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「共に死に共に生きる」ルカによる福音書9章18-27節

2023年3月12日
牧師 武石晃正

 3月も半ばを迎えますとすっかり春めいてまいりまして、草木の芽吹きに新しい命と復活の希望を覚えます。枯れているように見えた枝から小さな葉っぱが伸び始めるのをみては、冬の間もよく頑張ったねとつい声をかけてしまいます。
 草木に限らず命というものを感じては、「人はどこから来てどこへ向かうのか」と思いめぐらせたことはおありでしょうか。考えてもなかなか答えがでない命題ではありますが、「なんのために生まれてなにをして生きるのか」(©やなせたかし)と幼い子どもの口から飛び出てくるので大人はたじたじです。

 「共に生き共に死ぬ」では安心感を覚えることはできても死んでしまったらおしまいです。本日はルカによる福音書より「共に死に共に生きる」と題して、キリストと共に生きることを思い巡らせて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.預言者かメシアか
 直前の箇所ではイエス様が5つのパンと2匹の魚を祝福して裂き、弟子たちに配らせたところ男だけで5000人もが食べて満腹したという人数で言えば最大規模の奇跡が記されています。女性と子どもたちを加えれば1万人を超えるであろう人々が主の恵みをいただいたにも関わらず、食べて満足しただけの群衆はイエス様ご自身の手で解散されてしまいました(マタイ14:22)。
 後からイエス様の弟子になることを志願した者たちが出てきたかもしれませんが、聖書はそのことについては沈黙しています。自ら群衆を解散させたこと、祈るためにひとり山にお登りになったことから、イエス様は集会の人数や規模を誇ることではなく天の父といかに密に過ごすかを最優先になさっていたと分かります。

 弟子たちを山に伴いつつもお一人で祈られる様子は、イエス様が十字架に架かられる前にオリーブ山で祈られた姿に重なります(22:39以下)。初期のガリラヤ宣教からいよいよ捕えられようとするに至るまで、公生涯を通して御父との親しい交わりを保つために主は普段から弟子たちと「石を投げて届くほどの所に離れ」(22:40)て祈られたことです。
 離れてはおりますが呼べば声が届くほどです。イエス様は弟子たちをみもとに招いて「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」(18)とお尋ねになりました。

 驚くべき奇跡を行ったので人々の間での評判や反響を気にされたのでしょうか。いえ、むしろ「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(20)との問いにあるように、弟子たちが周りの評価に振り回されずに「神からのメシアです」あるいは「イエスは主である」(一コリント12:3)と告白できるようになるためでした。
 洗礼者ヨハネもエリヤも、昔の預言者を含めてみな神から遣わされて神の言葉を伝え、しるしとしてのわざを行いました。確かに優れた方々でありましたし言葉には力がありましたが、信じて従うかどうかは見聞きした人の心がけ次第です。

 ところがユダヤの言葉でメシアとは「油を注がれた者」(ヨハネ1:41)という意味で、王である祭司また預言者という3つの職能を神から与えられた存在です。支配者であり、父なる神の前で人々を執り成し、民に向けて神の言葉を語るのです。
 単に預言者であれば洗礼者ヨハネの時のように教えを聞いた人々はついて行くときはついて行きますし、時代が去ったと思えば散り散りになりましょう。しかし「神からのメシアです」と答えた弟子たちには「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23)と、従うことが命じられます。

 この方について行くということは、人の子と同じく「必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され」るとしても従うということです。あなたなら「三日目に復活することになっている」と分かっているとしても、不条理に苦しめられながら死にたいと思うでしょうか。
 長老、祭司長、律法学者たちについて私たちは福音書を読んでおりますから、キリストを十字架にかけた首謀者であると知っています。しかし当時のユダヤではこの人たちは議員や役人のような立場ですので、庶民の一人であればわざわざ波風を立ててまで争おうとはしない相手です。

 福音書の記述はイエス様がガリラヤにおられた頃の出来事として記されていますが、ルカは目撃者たちの証言によってこの書を記しています(1:3)。つまり代々の教会に向けて第一目撃者たちの証言として、これらの言葉を主イエスが語り掛けられているのです。
 教会に対して、ここにいる私たち一人一人に向けて、イエス様は「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(23)と招いておられます。


