「主の復活の証人」使徒言行録1章12-26節
2023年5月21日
牧師 武石晃正
先週は木曜日が教会暦において昇天日でありまして、葬られて3日目に死人のうちよりよみがえられた主イエスが弟子たちに現れた40日間を記念いたしました。翌日の金曜日には2月に召された敬愛する姉妹の納骨を行いまして、ご遺族の慰めを祈るとともに、主の再臨と私たちの身体のよみがえりとを希望として抱きました。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と命じられた弟子たちは、主が天に昇られてからどのような思いで約束を待ち続けたでしょうか。同じく私たちも信仰から離れず、主の再び来られることを待ち望みます。
本日は使徒言行録を開き「主の復活の証人」と題し、使徒的教会として、そこに召された一人ひとりとしての使命について思い巡らせましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
先週は木曜日が教会暦において昇天日でありまして、葬られて3日目に死人のうちよりよみがえられた主イエスが弟子たちに現れた40日間を記念いたしました。翌日の金曜日には2月に召された敬愛する姉妹の納骨を行いまして、ご遺族の慰めを祈るとともに、主の再臨と私たちの身体のよみがえりとを希望として抱きました。
「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と命じられた弟子たちは、主が天に昇られてからどのような思いで約束を待ち続けたでしょうか。同じく私たちも信仰から離れず、主の再び来られることを待ち望みます。
本日は使徒言行録を開き「主の復活の証人」と題し、使徒的教会として、そこに召された一人ひとりとしての使命について思い巡らせましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.約束を待つ弟子たち
具体的にどの場所から主イエスが天に昇られたのか使徒言行録では示されてしませんが、使徒たちが「『オリーブ畑』と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た」(12)と書かれています。これを記したルカは福音書において、イエス様が弟子たちを「ベタニアの辺りまで連れて行き」そこから天に上げられたことを明かしています(ルカ26:50)。
ベタニアという町はオリーブ畑の山の東側にありましたから、エルサレムから見ればどちらもだいたい同じ方角です。「安息日にも歩くことが許される距離」とは2000アンマ(約900m)と言われておりますが、この日は安息日ではありませんので主は愛する友人ラザロの住むベタニアまで行くこともできたでしょう。
都へ戻って「泊まっていた家の上の部屋に上がった」のは、12弟子ではなく11人の姿です(13)。他にもガリラヤからイエス様に従って来た女性たちのほか、復活の後に弟子となった主イエスの兄弟たちもおりました。
1人を欠いて11人となった使徒たちと、当初から行動を共にしていた70人の弟子たち(ルカ10:1)、ほか主の母マリアをはじめとする婦人たちがその家に集まって心を合わせて熱心に祈っていました(14)。主の兄弟たちも加わっていますから確かに120人ほどの大所帯です(15)。
十字架と復活の後に一度ガリラヤへ退いた際に、使徒たちはイエス様から「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:20)との指示を受けています。もし使徒たちの役割が目に見える成果を求められる実績主義や行動主義であったならば、「これだけの人が集まっているのに何もしないのはもったいない」と「エルサレムを離れず」との条件を曲げてでもただちに宣教活動を起したことでしょう。
しかし主が求めたのは弟子たちの努力ではなく「父の約束されたものを待ちなさい」と待つことでした。僕(しもべ)であれば死んだと分かっている主人の命令を待つことはありませんが、その主人が復活して今も生きているので弟子たちは待ちつづけたのです。
2.イスカリオテのユダの告別
120人ほどの仲間が集まっているところでペトロが口を開きました(15)。それは「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについて」(16)です。
聖書をほとんど読んだことがなくてもイスカリオテのユダと聞けば裏切り者の代名詞のようにその名を知っている方もおられます。「裏切り者のユダって聖書の話だったの」と逆に聞き返されたこともございます。
名前だけ独り歩きしているようなユダではありますが、聖書自体は彼についてほとんど沈黙しています。3年あまりも実の家族のように暮らしてきた仲間を失ったことで、使徒も他の弟子たちも深く悲しんだことを主の聖霊がご存じだったからです。
はじめからユダばかりを悪者と決めつけて扱われているのではなく、ペトロ自身をはじめ他の使徒たちも手を置けば胸が痛むのです。イエス様を置き去りにした者たちとして11人の名前(13)が記されてるようにも見受けられます。
「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」(17)と、ペトロは自らをユダと同じ立場において語ります。確かに銀貨30枚で情報を売ったのはユダでしたが、主が捕らえられたと見るや逃げ出した者10名、目の前で見捨てて逃げた者1名、12人が12人ともイエス様を裏切ったに相違ないからです。
