「パンを裂くキリスト」ルカによる福音書9章10-17節
2023年2月19日
牧師 武石晃正
今週の水曜日(2/22)は教会暦において「灰の水曜日」、この日からレント(受難節)が始まります。イースターまでの主日を除いたこの40日間は四旬節と呼ばれ、主の苦しみを覚えつつ自らを振り返る期間とされています。
朗読いたしました箇所は5000人の給食としてよく知られており、イエス様の奇跡によって非常に多くの人々がお腹をみたされたという出来事です。「人はパンのみにて生きるにあらず」と旧約の時代から言われているように、何を食べようか何を飲もうかと思い悩むことは異邦人すなわち神の言葉を求めない者のすることであるとイエス様はおっしゃいます。
私たちは神の御前に招かれておりますから、食事だけではなく主の口から出される御言葉によって養われます。本日はルカによる福音書より「パンを裂くキリスト」と題して主と弟子との姿に思いを深めて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
今週の水曜日(2/22)は教会暦において「灰の水曜日」、この日からレント(受難節)が始まります。イースターまでの主日を除いたこの40日間は四旬節と呼ばれ、主の苦しみを覚えつつ自らを振り返る期間とされています。
朗読いたしました箇所は5000人の給食としてよく知られており、イエス様の奇跡によって非常に多くの人々がお腹をみたされたという出来事です。「人はパンのみにて生きるにあらず」と旧約の時代から言われているように、何を食べようか何を飲もうかと思い悩むことは異邦人すなわち神の言葉を求めない者のすることであるとイエス様はおっしゃいます。
私たちは神の御前に招かれておりますから、食事だけではなく主の口から出される御言葉によって養われます。本日はルカによる福音書より「パンを裂くキリスト」と題して主と弟子との姿に思いを深めて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.五千人に食べ物を与えたキリスト
「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」(10)とありますように、ガリラヤの各地へ遣わされていた弟子たちがイエス様の元に帰ってきました。直接は書かれていませんがイエス様はカファルナウムにおられたことです。
宣教と訓練ために弟子たちを遣わしたのはよいのですが、同じころに捕えられていた洗礼者ヨハネが領主ヘロデに殺されます。その報告がイエス様の耳にも入りますと(マタイ14:1-12)、弟子たちにも危害が及ばないかと心配しながら待っておられたことでしょう。
カファルナウムでは既に人々に知られてしまっていますので、イエス様は帰って来た弟子たちを労わるようにベトサイダという町に退かれようとされました。追手を避けるべく弟子たちに舟を出させたところ(マタイ14:12)、それに気づいた群衆に陸路で先回りされてしまいました(11)。
この人々を迎えて御言葉を説いては病をお癒しになるイエス様の姿を見て、旅から帰ったばかりでくたくたに疲れている弟子たちはどのように感じていたでしょうか。もちろん弟子でありますから多少の不満があったとしても集まった人々の訴えを聞いたり、先に授かった病気をいやす力と権能(1)を用いたりしたことは推して知るところです。
そうこうしているうちに日が傾き始めました(12)。季節にもよりますが午後3時頃でしょうか、弟子たちはそわそわしながらイエス様へ「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と願い出ました。
集まった群衆の人数についてルカは男が5000人ほどいたと記しており(14)、当時は筆頭者である男性の数を世帯数としたようです。単身者だけでなく病気の家族を伴って来た者もあありますから、実際の人数はこの倍から3倍は見込まれます。
50人ぐらいずつ組にして座らせた様子は、とある情景を思わせます。ガリラヤ湖が近いとは言ってもパレスチナの乾いた気候の野山、そこに1万人にも上る群衆が組になってたたずむ様は、モーセが率いる出エジプトのイスラエルのようです。
イエス様は差し出された5つのパンと2匹の魚を取り、賛美と祝福ののちにそれらを裂いて弟子たちに配らせました(15)。すべての人が満腹してなお余ったパンと魚は、主がシナイの荒れ野で降らせたマナとうずらに重なるようです(出16:13)。
