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「命のパン」ヨハネによる福音書6章34-40節

2023年4月30日
牧師 武石晃正

 季節の変わり目で体調や気分が優れないという経験は大なり小なりどなたでもおありではないでしょうか。あるいは年中調子が悪いので季節どころではないという方や、普段から体調管理に気をつけているのでいつも快調であるという方もありましょう。
 生活習慣づくりとして「早寝早起き朝ごはん」と教育の場でも浸透しておりますが、みなさんの朝ごはんはお米が中心でしょうか、あるいはパン食が多いでしょうか。「人はパンだけで生きるものではない」(ルカ4:4)とおっしゃったイエス様は、パンと言っても大麦のパンや種を入れないパンなど硬めのものを召しあがっていたようです。

 本日は「命のパン」と題して、ヨハネによる福音書を中心にイエス様がくださるパンについて考えて参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.イエスが与えるパン
 一連の話の発端は6章の初めにありまして、イエス様がガリラヤ湖畔の野において非常に大勢の群衆をパンと魚で満腹させた出来事にあります(1-13)。その後イエス様は群衆を解散させ弟子たちとともに舟でカファルナウムへ戻られたのですが、なんと翌日には群衆の一部が一行を追ってやってきたというのです(24)。
 「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」(26)とイエス様は群衆の魂胆を言い当てます。それでも食い下がる人々との問答は6章を通して続けられておりますが、初めは謙虚そうなお願いごとだったのに次第に言いがかりのような物言いへと変わっていくのが読み取れます。

 長引く問答のちょうど中ほどで「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」(34)と人々は「天からのまことのパン」(32)についてイエス様に求めます。「主よ」と呼んで敬っているようにも見えますが、彼らはイエス様を信じるつもりも弟子になるつもりもありませんから揶揄や皮肉を込めた慇懃無礼と言えましょう。
 「いつも」というのであればいつもイエス様と一緒にいればよいだけのことです。イエス様も売り言葉に買い言葉、「わたしが命のパンである」と返しつつも「わたしのもとに来る者は」と加えることでこの人たちに従う気がないことをあぶりだしていきます(35)。

 いくつもいくつも質問を続けて真理を求めているかのように見える人々ですが、「前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない」(36)と一蹴されます。福音書はカファルナウムでイエス様に詰め寄った人たちが頑なであったという事実を示すだけでなく、これが読まれる教会のすべての人たちに心の内を問うのです。
 もし自分の熱心さによって信仰生活を守っているとすれば、それは「そのパンをいつもわたしたちにください」と求めた人々に通じるところがあるように思われます。自分の思った通りにならないと、たとえ祈りに応えが与えられてもつぶやくものです(41)。

 どのような人が「わたしのもとに来る者」であるのか、それは「父がわたしにお与えになる人」(37)であるとイエス様はおっしゃいます。私たちは自分の意思でイエス様を信じたつもりでも御父が御子イエスへお与えになったのであり、イエス様ご自身も「わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)と召して下さったのです。
 なぜ御父と御子は私たちを選んでくださるのでしょうか、主キリストを通して御父の御心がなされるためです(38)。そしてその御心とは「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)と福音書は明らかにしています。

 ところで旧約において神の人モーセが率いるイスラエルが40年もの長い期間をかけて荒れ野を旅していたとき、主は天からパンを降らせて養われました(申8:3)。「人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」と言われていますが、単に言葉によるだけでなく「この四十年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった」(同4)と神は彼らの命をも守ってくださいました。
 同じく主イエスはご自分に与えられた人に対して「天からのまことのパン」「命のパン」として、言葉だけでなく永遠の命を得させてくださいます。永遠の命を得させることとは、つまり「終わりの日に復活させること」(39,40)にかかっています。

