 武石晃正
「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(ルカ8:15)と先週の礼拝で読んだところです。良い土地に蒔かれた種であっても、作物は病気や虫害などに悩まされることがあるでしょう。
昨年は健康診断を受けたところ、初めていくつかの項目に所見がつきました。いずれも再検査で異状なしとのことでしたが、検査を受けるというだけで既に何か悪い病気にかかったような複雑な気持ちでした。
心の持ちようによっては病気でなくとも気分や体調が悪くなるということを経験し、「病は気から」とはよく言ったものだと実感しました。普段から健康であるということと、病気への備えとは似て非なるものなのでしょう。
旧約新約問わず聖書には主なる神様の恵みによって病人が癒されるという場面が数多く記されています。そのうちルカによる福音書を開き、本日は「いやし主キリスト」と題して読んで参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
「良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(ルカ8:15)と先週の礼拝で読んだところです。良い土地に蒔かれた種であっても、作物は病気や虫害などに悩まされることがあるでしょう。
昨年は健康診断を受けたところ、初めていくつかの項目に所見がつきました。いずれも再検査で異状なしとのことでしたが、検査を受けるというだけで既に何か悪い病気にかかったような複雑な気持ちでした。
心の持ちようによっては病気でなくとも気分や体調が悪くなるということを経験し、「病は気から」とはよく言ったものだと実感しました。普段から健康であるということと、病気への備えとは似て非なるものなのでしょう。
旧約新約問わず聖書には主なる神様の恵みによって病人が癒されるという場面が数多く記されています。そのうちルカによる福音書を開き、本日は「いやし主キリスト」と題して読んで参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.2人の病人をいやすキリスト
本日の朗読箇所はイエス様がカファルナウムで弟子たちを招かれた文脈の間に置かれています。弟子たちにもそれぞれ違いがあったように、癒された人たちも自分でイエス様のところへやって来た者と友人に運んで来られた者と事情はそれぞれです。
一人目は重い皮膚病かかった人で、この病はレビ記をはじめユダヤの律法で厳しい規定がありました。掟を破って人前に出てきただけでも大問題であるのに、なんとこの人は目の前にいる人間に対してひれ伏し「主よ」と神と等しく崇めたのです(12)。
「御心ならば」と翻訳上は控えめに見えますが、直訳的には「あなたが願うなら」つまり願っただけで清めることができるのだという告白です。これを受けてイエス様は「よろしい」と答えますが、「わたしは願おう」という宣言にも受け取れます(13)。
汚れた者を裁いたり見て見ぬふりをしたりではなく、その人が求めるなら清めることを願われるのが救い主キリストです。律法の規定に対して重大な違反をしたように見えましたが、この病人は律法を定めた神がどなたであるかを知って、その御心に従ったのでした。
もう一人の病人については17節以下、「中風の人をいやす」と小見出しが付けられております。この出来事についても先の病人と同じく3つの福音書(マタイ、マルコ、ルカ)に記されています。
共通しているのは、イエス様がすでに安息日ごとにユダヤの会堂を巡回し、御国の福音を宣べ伝えてはさまざまな病気を癒したことが知れ渡っていたということです。噂を耳にした「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」は、ナザレのイエスが何者であるか確認すべくやって来ました(17)。
聞きつけた大勢の人々も病人をいやしてもらおうと押し寄せてきます。群衆が通りに人垣を作るほどにあふれ返ったほどです(19)。
押すな押すなの混雑の中、重病人を担いできた人たちがおりました (18)。イエス様のいる家まで来ると、この男たちは屋根に上って瓦をはがしはじめたというのは驚きです。
騒々しくなったと思ったらちりやほこりがバラバラと頭の上に落ちてくるので、家の中でイエス様の話を聞いていた人たちは相当に迷惑だったことでしょう。そうこうして男たちは「病人を床ごとつり降ろした」(19)ので、事情を知ったイエス様は「人よ、あなたの罪は赦された」(20)と声をかけられました。
病気を治してほしくて連れてこられたのに、罪は赦されたと言われた当人はどのような気持ちだったでしょうか。ほかにも律法学者たちやファリサイ派の人々は「ただ神のほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」とあれこれと考え始めます(21)。
彼らの胸中を見通して、イエス様は吊るされて来た人におっしゃいました。「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(24)。
この一言も「わたしはあなたに言う」との前置きによって支配者が下す命令のようです。「光あれ」と創造主の言葉どおりに光があった天地創造を思わされます(創世記1:3)。
「起き上がれ」とイエス様が言われたとおりにその人はすぐさま皆の前で立ち上がりました(25)。病気が治ったから立ち上がれるようになったということではなく、立ち上がって床を担ぐことが実現するために麻痺が直ちに取り除かれたという次第です。
