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「朽ちないものを受け継ぐ」ルカによる福音書24章36-43節

2023年4月23日
牧師 武石晃正

イースターから2週間が経ちました。主の十字架と復活にかかる安息日はユダヤの過越祭における「特別の安息日」でしたから、明けてその2週間後は新しい月の始まりです。
 復活の主と歩く信仰生活を気持ち新たに整えられるにあたり、私たちが何を信じているのか、どのような希望を抱いているのかと探られるような思いがいたします。復活した主イエスに出会った第一目撃者たちの証言に基づくルカによる福音書、ならびにルカが随行した使徒パウロの書簡に照らしつつ、「朽ちないものを受け継ぐ」という希望を確かなものといたしましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.弟子たちに現れた主イエス(ルカ24:36-43)
 朗読の箇所において弟子たちがどこにいたかと申しますと、33節からエルサレムであることが示されます。11人と仲間たちが潜伏していた隠れ家のような家です。
 彼らの指導者であったナザレ人イエスは重罪人として処刑された男です。その弟子たちもまたユダヤの祭司長たちや律法学者たちに狙われることになりますので、犯罪人の仲間たちをかくまってくれる家があったということです。

 過越祭のために都の中とその近辺は巡礼者が滞在しておりましたので、イエスの弟子たちの他にもガリラヤ訛りの一団がそこかしこに宿を取っていたと思われます。それでもガリラヤから来た人たちを家に迎え入れるには自ら危険を招き入れることになるでしょう。
 それほど寛大な人がどこにでもいるとは考え難いことですから、そこは聖霊降臨を待つ弟子たちが泊まっていた家も恐らく同じ家ではないかと思われます。120人も集まることができる家ですので(使徒1:15)、相当のお金持ちか権力者の関係者です。

 かねてよりイエス様と懇意にしていた有力者としては律法学者ニコデモや議員であるアリマタヤのヨセフらがおりまして、その人たちの手引きがあったとも考えられます。またガリラヤから来た一行の中には大祭司の知り合いだった者もおりました(ヨハネ18:16)。
 ルカによる福音書は一つの章が長いので数日が経ったように錯覚することもありますが、この日はまだ主が復活したその日のうちです。日没までが一日ですので、女の人たちやペトロが空っぽの墓を見て来てからまだたったの12時間しか経っていない頃合いです。

 弟子たちはユダヤ人を恐れて家の戸に鍵をかけていたにもかかわらず(ヨハネ20:19)、なんと身を潜めていた弟子たちの真ん中にイエス様ご自身が現れてくださったのです(36)。この時に弟子たちでさえ信じることができなかった心境を「亡霊を見ているのだと思った」(27)とルカは隠さず正直に記しています。
 そのような弟子たちを主は「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか」(38)となだめられました。何でもかんでも鵜呑みにして信じるお人好しも心配ですが、初めから疑いを持つ者は目で見たこと耳で聞いたことを信じることができないのです。

 続けて「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい」(39)と主は弟子たちに親しく語り掛け、実際に手と足をお見せになりました。ここでは弟子たちがイエスの体に触れたとまでは書かれていませんが、「亡霊には肉も骨もない」と言われたのに彼らが主に触れもしなかったとは考えがたいことです。
 41節から43節はとても興味深い記事です。「ここに何か食べ物があるか」とイエス様はわざわざ焼いた魚を召しあがりました。

 パンであれば食べればなくなりますが、魚ですので骨やヒレ、尻尾が残ります。間違いなくイエス様が復活して、弟子たちと食事をなさったのです。
 福音書が書かれた年代には、ナザレ人イエスが実際に復活したのではなく、彼を信奉していた弟子たちが復活したと信じただけだという人たちもいたようです。更には、そもそもイエスという人物は存在せず弟子を名乗る一団が一つの理想像を作り上げたのではないかと疑う者も現れたようです。

 しかしながら、食べるということは生きている証しであり、実在する証拠です。信仰者もまた理想や教養として聖書を読むのではなく、福音の言葉を身に宿し血肉をもって生きるので、パンと杯にあずかる時キリストが共に生きておられることを確信するのです。
 後に弟子たちは御言葉と祈りに加えてパンを裂くということを大切に守るようになります(使徒2:41)。復活した主に出会った証しとして使徒たちはパンを裂き、教会は主の晩餐を守ることで主の死と復活を世に示し続けるのです。


