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「キリストの復活」ルカによる福音書24章1-12節

2023年4月9日
牧師 武石晃正

 主の復活をお祝いし心よりお喜び申し上げます。ハレルヤ!
 ひと言に復活と申しましても実際に死んだ方が生き返ったところをご覧になったことがあるという方は恐らくおられないのではないかと思われます。イエス様の弟子たちでさえ復活そのものを目撃することはありませんでしたが、復活したキリストにお会いして「死は勝利にのみ込まれた」(コリント一15:54)と確信を得たのです。

 キリスト教の中心あるいは本質はクリスマスよりもむしろイースターにあると言えましょう。そして私たちの信仰はキリストの十字架による贖いばかりでなく、三日目の復活とその勝利に望みが置かれているのです。
 本日はイースター、ルカによる福音書を開き「キリストの復活」と題して、主にある勝利を受け取りましょう。



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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.週の初めの日の明け方早く
 ガリラヤ湖のほとりで、ある時には5千人1万人という人々が集まったほどに人気を博したナザレ人イエス。奇跡の人、ダビデの子、神のメシアと騒がれた男がまんまと捕まり、あっけなく処刑されてしまったと多くの人たちは見ていたでしょう。
 過越祭というユダヤで最も重要な祭、その中心にある安息日を控えていたので遺体は十字架から速やかに降ろされました。アリマタヤ出身のヨセフという議員がイエスの死体をピラトから引き受け、ニコデモと共に香料を添えて亜麻布で包みました(ヨハネ19:40)。

 埋葬のために十分な時間と手間をかけられなかったため、安息日が明けたなら仕上げにかかる必要がありました。ガリラヤから来た女たちは葬りを見守っただけでなく「週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」のです(24:1)。
 墓とは申しましても日本の墓地や納骨堂とは様子が異なりまして、山の岩肌に人がかがんで入れるほどの洞穴を掘ったものがいくつもある場所です。遺体が納められた墓穴はその入口が大きな石でふさがれ、更にマタイによればこの日は番兵までおかれて厳重な警備をされました(マタイ27:66)。

 大きな石でふさがれた上に番兵までつけられているのですから、女たちが墓に行ったところでどうにもならないはずでした。ところが行ってみると、石は大きな地震によってわきに転がされおり、番兵ではなく主の天使たちがそこに座っていたのです (マタイ28:2)。
 封印の石が除けられて番兵たちにも妨げられずに女たちは墓の中に入ることができました。そこまではよかったのですが、墓の中から愛する主の体がなくなっていたので女たちは途方に暮れてしまいます(4)。

 地震で気が動転していたのもありましょうが、彼女たちはイエス様の亡骸のことが心配です。そこに納められたことは紛れもない事実ですので、地震のために転がることはあったとしてもなくなってしまうなどとは思いもよらないことでした。
 輝く衣を着た二人が誰であるのかをルカは明らかにしておりませんが、マタイは主の天使であると記しています。天使たちは恐れてひれ伏す女たちに「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか」(5)と語りかけました。

 「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(7)とは、実にイエス様がかねてより弟子たちに告げられたとおりです。イエス様の言葉を思い出した女たちは喜びに満ちて墓から帰り、このことを使徒たちと他の弟子たちに知らせました(8-9)。
 週の初めの日の明け方早くに墓へ行った女が誰であるのか福音書によって多少の違いはありますが、ルカが「そして一緒にいた他の婦人たちであった」(10)と書き添えています。彼女たちは復活したイエス様に会えた者もまだ会えていない者もみな、御言葉と証しとを聞いて主の復活を信じることができたのです。


2.復活と勝利
 他方、使徒と呼ばれる11人の弟子たちは「この話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(11)というのです。3年余りもイエス様と寝食を共にしながら御言葉を聞いていたのに、なぜ信じられなかったかと不思議な思いがいたします。
 それでもペトロは立ち上がって墓へ行きました。彼は以前にイエス様から「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(22:32)と祈られていたのです。