すべてを明け渡し「お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったマリアの信仰にも通じます(1:38)。本人の努力や医師の治療などそれまでの過程は一切問われておらず、ただ受けとる信仰があったのでお言葉どおりにこの人はいやしの恵みを受けました。
2.人はなぜ病気になるのか
いやし主であるキリストを信じ、その恵みによって癒していただけるとしても、私たち人間はなぜ病気になるのでしょうか。病気がなければ人は死なずに済むのでしょうか。
亡くなる方が必ずしも病気によるとは限りませんが、何件かの葬儀に携わったうちでは闘病の末に亡くなられた方のほうが多かったと記憶しています。仮に一切の病気にかからず一生を過ごすことができたとしても死なない人はいないので、「人はなぜ病気になるのか」という問いと「人はなぜ死ぬのか」という問いとは本質的には同じことになりましょう。
聖書において病気と死とどちらが先にあるかと申しますと、実は死のほうが先にあるのです。神様が人を創られた際にエデンの園のある善悪の知識の木について「食べると必ず死んでしまう」と言われたからです。
最初の人アダムとエバがその木から取って食べたため、全人類と被造物世界に死と呪いが及びました。必ず死ぬと定められたので地上に生を受けた瞬間から死に向かって進んでおり、その過程として身体や精神の機能に不調をきたすのではないでしょうか。
人は病気になったから死ぬのではなく、死に至る前段階として病気や機能不全が起こるとも考えることができるでしょう。いずれであっても死の最たる原因は罪すなわち神への不服従にあると聖書は繰り返し教えています。
また聖書は「人は皆、罪を犯して」(ロマ3:23)おり、「罪が支払う報酬は死」(ロマ6:23)であると明らかにします。福音書にあるユダヤの人たちは重い皮膚病や麻痺などの治らない病気を罪の象徴のように考えていましたが、すべての人は必ず死ぬのですから病気か否かに関わらず誰もが真っ赤な罪人なのです。
そこでイエス様のお言葉を思い返してみましょう。「よろしい。清くなれ」(13)「あなたの罪は赦された」(20)とどちらも病気を癒す言葉ではなく、その背景にある罪そのものを清めまた赦しておられることが分かります。
もう一つ着目すべきは20節に「イエスはその人たちの信仰を見て」と記されていることです。信仰とは心の中だけでなく身体にも及ぶものであり、「信じる者には何でもできる(してあげられる)」(マルコ9:23)とイエス様はおっしゃって病人たちを癒されます。
信仰による救いと申しますと新約聖書の専売特許のように思わるかもしれませんが、実は旧約聖書は心と体が密接に人格を形成していることを示しています。箴言では「主を畏れ、悪を避けよ」という心の態度すなわち信仰が、「あなたの筋肉は柔軟になり あなたの骨は潤される」とその人の肉体と生命を助けるのだと説いています(箴言3:7-8)。
神様は肉体ばかりでなく心も病むことを旧約の時代からイスラエルに気づかせています。箴言には「人の霊は病にも耐える力があるが 沈みこんだ霊を誰が支えることができよう」(箴言18:14)と書かれています。
軽い病であれば気の持ちようで何とかなることもありますし、重い症状であっても信仰と祈りによって死の淵から再び起き上がらせていただく方もおられます。しかし心が折れてしまったならば、良くなりたいという思いさえも抱くことがままならないでしょう。
なぜ病気になるのか、それは私たちの体も心も生まれながらに死へ向かっているからです。死に定められているのはアダムにおいて人類が神に背いており、人間ひとり一人も生まれながらには神を知らないという罪の中にあるからです。
イエス・キリストは神でありながら一人の人間として世に生まれ、罪を犯したことがなかったのに十字架にかかってわたしたちの罪を担ってくださいました(Iペトロ2:22-24)。「そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」との御恵みは単に心のいやしに留まらず、罪の赦しに伴う死の支配からの解放、肉体のいやしに至るのです。
<結び>
「人々は皆大変驚き、神を賛美し始めた。そして、恐れに打たれて、「今日、驚くべきことを見た」と言った。」(26)
いやされた人は自分の足で主イエスのもとへ来た者もおりましたが、友人らに運ばれてきた者もおります。とはいえ病人を担いできた者たちでさえイエス様をナザレから町へ招いたわけではなく、イエス様のほうから彼らのところへ来てくださったのです。
誰ひとり自分から主を信じた者はなく、イエス様のほうから近づいてくださいました。自分から求めたように思っても、その知らせを誰かから聞いて私も主を知りました。
罪を赦された者たちが主キリストのからだである教会に呼び集められます。主はご自分のもとにお招きになった者たちの罪を赦すだけでなく、身も心も魂もいやされます。
教会の信仰の内に主が働かれるとき、いやし主キリストのみわざが現れます。私たちは父子聖霊なる神による罪の赦し、からだのよみがえり、とこしえの命を信じつつ、主が再び来られる時までこの恵みを告げ知らせるのです。
いやし主キリストは今日も愛する者たちと共におられてこう語られます。「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」(24)