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「永遠の救いの源」ルカによる福音書20章9-19節

2023年3月26日
牧師 武石晃正

 春分を過ぎ、日差しも気候もすっかり春らしくなりました。受難節(レント)第5主日は新しい教会暦では復活前第2主日と数え、キリストの受難を覚えつつ復活への希望も高まります。
 友人の死に際して涙を流して泣き(ヨハネ11:35)、御自分の時に及んでは「この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と主は苦しみもだえられました。一度死ぬことと裁きを受けることが定まっている私たちのために死なれた主イエスを覚えつつ、本日はルカによる福音書より「永遠の救いの源」と題して思いめぐらせましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.再び来られる主
 朗読の箇所はイエス様のたとえによる教えでありますが、この「ぶどう園と農夫」のたとえは山上の説教おける天の御国の教えとは様子が異なるようです。直前の文脈をたどってみますと、エルサレム神殿の境内で「その権威を与えたのはだれか」(2)と祭司長たちから問われたことに端を発しています。
 共観福音書と呼ばれる3つの福音書、マタイ、マルコ、ルカともにイエス様が神殿から商人を追い出した後、祭司長や長老たちと権威について問答されたことを記しています。彼らはこの世の基準では神殿や境内を管理する立場にありましたが、天からの権威に不従順であるのでイエス様は彼らに対し「あなたたちはそれを強盗の巣にした」と叱責されました。

 この「ぶどう園と農夫」のたとえにおいて。ぶどう園の所有者である「ある人」はイスラエルの聖なる方、父なる神様です。そしてぶどう畑は神の所有とされた民を示します。
 主人の姿が見えないのをよいことにぶどう園を自分たちの所有であるかのようにふるまった農夫たちは、民を指導していた律法学者たちや祭司長たちを指しています (19)。彼らは彼らなりの正義感をもって日々苦心しながら律法に対して努力していたのも事実です。

 汗水流して畑の手入れをして農夫たちはぶどうを実らせましたので、その収穫を昨日今日来たばかりの僕に持っていかれるのが不満で仕方がないと思ったのでしょう。しかし農夫たちが苦労しようとも畑も収穫も主人の所有であるには変わりありませんし、遣わされた僕も彼らの使用人ではなく主人のものです
 さて、ぶどう園に僕(しもべ)が3人送られましたが、1度2度ではなく何度となく主はイスラエルへ預言者たちを遣わしました。「ところが、農夫たちはこの僕を袋だたきにして、何も持たせないで追い返した」(10)と言われており、預言者たちも王や指導者たちから厳しく迫害されたのです。

 一世を風靡し「律法と預言者は、ヨハネの時までである」(16:16)とまで言われた洗礼者ヨハネでさも、領主ヘロデに引き渡されて殺されました(9:9)。天の父はいよいよ御子をお遣わしになりましたが、「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)と告白したナザレの人イエスを、ユダヤの指導者たちは神への冒涜と睨みました。
 実際には彼らの心の内が見抜かれたことへの逆恨み、言いなりにならないのであれば排除してしまおうという魂胆です。そして「農夫たち」は「息子をぶどう園の外にほうり出して、殺してしまった」のでした(15)。

 作物を育てることは容易なことではありませんから、遣わされた僕が何の苦労もなく収穫を得たように見えてねたましく思う気持ちも分かります。とはいえ神様から遣わされた僕を苦しめては追い出した者たちは、主人ではなく自分たちに権威があると思い違いをしていたわけです。
 それでも主人は必ず帰ってきます。そして「戻って来て、この農夫たちを殺し、ぶどう園をほかの人たちに与えるにちがいない」(16)、つまり「ちがいない」とは必ずそうなるという意味で言われています。

 教会は「主の再び来たりたもうを待ち望む」と告白し、その日が来るまで「ぶどう園」を任されています。キリストはユダヤの民衆に向けて、福音書は教会に対して「さて、ぶどう園の主人は農夫たちをどうするだろうか」と問うのです。


