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「心を見抜くキリスト」ルカによる福音書11章14-26節

2023年3月5日
牧師 武石晃正

 生涯を信仰によってキリストと共に生き、最期まで祈りの人として歩まれた姉妹を主のみもとへ見送って1週間を過ごしました。葬儀の後日にも「寂しくなりますね。あの方の献金のお祈りが大好きでした」と偲ぶお声を聞いたこともあって、今朝も講壇からふといつもおかけになっていた席にお姿を探してしまいました。
 口先の言葉ではいくらでも言いつくろうことができたとしても、生き方そのもの特にその最期に人柄や信仰が表れるものです。まして全能の父なる神はお見通しです。

 本日はルカによる福音書から「心を見抜くキリスト」と題して読みながら、御言葉によって神の御前に整えられて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.悪霊の頭か神の指か
 並行箇所としてマタイによる福音書にベルゼブル論争と汚れた霊が戻って来るたとえが記されています(マタイ12章)。マルコを含め3つの福音書にベルゼブル論争は記されていますので、イエス・キリストを知る上で必要不可欠な出来事だと言えましょう。
 どの町とは示されておりませんが、ある日イエス様が口を利けなくする悪霊を追い出されたことにこの事件は端を発します。マタイによればこの人は目も見えなかったということで、当時のユダヤではこれらの機能障害はその人か先祖の罪が原因であるか、悪霊の仕業であると考えられていました。

 現代の医学で病気や障害の原因を見つけることができても治療法があるとは限りませんし、もし治療することができたとしても視覚や聴覚、言語を発する機能を回復させるためには専門的な訓練を必要とします。ところがイエス様が悪霊を追い出してその人をいやされると、直ちにものが言え、目が見えるようになったというので驚きです(14)。
 テレビの特別番組などで医療技術を紹介する際に、腕の良い医師を「神の指を持つ男」などと称することがあるでしょう。その神の指を持つと称される医師が非常に難しい手術を成功させると神業だと驚嘆されるわけですが、本当の神の指であれば病気や障害の原因を除くだけでなく機能を完全に回復することができるのです。

 どんな優れた医者でも直すことができなかった人が話すことができるようになったのですから、見ていた人は素直に一緒に喜んであげればよさそうなものです。もちろん多くの人は驚きと共に喜んだことでしょうけれど、ある者たちは「あの男は悪霊の頭ベルゼブルの力で悪霊を追い出している」(15)とイエス様を悪霊の頭呼ばわりしたというのです。
 神様にしかできない癒しであるならば、目の前にいるナザレの人イエスを神であると認めざるを得ないことになります。ところが群衆の中に紛れていたファリサイ派の人々はイエスを神の子メシアと認めたくないばかりに、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしない」と言いがかりをつけたのです(マタイ12:24)。

 実際に良い働きを目の当たりにしても、自分より優れていることを認めたくないという思いから物事を歪めて認識してしまうということがあります。天からのしるしを求める者(16)は「見えるかたちで証拠を出せ」「分かるように説明しろ」と求めたわけですが、既に良いわざが行われているのであれば以上何を示せばよいというのでしょうか。
 信用すれば済むことを初めから疑ったり決めつけたりしてかかるので、事実の方を捻じ曲げるしかなくなります。仮にイエス様が続けてしるしを見せたとしても、揚げ足を取ろうとしたり難癖をつけたりするだけなのは火を見るよりも明らかです。

 まともに取り合っても話になる相手ではありませんから、天からのしるしを見せずにイエス様は彼らの心を見抜いて言葉を返します。ベルゼブルもサタンも悪い霊としては同類ですから、「あなたたちは、わたしがベルゼブルの力で悪霊を追い出していると言うけれども、サタンが内輪もめすれば、どうしてその国は成り立って行くだろうか」(18)と、この人たちの自己矛盾を突かれました。
 ベルゼブルとは異教の神バアルの尊称バアル・ゼブルに由来するものです。「あなたにはわたしの他に神があってはならない」と戒められているユダヤの人たちは、この異教の神々の王をベルゼブブと言い換えてハエの王とないがしろに呼びました。

 ハエが何にたかるのかを考えていただければ、群衆の一部やファリサイ派の人たちがどのような思いでイエス様をベルゼブルと呼んだのか分かるでしょう。聞くに堪えない下品な言葉を受けて、「あなたたちの仲間」とひっくるめて言い返したイエス様が彼らを肥溜めに突き落とした格好で勝負ありです。


