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「神の子の自由」ヨハネによる福音書15章11-17節

2023年5月7日
牧師 武石晃正

 巷では最長で9連休とも聞こえておりました今年のゴールデンウィークも最終日を迎えました。ご予定でまだ戻っておられない方もいらっしゃるかと存じますが、教会は主日毎の礼拝を今週も変わらずに守っています。
 5月5日は皆様ご承知のとおり「こどもの日」でありまして、祝日法(国民の祝日に関する法律)においては「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」と説明されています。母に感謝すると言えば「母の日」も5月ですし、子どもの権利条約が日本で発効したのも同月中だったと記憶しております。

 日本語で「こども」と一口に申しましても様々な定義がございますし、聖書においてもまた然りです。本日はヨハネによる福音書を朗読いたしまして、「神の子の自由」と題して思いめぐらせて参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)



1.相続人としての「神の子」(ガラテヤ3:23-4:7)
 聖書の中でいわゆる子どもを指す語は成長段階によって「幼子」「少年」と訳されていることがほとんどです。翻って「子」と訳されるものは「アブラハムの子」「ヨセフの子」などその人の出自や家系を示したり、時には「蝮の子ら」などとその人の本質を言い当てたりする場合に用いられています。
 イエス様が一人の子どもを呼び寄せて弟子たちに説かれたこともありましたが、その際には「心を入れ替えて子供のようにならなければ」とたとえの引き合いでした(マタイ18:2,3)。幼い子どもが偉いと言われたのではなく、「わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者」(同5)と聞いている大人に向けられています。

 あるいは「大工の息子」(マタイ13:55)と言えば父親が大工であるという意味である以上に、大工の子である大工つまり家業を継いだ生粋の大工であることを示します。このように聖書において「子」と呼ばれる者は専らその名を継ぐもの、相続人である存在です。
 すると主イエスが「神の子」と呼ばれることにおいては、まず「聖霊によりて宿り、処女マリアより生まれ」た者、すなわち神から生まれた者を意味します。出生の事実を示すばかりでなく、神の相続人としての「子」あるいは紛れもなく神であるという意味も含まれています。

 使徒パウロはガラテヤの信徒への手紙の中で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と記しています(ガラテヤ3:26)。キリストが現れる以前については旧約の律法の下で監視されていたとも書かれていますが(同23)、ユダヤ人ではない私たち異邦人はそもそも論外だったことです。
 当時のローマの制度では自由人の子であっても14才までは父が定めた後見人の下に置かれ、25才になるまでは財産について管理人の下にありました(同4:2)。未成年のうちは自分の意思が認められず、すなわち自由がないので全財産の所有者であっても僕と何ら変わるところがなかったということです(同1)。

 ところが時が満ちて「父親が定めた期日」(2)がやってきました。神様はマリアを通して御子を世に遣わされ、後見人や管理人である律法の支配下から私たちを贖い出してくださったのです(同4,5)。
 御子が世におられた時、弟子たちに祈りを授けられました。「だから、こう祈りなさい。『天におられるわたしたちの父よ』」(マタイ6:9)と与えられた「主の祈り」をもって、主は私たちに「父よ」と祈る霊をも授けてくださったことを覚えます(ガラテヤ4:6)。

 「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(7)と、洗礼を受けてキリストに結ばれた者はみな神の子とされています。まだこの恵みを受けていない方がおられましたら、もったいないので今すぐキリストだけを自分の救い主として信じてあなたも神の子としていただきましょう。


2.僕(しもべ)ではなく友である(ヨハネ15:11-17)
 朗読いたしました福音書に戻りまして、ヨハネによる福音書の15章はぶどうの木のたとえがよく知られている箇所です。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(15:5)とは実に主の恵み豊かさが示される御言葉ですが、時折この引用が独り歩きしてしまってはいないでしょうか。
 と申しますのも続く11節には「これらのことを話したのは」と言われているように、更にその真意が説かれているからです。鍵となるのは「わたしの愛にとどまりなさい」(9)「互いに愛し合いなさい」(12)という命令が「父の掟」(10)「わたしの掟」(10,12)として与えられたことです。