「この聖書の言葉は、実現しなければならなかった」(16)とは、イエス様ご自身も最後の晩餐に臨んで「人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く」(マタイ26:24)と言われたことです。12人のうち誰を通して実現されても不思議はなかったのです。
「だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった」(同節)とのイエス様のお言葉は、「あの人を知らない」と3度も否んだペトロの心をも締め付けたでしょう。その一方で筆者であるルカはユダの死ばかりでなく、主がご自分を侮る者たちをどのように扱われるのかを本書の中に記すのです(5:1-11、12:23)。
実現しなければならなかった聖書の言葉として、ペトロは詩編から2か所を引用しています(20)。住まいから住む者がいなくなるとは神の前からその家が断たれることを意味し、その務めは取り上げられてふさわしい者へと委ねられました。
3.復活の証人にふさわしい者
イエス様が12人と数を定めて弟子を選ばれたのは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(マタイ15:24)と言われたように12部族を念頭に置かれたからです。「主よ、イスラエルのために国を建て直してくださるのは、この時ですか」(使徒1:6)と復活後に弟子たちから尋ねられたときも、時や時期を不明としつつもイスラエルの再建そのものは御父が定めておられるものとしています。
ですから12人が揃って初めてキリストの使徒として使命が発揮されるのです。「その務めは、ほかの人が引き受けるがよい」(20)との詩編の言葉を引用しつつ、ペトロはイエス様のご計画に基づいて欠員の補充を宣言しました。
候補者の条件は「ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者」(21)、すなわち十字架と復活との目撃者です。そこで仲間たちはイエス様と公生涯を共に行動した者たちの中から、バルサバとマティアの2人を候補に立てました(23)。
そもそも12人に入っていなかったのが不思議なぐらいの2人だったと言えましょう。公平を期して二者択一にしたというよりも、絞りに絞った末どうにも甲乙つけがたかった2人です。
バルサバとは「安息日の子」という意味があり、イエス様がご自身を「安息日の主」(6:5)と呼ばれたことを思い出させます。マティアは「主の賜物」という意味なので、「イエスの愛しておられた弟子」(ヨハネ21:20)との名乗りにも似ています。
二つ名を持っていることは当時のユダヤでは珍しくなかったようで、シモン・ペトロや雷の子(マルコ3:17)などイエス様の弟子たちにも見られます。名は体を表すと申しますが、このような呼び名で受け入れられていたことからもこの2人が使徒として相応しい者であることが伺えます。
いよいよ決定を下すにあたって「すべての人の心をご存じである主よ」(24)と一同は祈ります。ユダが金銭で裏切ったことも弟子たちがみな逃げ出したことも何もかも知っておられる主です。
私たちが何をしたのかを知っておいでであるばかりでなく、イエス様は私たちが受けたことされたことをも覚えておられます。だから弟子たちは全幅の信頼を寄せて、「この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください」と委ねることができました。
旧約聖書の慣わしに従って引かれたくじはマティアに当たり、使徒としてのこの任務が継がれました。使徒が再び12人に満たされたことにより、欠けを思うたびにいつもユダのことで痛みを負っていた弟子たちの心がようやく慰めを得たのです。
主の復活の証人は単に年数が長いとか実績があるとかのこの世の価値観によらず、彼らが何者であるかを見ておられます。11人の使徒に加えられた者は「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間(中略) いつも一緒にいた者」の中から選ばれました。
<結び>
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる。」(使徒1:8)
もしイエス様と行動を共にした人だけが復活の証人となることができるのだとすれば、教会も福音宣教も第1世紀のうちに潰えてしまったことでしょう。使徒たちからキリストの教えと命令を受け継ぎ、「預言者」と呼ばれる巡回説教者やテモテのような教師たちが主の証人として奉仕しました。
その後にローマやアンティオケアなど主要な都市には「使徒教父」と呼ばれる指導者が立てられることになります。使徒と預言者との基の上に建てられた正統な教会は、唯一の、聖なる、公同の、使徒的な教会であり(ニカイア信条)、その中にあって主の御教えに忠実な私たちも主の復活の証人として立てられているのです。
ペンテコステを次週に控えつつ、今週も主の聖霊の助けをいただいて歩みましょう。
「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」(マタイ28:20)