2.心を見抜くキリスト
 神の指で悪霊を追い出すと言う良いわざをイエス様がなかったのに、同じユダヤ人である者たちはねたみから言いがかりをつけて内輪で争おうとしました。「内輪で争えば、どんな国でも荒れ果て、家は重なり合って倒れてしまう」との主のお言葉をもって、3つの福音書は揃って教会を戒めているところです。
 「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(23)とは群衆に向けたイエス様の言葉であり、使徒たちから教会の中で内輪もめや争いを起す者たちへの戒めでもあります。反対する者たちは正しい者を妬み、神の子さえも悪者に仕立て上げる始末。

 聖書の中で「霊」と訳されている言葉はいわゆる霊的な存在を指すこともあれば、今でいうところの人間の精神や心の状態、人格や人間性を言い含めている語でもあります。人の存在そのものを指して「霊」という語が用いられることもありますから、その人の生き方や行動に現れものです。
 救い主キリストを信じた者は聖霊によって清めの恵みに与ります。2つ目のたとえにある「家は掃除をして、整えられていた」状態です(25)。

 ところが救いの恵みに与ったのに「あなたたちの仲間」(19)と呼ばれる者たちと同様の言動、すなわち人に疑いをかけたり汚い言葉でののしったりすることを続けたらどうなるでしょう。悪い霊に身をゆだねることになりますから「自分よりも悪いほかの七つの霊を連れて来て、中に入り込んで、住み着く」(26)とイエス様が指摘されるとおりです。
 もう一度悔い改めてやり直す機会をイエス様から受け取ることができればよいのですが、まずは「そうなると、その人の後の状態は前よりも悪くなる」と言われた状態になります。キリストを信じて神の子とされたばかりに、神の民でありながらイエス様に逆らったイスラエルの人たちのようにたちが悪いのです。

 ところで、使徒たちの時代、ローマ帝国の支配下でキリストの弟子たちが迫害を受けます。生き残った教会の中に惑わす者や偽の教えが忍び込むところへ、ヨハネによる福音書やヨハネの手紙が書かれました。
 その手紙の中で「霊」についての勧めがあり、「愛する者たち、どの霊も信じるのではなく、神から出た霊かどうかを確かめなさい」(Iヨハネ4:1)と書かれています。クリスチャンだからといって誰彼構わず信用するのではなく、その人が神様から出た者であるかを見なさいという意味です。

 区別の仕方については「イエスのことを公に言い表さない霊はすべて、神から出ていません」(同4)とされています。それ以前に「正しい生活をしない者は皆、神に属していません。自分の兄弟を愛さない者も同様です」(同3:10)と書かれてもいます。
 「愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っている」と愛によって見分けることができるのです。一口に愛と申しましても様々な愛しかた愛されかたがありまして、その中でもまず基本となることの一つに傾聴、つまり相手に耳を傾けるということが挙げられるでしょう。

 イエス様のいやしのみわざを見た人たちも一方的に悪霊の頭であると決めつけずに、イエス様の教えに耳を傾け、自分の発言に注意を払えば言い争いにもならなかったことでしょう。「神を知る人は、わたしたちに耳を傾けますが、神に属していない者は、わたしたちに耳を傾けません」(同4:6)とヨハネの手紙は愛し合うことと耳を傾けることを等しく扱います。
 心を見抜くキリストの弟子たちについて「これによって、真理の霊と人を惑わす霊とを見分けることができます」と言われています。愛によって見分ける力が与えられるのです。


<結び>
 「覆われているもので現されないものはなく、隠されているもので知られずに済むものはない。」(ルカ12:2)

 心の中にないものは出しようもありませんが、「心にもないこと」と呼ばれる言葉が心の中から口を突いて出てしまいます。その人の中に矛盾があれば辻褄の合わない話を並べたててしまうでしょう。
 こうして覆いが取られると人は慌てて言い繕うか、ファリサイ派の人たちのように逆恨みをすることに至ります。それにも関わらず今もキリストは御からだである教会を通して良いわざを続け、「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」と心の中に問いかけられます。

 受難週第2週にあたり、心を見抜くキリストの前で主のからだにふさわしく整えられたいと願います。断食の勧めに伴う密室の祈りの教えを読み、祈ります。

 「だから、あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」(マタイ6:6)

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