「神の子が受ける誘惑」ルカによる福音書4章1-13節
2023年2月26日
牧師 武石晃正
教会暦では今週より受難節の主日礼拝が6週続きます。灰の水曜日から始まる受難節は主日を除いてイースターまでの40日を数えます。
神の子が人として誘惑を受けられた40日を覚えつつ、身を慎むために断食をするという習慣もあります。全く食事を摂らないというよりも卵や乳製品、肉類など特定の食品を慎むということが多いようです。
断食しているのを人に見てもらおうと顔を見苦しくするのは偽善者のすることであるとイエス様はおっしゃいました(マタイ6:16)。主の教えに聞き従っている皆さんですから、この中に断食している方がいるとしても互いに誰であるかは分からないことでしょう。
本日もルカによる福音書を朗読いたしまして、この箇所を中心に「神の子が受ける誘惑」と題して一緒に主の御旨を考えて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
教会暦では今週より受難節の主日礼拝が6週続きます。灰の水曜日から始まる受難節は主日を除いてイースターまでの40日を数えます。
神の子が人として誘惑を受けられた40日を覚えつつ、身を慎むために断食をするという習慣もあります。全く食事を摂らないというよりも卵や乳製品、肉類など特定の食品を慎むということが多いようです。
断食しているのを人に見てもらおうと顔を見苦しくするのは偽善者のすることであるとイエス様はおっしゃいました(マタイ6:16)。主の教えに聞き従っている皆さんですから、この中に断食している方がいるとしても互いに誰であるかは分からないことでしょう。
本日もルカによる福音書を朗読いたしまして、この箇所を中心に「神の子が受ける誘惑」と題して一緒に主の御旨を考えて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.荒れ野での誘惑
共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカの3つの福音書はいずれもイエス様が洗礼を受けられた後に荒れ野に身を置かれたことを記しています。洗礼を受けたイエス様が「聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった」ことは、御自分の歩みに入られたと読むことができましょう。
続けてルカは「荒れ野の中を“霊”によって引き回され」と受け身で記しておりますが、マタイによる福音書では「悪魔から誘惑を受けるため」とその目的を前に置いています(マタイ4:1)。ユダヤの荒れ野がどれほど厳しいところであるのか経験したことはありませんが、40日間にわたって何も食べずにおられたことは本当に驚くべきことです(2)。
そこへ悪魔あるいは誘惑する者(マタイ4:3)と呼ばれる者が3度も訪ねて来ました。誘惑は3度だけかと思いきや、40日間ずっとイエス様は誘惑を受けておられたとのです。
「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ」(3)、「もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」(7)、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」(9)と屁理屈をこねるような言い分にも聞こえます。一つ一つを真に受けて相手をしていたら身が持ちませんし、辟易することでしょう。
ある個所でイエス様は「わたしと父とは一つである」とおっしゃっていますから(ヨハネ10:30)、「光あれ」(創1:3)と発せられた天地創造のお言葉で無から有を作り出すことができるお方です。お言葉ひとつで石をパンに変えることなど文字通り朝飯前なのです。
ところがせっかく人としてお生まれになったのに、人ならぬ力を思うままに使ってしまったら人ではなくなってしまうでしょう。罪のない全き人であるから救い主として被造物を贖うことがおできになるのに、人でなくなってしまっては救いのご計画がご破算です。
最初に人アダムが神様から食べてはならないと禁じられた木から取って食べたので、すべての子孫に罪と呪いが及びました。悪魔はたった一つの石をパンに変えさせるだけで、救い主である神の子にアダムと同じような過ちを犯させようとしたのです。
3つ目の誘惑では悪魔はなんと詩編91編から引用しています。エバが神様の戒めを曲げて解釈したために誘惑に陥ったように(創3:3)、たとえ神様のお言葉であっても勝手な都合で用いてしまったら自分をも他人をも欺くことになるのです。
預言者イザヤを通して主は「わたしの口から出るわたしの言葉も むなしくは、わたしのもとに戻らない」(イザヤ55:11)と語られましたが、そのお言葉さえもむなしくしようとする者がいるということです。創造主なる神様に背く者、すなわち誘惑する者や悪魔と呼ばれる者は、神の子を誘惑して神の口から出る言葉をむなしく用いさせようとします。
ちょっと試すだけ、人目を引くような変わった出来事、そのようなものは神に頼ることではなく主を試みることでしょう。イエス様は「あなたの神である主を試してはならない」(12)と申命記から引用し(申6:16)、40日に加えた3つの誘惑をも聖書の言葉を用いて退けられました。
2.神の子らは誘惑を受ける