 では私たちはイエス様のもとに来た者として「終わりの日」だけに望みがあるのでしょうか。イエス様が命のパンを与える者について飢えることがないだけでなく「決して渇くことがない」(36)と言われたことに示唆を見いだします。
 ある箇所で「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」(4:14)と言われており、それを聞いた女性が「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください」と求めました。天からのパンの問答と似たやり取りです。

 ご自身をメシアであると暗に示しつつ「この山でもエルサレムでもない所で、(中略)まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である」(4:21,23)と主は宣言されました。命のパンをいただき永遠の命に至る水を飲む者は、地上において霊と真理をもって御父を礼拝するのです。
 この礼拝の中でパンを裂き、教会は命のパンであるキリストの死と復活とを証しします。そして終わりの日、また主が来られるときまでこのパンを食べる者を(Iコリント15:26)、主は「決して追い出さない」といつも御もとに招いてくださいます。


2.何を食べ、何を飲むのか
 主イエスのもとに来て命のパンをいただいて生涯を通して主を礼拝し、終わりの日には復活の恵みに与るとは、今ものちも代々限りない幸いです。とはいえ私たちは聖書を読んでも祈っていてもお腹がすきますし、イエス様もまた「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」(マタイ6:11)と祈るようにも教えられました。
 日毎の糧を求めて祈りつつも「『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ」(同6:31-32)とも戒められています。パンだけでなく神の口から出る一つ一つの言葉によって生きる者は、実際にどのようなものを食べればよいのでしょうか。

 異邦人と福音書で用いられている語について、教会においては異教徒と読み替えてもよいでしょう。ユダヤから見て異邦人、異教の町々でイエス・キリストの福音を宣べ伝えた使徒パウロは「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」とコリントの信徒たちへ書き送っています(コリント一10:31)。
 コリントの信徒への手紙には「主の晩餐」の制定の言葉も記されておりますが(同11:23-26)、その前後の文脈は飲食を含めた日常の価値観や秩序が教会の中で混乱していた様子を示します。中でも「偶像に供えられた肉」(同8:1)についての教えなどは、異教文化の真っただ中に置かれている日本のキリスト者にとって切実な課題です。

 関連して旧約聖書のレビ記には食物についての規定があり、食べてよい生き物と食べてはならないものの定めがあります(レビ11章)。単に衛生面だけの問題ではなく、神の民にふさわしいものであるかが問われています。
 例えば食べてはならない汚れたものの代表格にいのししがありますが、中国で猪肉と書いて豚肉を指すようにブタもこれの分類に含まれます。肉を食べるためにはその動物を屠って捌かなければなりませんし、イスラエルで禁じられているものを食べるにはその習慣をもつ異民族のもとで契約を結ぶことになります。

 パウロは「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」(コリント一8:4)と前置きしつつも、「偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点」(同10:20)を指摘しています。
 不衛生であるとか毒があるとかではない限り、口から入ったものは腹を通って出されるだけなので直ちにはその人に害を及ぼすことはないでしょう。しかし害毒がないことと、その食物を手にする過程や食する習慣が「わたしのもとに来る人」とイエス様に呼ばれる者に相応しいかどうかは別な話です。

 命のパンをいただく者が何を食べ何を飲むのか、それは神の口から出る一つ一つの言葉によって生きているかどうかが問われるところです。そして「口から出て来るものは、心から出て来るので、これこそ人を汚す」(マタイ15:18)と主イエスの戒めを覚えます。


<結び>
 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ6:35)

 父なる神が御子にお与えになった人は皆、主イエスのもとに来ます。そして今この場で共に御言葉をいただいている私たちは、各々が自分で教会に来たと思っていても「わたしがあなたがたを選んだ」(15:16)とイエス様の選びのうちにあるのです。
 そして主は「わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない」(37)、「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」(40)と重ねに重ねて誓われました。このイエス・キリストにおける永遠の命と復活を信じる者は、福音と聖礼典とによる公の礼拝をもって主の再臨を待ち望み続けます。

 人を生かす命のパン、主キリストの御言葉です。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」(51)

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