5つのパンで5000人かそれ以上の人々が満たされるはずはない、配られる様子を見て自分が隠し持っていたパンを出した人がいたのだろう、そのように考える人もいるでしょう。しかし、もしあなたなら自分で食べる者を持ってきているのにわざわざ配給を待って座っていたいと思いますか。
「すべての人が食べて満腹した」とは分け隔てのないイエス様のみわざです。「そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」と残ったパン切れの数も、マタイやマルコが証言する通りです。
2.パンは誰のために裂かれたか
「5000人の給食」として知られている出来事については、教会に永く集っておられる方々はもちろんキリスト教学校に通われた方も一度ぐらいは耳にする箇所の一つです。話としては良く知られておりますが、ふとイエス様が誰のためにパンを裂かれたのかと考えさせられました。
食べた人のお腹を満たすのですから、パンは群衆のために裂かれたというのが当たり前の答えです。そこで信仰の目でもう一度イエス様のお手元を見てみますと、裂かれたパンは弟子たちへ、しかも配るために渡されていることに気づきます。
福音書もイエス様も弟子と群衆との間に明らかな区別をしていますから、イエス様がパンを裂されたのは弟子たちのためであると考えてよいでしょう。パンを裂いた方がどなたであるかを弟子たちが身をもって感じ取り、授かったパンを手で裂きながら配ることで自らもキリストの業を為すものとされるのです。
日が傾きかけた頃までの弟子たちの働きを振り返ってみましょう。当日の朝に戻って来たということはないとしても前後して1日2日というところでしょうか、伝道の旅から帰ったばかりで疲れも残っているようなうちに朝から舟で出かけてきました。
マルコによる福音書ではイエス様が弟子たちを休ませるために人里離れたところへ出かけたと証言されています(マルコ6:31)。ところがせっかくの休みをいただけるはずが、5000人も何千人もの人々がやって来てしまったのです。
イエス様お一人で数千人もの人々を癒されたというわけでもなさそうです。弟子たちにはあらかじめ病気をいやす力と権能が授けられていますから、彼らもイエス様のお名前によって病人たちをいやしたであろうことは暗に示されます。
弟子たちの気持ちは天国に行ってから直接お聞きしてみたいところですが、中には「イエス様のお名前でいやしているけれど、実際に手を動かしているのは俺たちじゃないか」と心のどこかに抱いた者もありましょう。「癒してあげよう」と良いわざを行う対象としてだけ人々を見てしまったなら、目の前の病人が今日食べるパンさえ持ち合わせていないことを見落としてしまっていたとも推察できます。
多くの病人をいやして人々から慕われて気分が良くなっていたところで日の傾きにハッとします。この人たちには食べる物がない、そしてお金もなければお店もないのです。
「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12)とは来た時からの状況であり、初めから分かっていることです。ある弟子は「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と素早く勘定の不足を提示しました(マルコ6:37)。
いずれも事実を告げているのですから言葉の上では正しいのです。しかし置かれている状況を考えてみますと、弟子たちこそ今さら気づいて慌てているのに「先生、あなたがいつまでも腰を上げないからこんなことになったのです」と急に責任転嫁をしている格好になります。
空腹な群衆についての責任はイエス様にあるのでしょうか。集まって来た人々がパンを持っていないとか買うお金もないとか、そのような状況はイエス様よりも直接に関わって来た弟子たちの方が知っていたはずです。
二百デナリオンなどという今の日本円では百万円単位の金額をパッと勘定できるぐらいなら、朝の時点で「先生、今日は昼までに解散したほうがよさそうです」と言えば済んだことです。「私がその200デナリオンを支払うので心配ご無用です」との申出であればまだしも、いたずらに高額な数字を示すだけでは不信感や不安感をあおるだけでしょう。
数千人もの人々を前にして静かな緊張感が漂います。そこで主は五つのパンと二匹の魚を手に取って天を仰いで賛美の祈りを唱えると、それまで不安げにしていた弟子たちの手に委ねられたのです。
ここまでの議論はパンでお腹を満たした群衆とは全く関係のないところでなされています。自分の満足のために配られたパンを食べるだけの群衆ではなく、イエス様がパンを裂いたのは弟子たちのためだと言えましょう。
