「信仰に報いる主」ルカによる福音書7章1-10節
2023年5月14日
牧師 武石晃正
今年のペンテコステ(聖霊降臨節)は5月28日です。先だって5月18日は昇天日、イエス様が復活の後40日間、弟子たちに現れて神の国について教えてくださったことを記念します。
聖霊が天から弟子たちに降るとキリストの新しい契約による神の国の働きが始まりました。それまでの間に弟子たちは40日間イエス様から教えを受けて、昇天後の10日間は聖霊を待ちつつ集まって祈り続けました。
本日は昇天日を前にルカによる福音書を開いております。この箇所を中心に、主が私たちの信仰をどのように見ておられるのか「信仰に報いる主」と題して探って参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
今年のペンテコステ(聖霊降臨節)は5月28日です。先だって5月18日は昇天日、イエス様が復活の後40日間、弟子たちに現れて神の国について教えてくださったことを記念します。
聖霊が天から弟子たちに降るとキリストの新しい契約による神の国の働きが始まりました。それまでの間に弟子たちは40日間イエス様から教えを受けて、昇天後の10日間は聖霊を待ちつつ集まって祈り続けました。
本日は昇天日を前にルカによる福音書を開いております。この箇所を中心に、主が私たちの信仰をどのように見ておられるのか「信仰に報いる主」と題して探って参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.キリストの言葉を聞く者たち
昇天前の40日という具体的な日数はルカが使徒言行録の中に記しています(使徒1:9)。どのような言葉を弟子たちは復活したイエス様から委ねられたのでしょう。
使徒言行録では「御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し」(1:2)と記されており、マタイによる福音書でイエス様は「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:20)と命じられています。「これから命じること」ではなく「命じておいたこと」ですから、弟子たちに託された教えは既にイエス様から受けていたものです。
既に受けていた教えとしては朗読の箇所にも「イエスは、民衆にこれらの言葉をすべて話し終えてから」(ルカ7:1)というくだりがあります。「これらの言葉」とは6章に記されている教えであり、内容としては「山上の説教」ですがルカはこれを「平地の説教」としています(6:17)。
山の上であろうと平地であろうと、いつもイエス様は一緒にいた弟子たちに繰り返し大切な教えを説かれたことです。民衆にはたとえで語られましたが、イエス様は聞く耳のある者すなわち弟子たちにだけ御国の真理を説き明かされました。
2人ずつ組にして使徒たちや72人の弟子たちを町々へ遣わされたとき、彼らへ命じられたのも「山上の説教」「平地の説教」にある神の国の教えでした。これらの教えは主が復活後に使徒たちを通して教会に与えられましたので、ガリラヤの民衆と福音書の読者とを「これらの言葉」という点において結びつけています。
2.僕をいやした百人隊長の信仰
カファルナウムでのいやしの御業は初期ガリラヤ宣教での出来事す。しかし、昇天前の主が弟子たちに与えた命令において肝となる教えと言えましょう。
「ある百人隊長に重んじられている部下が、病気で死にかかっていた」(2)と書かれています。当時のローマの軍隊はシリアに駐留していましたから、この町にいるのはローマ兵ではなく領主ヘロデの配下にある異邦人の兵たちでありましょう。
ユダヤにおいて異邦人といえば「異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(マタイ18:17)と引き合いに出されるように、本来であれば律法において付き合いを退ける対象でした。ところが、なんと民の指導者である長老たちが百人隊長の使いとして助けを求めにやってきたというのです(7:3)。
「イエスのことを聞いた百人隊長は」(3)とはこの時に初めてその名を耳にしたというよりも、ようやくカファルナウムへ戻って来られたとの知らせを聞いたということでしょう。ですから長老たちも予め頼まれていたようにイエス様のもとへすぐにやって来たのです。
彼らは百人隊長について「わたしたちユダヤ人を愛して、自ら会堂を建ててくれたのです」(5)と熱心に願い出ました。ユダヤの指導者が異邦人を執り成すのは極めて稀なことですが、この人たちの心を占めていたのは信仰よりも会堂を建ててくれたという実績です。
イエス様が長老たちと連れ立って百人隊長の家を訪れようとすると、なんと彼の友人がまた使いとしてやってきました。今か今かと待ちながら、辻の向こうに見えたので迎えに出てきた案配です。
恐らく百人隊長は医者にさじを投げられたこの部下のもとを一時も離れたくないと思ったのでしょう。それで兵隊や部下ではなく、自分と対等な存在である「友達」に思いの丈を委ねたのです。
「自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」(6)「お伺いするのさえふさわしくないと思いました」(7)との挨拶は、助けに来てくれるよう頼んだにしては不思議な物言いです。そこまで来ているのに家に入るなと突き返すようで失礼な感じもいたします。
当時ユダヤの敬虔な人たちは身を汚さないために異邦人の家に入らないという習慣がありました。この百人隊長は権威ある身分なのにユダヤの人たちの習わしを尊重したのです。
権威についても遠回しな言い方をしていますが(8)、領主ヘロデの権威の下に置かれている者が一人のユダヤ人を神あるいは神の使いとして崇める最大限の告白です。人間の権威でさえも発せられた命令はそれを聞いた者によって実現するのであれば、ましてや主がおっしゃったことは必ず実現するのです(ルカ1:45)。
旧約の預言者イザヤを通して主は次のように語られました。「そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」(イザヤ55:11)
自らも権威にある身でありながらイエス様の言葉を求めるということは、自身を「兵隊」「部下」かそれより低い者とすることです。長老たちは百人隊長が建てた会堂という目に見える物を評価しましたが、イエス様は「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」(9)と御言葉への服従を彼の信仰とされました。
異邦人であっても信仰によって救われることが当初からの主の御旨であることが示されます。行いや実績によるのではなく、御言葉の権威に服した百人隊長の信仰を通して、主は彼の部下をただちにいやしてくださいました(10)。
3.御言葉に対する信仰
御言葉への信仰について、使徒パウロはテサロニケの信徒たちへ宛てた手紙の中で「主の言葉」が「速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように」と書き送っています(テサロニケ二3:1)。そして続けて「すべての人に、信仰があるわけではないのです」(同4)と教会の中には御言葉への信仰ではなく他のものに頼っている人たちがいることを指摘します。
ちょうどイエス様が「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」と神の民について指摘したように、教会もまたその真価が問われます。先の百人隊長の件に関してマタイによる福音書では、そのやり取りの中で「だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(マタイ8:12)とのイエス様のお言葉を取り上げています。
もちろん直接には神の民イスラエルについて述べられたものですが、「命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と言われたことにより教会にも向けられています。御国の子らであろうと教会であろうと、信仰が疎かであり御言葉の権威が二の次にされるようなことが起こり得るのだということです。
ですから教会は聖餐において、「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(コリント一11:28)との吟味を勧告するのです。そして「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」とテサロニケの信徒たちのために祈るパウロの言葉をもって、聖霊は私たちをも執り成してくださいます。
<結び>
「あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ7:50)
もし百人隊長を主が受け入れたのが長老たちの評価によるものだとすれば、彼らの信仰が百人隊長のそれに優ったことになるでしょう。そうなるとイエス様が「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない」とおっしゃったことに矛盾します。
行いや実績によってイエス様に従おうとするならば、私たちはどれほど多くの奇跡を行わなければならないでしょう。しかし主イエスご自身が信仰の完成者として、荒れ野の40日から始まり十字架に至るまで御言葉に従って歩んでくださったのです。
主の昇天日を覚えつつ、信仰に報いる主の御前を歩ませていただきましょう。
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)