 ペトロともう一人の弟子が墓に入って来ると、女たちが言ったとおり亜麻布だけが置いてありました(ヨハネ20:6-10)。彼らはそれを見て信じたので、他の弟子たちを力づけるために家に帰って行きました。
 こうして女たちは墓から帰る途中で主にお会いすることになり(マタイ28:9)、その日の夕方には弟子たちのところへイエス様ご自身が姿を現わされました(ヨハネ20:19)。釘を打たれた手と槍で突き通されたわき腹をお見せになり、イエス様はご自身が十字架によって死なれたこと、そして死に対して勝利したことを弟子たちに示しました。

 そうです、キリスト教の信仰の対象は十字架にかけられたキリストにありますが、私たちの希望は更にキリストの復活と勝利にあるのです。使徒パウロもまた「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(コリント一15:55-56)とキリストの勝利を讃えています。
 では誰がこの勝利をキリストから受けることができるのでしょうか。復活は死をのみ込む勝利でありますから、すなわち罪の赦しを受けた者に与えられるのです。

 十字架の言葉を思い返しましょう。主は十字架にかけられて人々からののしられる中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と御父に人々の罪の赦しを乞われました(ルカ23:34)。「自分が何をしているのか知らない」と祈られていますから、何をしたのかに気づいたなら誰でも神の赦しを求めることができます。
 ですから十字架につけられた犯罪人の一人でさえ「自分のやったことの報い」を認めたので、いまわの際で主に憐れみを求めました。そして主は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と悔い改めた罪人に救いを約束されました。

 同じくこの方を主と仰ぐ者に対して聖書は次のように約束しています。「キリストは死を滅ぼし、福音を通して不滅の命を現してくださいました。」(テモテ二1:10)。
 キリストは十字架につけられ、死んで葬られ、3日目に死人のうちよりよみがえりました(使徒信条)。ではこの方を救い主として受け入れた人は、いつ復活するのでしょうか。

 世の終わりに勝利のラッパ、最後のラッパが鳴るとキリストにある死者は復活して朽ちない者へと変えられます(コリント一15:52)。神のラッパの音とともに主ご自身が降りて来られ、キリストに結ばれて死んだ人たちが復活するのです(テサロニケ一4:16)。
 つまり復活を信じるということは、キリストの再臨への希望に至ります。ホーリネスの信仰、四重の福音においては「新生、聖化、神癒、再臨」の4つの恵みのうち「再臨」に復活の希望がかかっています。

 罪の赦しを受け神の霊によって新しく生まれた者は、御言葉と聖霊によってきよめられます。神はからだと心の病にも恵みを注いでいやしてくださり、御子の再臨とともにキリストにある死者を朽ちない者として復活させてくださるのです。
 「見よ、わたしはすぐに来る」と、復活して天に昇られたキリストが呼んでおられます。その日キリストは報いを携えて来られ、私たちの行いに応じて報いられるのです。

 ですから「自分が何をしているのか知らない」まま生きている者は自分のやったことの報いを受けて当然だと言われるのです。しかし、キリストが私の罪のために死なれたことを信じて復活した方のために生きるなら、神がその人をキリストの勝利の行進に連ならせてくださいます(コリント2:14)。
 この福音の言葉は、あの週の初めの日の朝早くに空っぽの墓を見た者たちから始まりました。「本当に主は復活して、シモンに現れた」(ルカ24:34)との弟子たちの喜びを、今日この週の初めの日に私たちも主から受けようではありませんか。


<結び>
 「あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24:6)

 救い主となられたキリストは葬られて三日目に復活なさり、女たちが墓に行ったときには亜麻布だけが残されていました。知らせを聞いたペトロもまた、既に聞いていた御言葉によって主の復活を信じました。
 キリストの復活は罪のとげである死をのみ込む勝利です。そしてキリストの十字架の死とともに自分の罪が葬られた者は、キリストの復活によって永遠の命を得るのです。

 「この御子こそ、神が死者の中から復活させた方で、来るべき怒りからわたしたちを救ってくださるイエスです。」(テサロニケ一1:10)

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