キリストの弟子でない群衆は弟子たちと同じパンを食べて養われても、時が来れば主ご自身によって追い返されてしまいます(マタイ14:22)。普段から弟子として主の食卓に与っていた者は、後の日にパンを裂くキリストを見て復活の恵みを受けるに至りました(ルカ24:30-31)。
<結び>
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」(マタイ26:26)
殴られ、打たれ、十字架の上で裂かれた主キリストの体を覚えます。主の前で同じパンから食べた人々の中には、食べて悟る者と解散させられる者がおります。
自分の満足を求めた者たちは解散させられましたが、後の日に弟子たちが主から受けた命令は「人々にパンを配れ」ではなく「わたしの弟子にしなさい」でした。教会は主キリストの体として聖餐台を備えた講壇の上で、腹を満たすパンではなく神の口から出る一つ一つの言葉を裂くのです。
数の上では食べて満腹した人の方がはるかに多いのです。けれども御からだをもってパンを裂くキリストは、パンと杯とに与る弟子たちと世の終わりまで共にいてくださいます。
「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた」(10)とありますように、ガリラヤの各地へ遣わされていた弟子たちがイエス様の元に帰ってきました。直接は書かれていませんがイエス様はカファルナウムにおられたことです。
宣教と訓練ために弟子たちを遣わしたのはよいのですが、同じころに捕えられていた洗礼者ヨハネが領主ヘロデに殺されます。その報告がイエス様の耳にも入りますと(マタイ14:1-12)、弟子たちにも危害が及ばないかと心配しながら待っておられたことでしょう。
カファルナウムでは既に人々に知られてしまっていますので、イエス様は帰って来た弟子たちを労わるようにベトサイダという町に退かれようとされました。追手を避けるべく弟子たちに舟を出させたところ(マタイ14:12)、それに気づいた群衆に陸路で先回りされてしまいました(11)。
この人々を迎えて御言葉を説いては病をお癒しになるイエス様の姿を見て、旅から帰ったばかりでくたくたに疲れている弟子たちはどのように感じていたでしょうか。もちろん弟子でありますから多少の不満があったとしても集まった人々の訴えを聞いたり、先に授かった病気をいやす力と権能(1)を用いたりしたことは推して知るところです。
そうこうしているうちに日が傾き始めました(12)。季節にもよりますが午後3時頃でしょうか、弟子たちはそわそわしながらイエス様へ「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」と願い出ました。
集まった群衆の人数についてルカは男が5000人ほどいたと記しており(14)、当時は筆頭者である男性の数を世帯数としたようです。単身者だけでなく病気の家族を伴って来た者もあありますから、実際の人数はこの倍から3倍は見込まれます。
50人ぐらいずつ組にして座らせた様子は、とある情景を思わせます。ガリラヤ湖が近いとは言ってもパレスチナの乾いた気候の野山、そこに1万人にも上る群衆が組になってたたずむ様は、モーセが率いる出エジプトのイスラエルのようです。
イエス様は差し出された5つのパンと2匹の魚を取り、賛美と祝福ののちにそれらを裂いて弟子たちに配らせました(15)。すべての人が満腹してなお余ったパンと魚は、主がシナイの荒れ野で降らせたマナとうずらに重なるようです(出16:13)。
5つのパンで5000人かそれ以上の人々が満たされるはずはない、配られる様子を見て自分が隠し持っていたパンを出した人がいたのだろう、そのように考える人もいるでしょう。しかし、もしあなたなら自分で食べる者を持ってきているのにわざわざ配給を待って座っていたいと思いますか。
「すべての人が食べて満腹した」とは分け隔てのないイエス様のみわざです。「そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」と残ったパン切れの数も、マタイやマルコが証言する通りです。
2.パンは誰のために裂かれたか
「5000人の給食」として知られている出来事については、教会に永く集っておられる方々はもちろんキリスト教学校に通われた方も一度ぐらいは耳にする箇所の一つです。話としては良く知られておりますが、ふとイエス様が誰のためにパンを裂かれたのかと考えさせられました。
食べた人のお腹を満たすのですから、パンは群衆のために裂かれたというのが当たり前の答えです。そこで信仰の目でもう一度イエス様のお手元を見てみますと、裂かれたパンは弟子たちへ、しかも配るために渡されていることに気づきます。