2.家を建てる者の捨てた石
 最後に逆転劇が起こるのだと、イエス様は別のたとえも用いて説かれます。父のぶどう園から放り出されて殺された息子の姿をもってイエス様は「家を建てる者の捨てた石」と呼ばれました(17)。
 石造りの建物は切り石を真四角に整えて積み上げられますが、積むことができないくさびのような形に残ってしまった部分が使われないまま捨ておかれます。もちろん捨てたと言われるのは傍目にそう見えるだけであって、石工には最後に使う目的のために初めから計画があったのです。

 隅の親石とは「かしら石」とも訳される語で、アーチ構造のてっぺんに据えられる楔型の石を指します。いよいよ棟上げの最後に親石あるいはかしら石が据えられて枠板が取り外されると、積まれていた石全体が親石を中心に一つに組み合わされるのです。
 捨て置かれた石が最後にかしら石として置かれることによって積まれた石の総重量が一つとされます。建物全体が大きな岩のように頑丈になるので、上から何かが落ちてきたとしてもそれは粉々に砕けてしまうでしょう(18)。

 あるいは建物が崩されるようなことがあれば、最も高いところから隅の親石が落ちて来くるのです。人々から捨てられたように見えた石が全てを支配し、すべてを裁くのです。
 イエス様のたとえの中で、主人の息子はぶどう園の外に放り出されて殺されてしまいます。エルサレムからゴルゴタへと引かれていき、十字架にかけられたキリストの姿です。

 この方が渡される夜、オリーブ山のゲツセマネと呼ばれる園で祈られました。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(22:41)と祈られると、十三夜の月明りに照らされて汗が血の滴るように地面に落ちました(同44)。
 その晩は食卓を共にし、主からパンと杯を受けたはずの者たちがみな散り散りに逃げていきました。主は捕らえられ、人々から殴られ、ローマの兵士たちから平手打ちや諸々の暴行を受け、金物などを先端につけた鞭で打たれました。

 後に使徒ペトロはこの方について「ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました」(ペトロ一2:23)と証言しています。他方で「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」(ヘブライ5:8)とも聖書には記されています。
 人をののしり脅すような者たちは、ぶどう園の農夫たちにたとえられるように「祈りの家」を「強盗の巣」とする者です。書簡は諸教会へ宛てられたものですので、教会の中にののしられ苦しめられた者もあればののしり脅す者もいるということが分かるでしょう。

 もし教会が祈りの家でなくなってしまったら主ご自身がそれを崩されることでしょう。終わりの時には親石であるキリストが降りて来られ、神の家から裁きが始まるのです(ペトロ一4:17)。
 キリストはご自身が苦しみを受けたので、ののしられた者、苦しめられた者に同情して深く憐れんでくださいます。神の子を自分の手で改めて十字架につけようとしてはいないでしょうか、苦しみを受けてもキリストがそうあられたように憐れみ深い者であるでしょうか、受難週を目前にして思いめぐらせるところです。

 
<結び>
 「そして、完全な者となられたので、御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源となり、神からメルキゼデクと同じような大祭司と呼ばれたのです」(ヘブライ5:9-10)。

 メルキゼデクとは「平和の王」でありアブラハムを祝福した大祭司です(ヘブライ7:2)。キリストの名もまた「驚くべき指導者、力ある神/永遠の父、平和の君」と唱えられます(イザヤ9:5)
 永遠とは時間の終わりがないことだけでなく、時間の始まりもないことです。神様は人間の状況を見ながら救いのご計画に右往左往されるような方ではなく、世界が創られる前から永遠の救いを備えておられました。

 主が十字架に架かり復活したことだけを信じているのであれば、それは歴史の断片を信じているに過ぎないでしょう。しかし主人はぶどう園を作る前からおられ収穫の後に再び来られるので、この方に従順である私たちはイエス・キリストを永遠の救いの源として受けています。
 この世の終わりの時にぶどう園の主人は帰ってきます。しかし私たちは永遠の救いの源であるキリスト・イエスに再臨と復活の望みをおいています。

「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」(ローマ8:38-39)

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