「この大祭司は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)とヘブライ人への手紙に書かれています。私たちの救い主は私たちと同じ肉体の弱さを背負って、たった一人で悪魔の誘惑を受けられました。
40日に及ぶ誘惑にも関わらずののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず(ペトロ一2:23)、御父に徹底的に委ねることを学ばれました。ヨハネの弟子となられたイエス様同様に、イエス様の弟子とされた者も誘惑や艱難においてののしったり脅したりせず御父に委ねることを学びます。
ところでルカによる福音書ではイエス様が受けられた洗礼と荒れ野での誘惑との間にヨセフの系図を記しています(ルカ3:23-38)。天からの声で「わたしの愛する子」と呼ばれた神の子は、周りの人たちからヨセフの子と思われていました。
系図はヨセフからさかのぼり、ダビデ王や12族長のユダの名を経てアブラハムに至り、アダムにおいて「そして神に至る」と結ばれています(38)。これは別の翻訳では「このアダムは神の子である」(新改訳第2版)とも訳されています。
アダムは創造主の手で創られ、いのちの息を吹き込まれましたから(創2:7)、神様に生み出された存在つまり神の子と呼ばれたのでしょう。そしてこの系図にある人々はイスラエルと呼ばれる神の民、神の家族の子らです。
旧約聖書の中では神に属する人々が神の子と呼ばれており(申32:8、詩29:1)、全編を通して神の子たちが様々な試練と誘惑に遭ってきたことが記されています。試練も誘惑も実質的には同じことであり、主の御心に従って歩むのかどうかが問われます。
御心に従うのかそれ以外の道を選ぶのかという二者択一の選択肢が与えられているのではなく、神の前では初めから一択なのです。選ぶべきはただ一つであり、イエス様が「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」(マタイ6:33)「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」(同22:37)と説かれたことです。
このイエス様が受けられた試練は40日と書かれており、断食の日数は神の人モーセがシナイ山で主の契約の書を受けた出来事と重なります (出34:28)。しかしモーセは神の山で誘惑を受けたわけではありませんから、誘惑を受けた神の子らについてはまた別の40日を挙げることができるでしょう。
民数記の中ではエジプトから救い出されたイスラエルが約束の地カナンに臨もうとした時のことが記されています。主はモーセに命じて12部族からそれぞれ1人ずつを斥候として偵察に遣わせました(民13:2)。
斥候に出された12人は「四十日の後、彼らは土地の偵察から帰って来た」(同25)とありまして、「乳と蜜の流れる所」と呼ばれる約束の地で40日の誘惑に遭ったのです。カナン人が彼らを誘惑したのでしょうか、いえ彼らの心が自分自身を誘惑したのです。
ぶどう、ざくろやいちじくなどエジプトと比べて果樹が多かったのでしょう、12人はそれぞれに非常に豊かな土地を見てきました。「カナンの土地を与えると約束した」(出6:4)との御言葉を信じた者は「断然上って行くべきです。そこを占領しましょう。必ず勝てます」と報告しました(民13:30)。
しかし確信のない者たちは主に信頼するのではなく目で見た物と自分の思いに頼るので、見え方も疑り深くなってしまいます。悪いことばかり見えてしまうので、その人の目と心が自分を誘惑することになるでしょう。
12人のうち10人は判断を誤らせたばかりでなく「イスラエルの人々の間に、偵察して来た土地について悪い情報を流した」(同32)ので、主はモーセを通して「あの土地を偵察した四十日という日数に応じて、一日を一年とする四十年間、お前たちの罪を負わねばならない」(14:34)と宣告されました。主の約束ではなく自分の目と心を頼ったばかりに40日の誘惑が40年の苦難を生じさせてしまったのです。
たとえば私に対して荒れ野の石ころは誘惑になりえませんが、イエス様にとってはパンに変えようと思うことが誘惑となるのです。神の子らが受ける誘惑は必ずしも周りからのものとは限らず、むしろその人心が自分自身を誘惑することが多いのでしょう。
<結び>
「実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。」(ローマ10:10)
主キリストは天の父に愛される子として荒れ野で御父に委ねることを学ばれました。40日は単に断食をされただけでなく地上を歩きまわっての誘惑された日々であり、その上で更に3つの問答を強いられたのでした。
心で信じていることが口から出てきます。カナンの地で40日間の試練を受けた者たちは12人とも同じ土地を見て来たのに、多くの者の口から疑いの言葉が出てきました。
試練や誘惑の中にあって良い言葉が出るか、ののしりや脅しの言葉が出るかと問われます。受けている困難そのものよりもその人の心の中と、口から出る言葉が試練であり誘惑でありましょう。
かつて約束の地を目前にしても荒れ野の40年を踏むことになってしまった神の子たちがおりました。神の子が受ける誘惑は、つまるところ口で言い表した言葉によって心で信じたものが問われることです。
「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる。」(マタイ4:4)