2.復活して朽ちない者とされる(コリント一15:50-58)
 ところで、福音書の記者であるルカは自身についてパウロに同行していたことを使徒言行録において端端に示しています(「わたしたち章句」使徒16:9-17、20:5以下)。使徒パウロは主イエスの啓示を受ける前には教会を迫害するファリサイ派の教師でしたが、他の使徒たちのようにイエス様と会ったことも食事したこともないのに復活を信じられたことはとても大きな恵みです。
 直接に啓示を受けておりますので証言としてはそれだけでも十分だということもできますが、パウロはイスラエルの教師として旧約聖書を巧みに引用しながらキリストの復活を解き明かします。新約聖書には多くのパウロ書簡が収められていますので、聖書の言葉によってどの時代のどの国の人であってもすべての人が復活の主を信じることができるのです。

 一口に復活と申しましても実際にイエス様がどのようなお姿であられたのかは想像の域を超えないところです。最初の11人を含む弟子たちは復活したイエス様を見て触れて一緒に食事をし、40日間ご一緒に過ごした末で天に昇られるのを見送りました(使徒1:3,9)。
 4つの福音書のいずれを開いてみましても容姿については特記されておらず、むしろ言われてみなければイエス様であると気づかないほど平凡だったようです。白く光り輝いていたとかダニエル書や黙示録などにあるような恐ろしい姿の描写もありませんから、見た目としてはごく普通の体をしていたようです。

 旧約新約をあわせ聖書にはいくつかの復活の出来事が記されており、それらは大きく2種類に分け入ることができましょう。一つはラザロのように病気で死んだ者が預言者のわざによって復活させていただいたものです(ヨハネ11章、列王上17:22ほか)。
 イエス様が十字架で死なれた時にも先に葬られていた多くの人たちが生き返り、主の復活の後に彼らもエルサレムで人々に姿を現わしました(マタイ27:52)。これらの復活した人たちがイエス様の昇天の際に伴われたなど記述はありませんので、普通の体で生き返って普通の人と同じくまた死んだのです。

 もう一つの復活は主イエスの復活と、そのキリストに結ばれて死んだ人たちの復活(テサロニケ一4:16)です。キリストご自身は釘や槍の痕跡を残しつつも、死を見ることなく天に上げられた朽ちない体で復活されました。
 近しい方が亡くなられるとそのご遺体を前にして、私たちはしばしば「イエス様がいてくださったらまだ死なずに済んだかもしれない」「イエス様だったらこの人の名前を呼んで生き返らせることができたはずだ」などと思うこともあるでしょう。魂が肉体を離れるという想像もできない苦しみを味わった挙句に呼び戻されてもう一度同じ目に遭うのだとすれば、私なら死ぬのは一度でもう沢山だと思うところです。

 人間には一度死ぬことと裁きを受けることが定まっています(ヘブライ9:27)。しかし使徒パウロは「蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活」するのだと明らかにしています(コリント一15:42)。
 肉と血によるこの体は神の国を受け継ぐことはできませんし、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐということはありえないことです(同50)。キリストの十字架の死と復活とを信じる者には「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず着ることになります」(同53)と復活の希望があるのです。

 「イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます。」(テサロニケ一4:14)


<結び>
 「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(ルカ24:39)

 聖書の言葉によってメシアの死と復活とを信じた者たちに主キリストは現れてくださいました。心で信じているので、目で見たもの手で触れたものを確信できるのです。
 キリストの復活は聖書の言葉によって確証され、実体を伴って証しされます。主が焼いた魚を取って召しあがられたように、祈りと御言葉に加えて裂かれたパンを分かち合うことで教会は主の復活を証しします。

 あのイースターの夕べにエルサレムのある家で復活したイエス様と会うことができた人々はすでに葬られました。私たちも使徒パウロに倣って、一度死に朽ちるものを脱いで天に属する者として復活することを確信します。
 この世のものは神の国を受け継ぐことはできませんから、キリストの贖いを受け復活の恵みにあずかる私たちには朽ちないものを受け継ぐ希望があるのです。

 「最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(コリント一15:52)

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