福音書もイエス様も弟子と群衆との間に明らかな区別をしていますから、イエス様がパンを裂されたのは弟子たちのためであると考えてよいでしょう。パンを裂いた方がどなたであるかを弟子たちが身をもって感じ取り、授かったパンを手で裂きながら配ることで自らもキリストの業を為すものとされるのです。
日が傾きかけた頃までの弟子たちの働きを振り返ってみましょう。当日の朝に戻って来たということはないとしても前後して1日2日というところでしょうか、伝道の旅から帰ったばかりで疲れも残っているようなうちに朝から舟で出かけてきました。
マルコによる福音書ではイエス様が弟子たちを休ませるために人里離れたところへ出かけたと証言されています(マルコ6:31)。ところがせっかくの休みをいただけるはずが、5000人も何千人もの人々がやって来てしまったのです。
イエス様お一人で数千人もの人々を癒されたというわけでもなさそうです。弟子たちにはあらかじめ病気をいやす力と権能が授けられていますから、彼らもイエス様のお名前によって病人たちをいやしたであろうことは暗に示されます。
弟子たちの気持ちは天国に行ってから直接お聞きしてみたいところですが、中には「イエス様のお名前でいやしているけれど、実際に手を動かしているのは俺たちじゃないか」と心のどこかに抱いた者もありましょう。「癒してあげよう」と良いわざを行う対象としてだけ人々を見てしまったなら、目の前の病人が今日食べるパンさえ持ち合わせていないことを見落としてしまっていたとも推察できます。
多くの病人をいやして人々から慕われて気分が良くなっていたところで日の傾きにハッとします。この人たちには食べる物がない、そしてお金もなければお店もないのです。
「わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(12)とは来た時からの状況であり、初めから分かっていることです。ある弟子は「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と素早く勘定の不足を提示しました(マルコ6:37)。
いずれも事実を告げているのですから言葉の上では正しいのです。しかし置かれている状況を考えてみますと、弟子たちこそ今さら気づいて慌てているのに「先生、あなたがいつまでも腰を上げないからこんなことになったのです」と急に責任転嫁をしている格好になります。
空腹な群衆についての責任はイエス様にあるのでしょうか。集まって来た人々がパンを持っていないとか買うお金もないとか、そのような状況はイエス様よりも直接に関わって来た弟子たちの方が知っていたはずです。
二百デナリオンなどという今の日本円では百万円単位の金額をパッと勘定できるぐらいなら、朝の時点で「先生、今日は昼までに解散したほうがよさそうです」と言えば済んだことです。「私がその200デナリオンを支払うので心配ご無用です」との申出であればまだしも、いたずらに高額な数字を示すだけでは不信感や不安感をあおるだけでしょう。
数千人もの人々を前にして静かな緊張感が漂います。そこで主は五つのパンと二匹の魚を手に取って天を仰いで賛美の祈りを唱えると、それまで不安げにしていた弟子たちの手に委ねられたのです。
ここまでの議論はパンでお腹を満たした群衆とは全く関係のないところでなされています。自分の満足のために配られたパンを食べるだけの群衆ではなく、イエス様がパンを裂いたのは弟子たちのためだと言えましょう。
キリストの弟子でない群衆は弟子たちと同じパンを食べて養われても、時が来れば主ご自身によって追い返されてしまいます(マタイ14:22)。普段から弟子として主の食卓に与っていた者は、後の日にパンを裂くキリストを見て復活の恵みを受けるに至りました(ルカ24:30-31)。
<結び>
「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』」(マタイ26:26)
殴られ、打たれ、十字架の上で裂かれた主キリストの体を覚えます。主の前で同じパンから食べた人々の中には、食べて悟る者と解散させられる者がおります。
自分の満足を求めた者たちは解散させられましたが、後の日に弟子たちが主から受けた命令は「人々にパンを配れ」ではなく「わたしの弟子にしなさい」でした。教会は主キリストの体として聖餐台を備えた講壇の上で、腹を満たすパンではなく神の口から出る一つ一つの言葉を裂くのです。
数の上では食べて満腹した人の方がはるかに多いのです。けれども御からだをもってパンを裂くキリストは、パンと杯とに与る弟子たちと世の終わりまで共にいてくださいます。