2.自分の十字架を背負う
 さて「信じる者は救われる」「ただ信ぜよ」と勧めを受けてイエス・キリストを信じたとして、信じているのに従わないということはあるのでしょうか。「自分を捨て」と言われて捨てたはず、死んだはずの自分がむくむくと起き上がってくることがあるのです。
 着目したいのは「自分の十字架を背負って」とイエス様がおっしゃったことです。キリストの十字架ではなく、その人その人が背負わされているものを指しています。

 他人の分まで人生を背負うことはできず、自分のことさえ一人ではままならないのが人間の姿でしょう。しかし背負っている十字架につけられているのが死んだ自分の抜け殻であればまだ軽いかと思われますが、磔にされてもまだまだ息があって悪あがきしているのであれば担いにくくて非常に重いことでしょう。
 そこでイエス様は「自分の命を救いたいと思う者は、それを失う」(24)と、死んだはずの自分が生きたままでは共倒れになることを示されます。そして「わたしのために命を失う者は、それを救うのである」と、神の救いは人助けなどの善行への評価ではなく、あくまでも従うべきキリストのためにいのちを失うことによるのです。

 「わたしとわたしの言葉を恥じる者」に関して自分自身を振り返ります。自分語りのようになりますがここから短い証しを交えて続けましょう。
 小学6年生の時に近所へ背の高いアメリカ人の夫妻が引っ越してきまして、誘われるまま日曜日に訪問したのが初めての主日礼拝でした。その地域では外国人はまだ非常に珍しかったので、外国人と知り合いになったことや教会へ行くことは何か特権を得たような気分でした。

 ところが学校では級友から「キリスト教を信じているのか」と茶化されたり、歴史の授業が終わると「隠れキリシタン」「踏み絵を踏んでみろ」と冷やかされたりしたこともありました。冷やかす側はほんの軽い気持ちだったのでしょうけれど、言われたほうの心はとても傷付きました。
 背の高いアメリカ人紳士と道端で挨拶をしているのを見られることは自慢でしたが、教室でキリストのことを言われると恥ずかしく思うのです。「聖書やキリストの言葉を何か言ってみろよ」と面白がられることがある度に悔しい思いをしたものです。

 しかし何よりも悔しかったのは信じていると思ったはずのイエス様とそのお言葉を恥じている自分自身のことでした。そして「人の子も、自分と父と聖なる天使たちとの栄光に輝いて来るときに、その者を恥じる」(26)との御言葉を聞いては、もはや私は天国にも行けず再臨の時もイエス様に会わせる顔がないのだろうと思ったことです。
 ある時「イエス・キリストのことを思い起こしなさい」と使徒パウロの手紙から励ましを受けました(二テモテ2:8)。信じて従うのならいつでもイエス様が目の前にいるはずなのに、「思い起こしなさい」と言われて目が離れていたことに気づいたのです。

 祭司長や律法学者たちの目を気にしていた群衆は、エリヤや洗礼者ヨハネと同程度にイエス様のことを見ていました。同じく私も級友という周りの目を気にしていたので、背の高いアメリカ人という人間を慕うばかりで救い主キリストが見えなくなっておりました。
 人は皆罪を犯したので罪の支払う報酬として死を受けることが定められています(ローマ6:23)。この罪と死を受け入れて初めて自分を捨てることができ、メシアである救い主がこの罪人と共に死んでくださったことを知るのです。

 死にまで従われたイエス・キリストを思い起こすことで、私は自分を十字架にかけることができるようになります。自分を捨てること、罪の中に生まれた古い人がキリストと共に死ぬことによって、私たちは復活の命をもいただいたのです。
 「わたしたちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きるようになる。」(二テモテ2:11)
 

<結び>
 「確かに言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国を見るまでは決して死なない者がいる。」(ルカ9:27)
 主とともに十字架につけられた2人の犯罪人のうち、自分の罪と死を認めて「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(23:42)とナザレのイエスを神のメシアと告白した者がおりました。彼はその日に足を折られてその後も十字架にかけられるとになりますが、主は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(同43)と約束されました

 人の子と呼ばれる神の子が共に苦しみをうけ、共に死んでくださったのです。苦しみも十字架も一緒に担ってくださるばかりでなく、復活にまで従わせてくださる救い主です。
 自分を捨て、自分の十字架を背負う者は、キリスト共に死に共に生きる者、きよめと復活の恵みを受けて生かされます。

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