 愛は素晴らしいものですが、掟と言われているように決まり事があり家であれば家訓、組織であれば規則を伴うものだと示されます。未成年のうちは保護者の監督下にあり、成人すると法令や規則に対して責任を直接に負うのと同じです。
 この世的には愛のわざや信仰というものは自由なものであるので、規則に縛られるものではないという考え方もありましょう。しかしイエス・キリストの教えにおいて教会的には、掟や規則に基づいた愛が神の子に相応しいものであるのです。

 ぶどうの木の教えをイエス様が説かれたのは「あなたがた」と呼ばれる弟子集団に対してであり、「つながっていなさい」(4)と個々人ではなく組織として命じられています。その上で豊かに実を結ぶために「わたしの愛にとどまりなさい」(9)「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(13)と愛の掟が加えられました。
 続けて「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(14)と主は弟子たちを友と呼ばれました。ここでも先の「子」と同様に「僕」の対義語として「友」を当てておりますから、子ども同士の遊び友だちという意味ではなく一人前の大人に対して「友」と呼ばれています。

 兄弟ではなく友と呼び(15)、イエス様は「わたしがあなたがたを選んだ」(16)と招かれました。「あなたがたがわたしを選んだのではない」と言われており、私たちも自分から教会へ来たりイエス様を信じたりしたと思っても、予め主が招いてくだされたのです。
 「選んだ」と聞いて何か縛りがあるようにも感じられますが、スポーツ競技において出場者が「選手」と呼ばれることに通じます。もちろん出場者が自分の意思で申し込みをするのですが、募集あるいは召集をする主権はあくまでも主催者にあるのです。

 選ばれなかった人はどうなるのか、イエス様は何を基準に選ばれるのか、そのような疑問もありましょう。手がかりとなる聖句を挙げながら考えてみましょう。
 まず選ばれているのは「だれでも」です。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい」(マタイ11:28)「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」(ヨハネ7:37)とイエス様は招いておられ、その条件は「疲れや渇きの自覚があり実際にキリストのもとへ来る人」ということです。

 応募や申込をしていないのに開催日当日に会場へやって来て、「誰でも参加できると聞いて来たのに、オレだけ出場できないのは不公平だ」と言う人がいたら皆さんはどう思うでしょうか。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)との約束も同様で、予めキリストを信じているということが永遠の命をいただくために不可欠な条件なのです。
 「一人も滅びないで」とあるように、イエス様が「わたしがあなたがたを選んだ」「わたしがあなたがたを任命した」とおっしゃってもそれ以外を排除しようとはしていないことは明らかです。また選ばれた者においても「あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るように」と言われており、「互いに愛し合いなさい」(17)との命令を守って初めてその実を見るのです。

 「わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である」(15:14)とイエス様は私たちを僕ではなく友と呼んでくださいます。僕であれば誰かの命令に従いますが、友ですから自ら掟に従って互いに愛し合うのです。


<結び>
 「あなたがたが子であることは、神が、『アッバ、父よ』と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。」(ガラテヤ4:6)

 主の祈りをもって祈る時、キリストに結ばれて神の子としていただいた恵みが確かになります。天地創造の神を「主よ」と呼ぶと同時に「我らの父よ」と親しく呼ばせていただけることは何と幸いなことでしょう。
 僕であれば主人の命令のとおりに行なわなければ直ちに罰せられますが、キリストに結ばれた者は「神の子」でありキリストの友としての自由があります。キリストのもとに来ることも来ないことも命令を守ることも守らないことも自由ですが、実を結び、実を残すのは掟に従って「互いに愛し合う」ことによるのです。

 互いが平等で公平であるためには基準となる掟や規則が必要です。強いられて従うのは養育係の下にある者や僕と呼ばれる者であり、自ら進んでそれを守り行うのは成人した神の子の自由です。

 「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)

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