「神の霊の満たし」使徒言行録2章1-13節
2023年5月28日
牧師 武石晃正
本日はペンテコステです。主の受難と昇天の年代については諸説ありますが、紀元33年といたしますと今年で1990回を数える聖霊降臨節です。
「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と命じられ、待ちに待った弟子たちに聖霊が降った日を覚えます。キリストを信じる者を神の子としてくださる主の聖霊は、真理の霊であり、弁護者あるいは助け主として私たちのうちに留まってくださいます。
ペンテコステの日の出来事を使徒言行録より読みまして、「神の霊の満たし」と題して恵みに与りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
本日はペンテコステです。主の受難と昇天の年代については諸説ありますが、紀元33年といたしますと今年で1990回を数える聖霊降臨節です。
「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい」(使徒1:4)と命じられ、待ちに待った弟子たちに聖霊が降った日を覚えます。キリストを信じる者を神の子としてくださる主の聖霊は、真理の霊であり、弁護者あるいは助け主として私たちのうちに留まってくださいます。
ペンテコステの日の出来事を使徒言行録より読みまして、「神の霊の満たし」と題して恵みに与りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.聖霊が降る(使徒2:1-13)
「五旬祭の日が来て」(1)とユダヤの祭が挙げられております。「旬」とは暦で上旬中旬下旬と用いますように10日を意味しますから、五旬は50日目を指します。
これはユダヤで小麦の収穫を祝う「刈り入れの祭り」(出23:16)でありまして、同じく3大祭りの一つである「過越祭」から7週を数えて祝われました(同34:22)。7週すなわち49日を満たして50日目の祭であるので、「七週祭」とも「五旬祭」とも呼ばれます。
「一同が一つになって集まっていると」そこには改めて12人目の使徒として選ばれたマティアの姿もあります。使徒が12人揃っての再出発に心はやらせながらも祈っていると、突然「激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ」(2)、「炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(3)というのです。
突風が吹き降ろしたのかと思いきや、あくまでも「音」が響いたのです。「風」と訳された語は「息」という意味もありますので、天でイエス様あるいは御父が大きく息を吸った音が聞こえたようです。
炎が降って弟子たちの心が燃やされたとは書かれておらず、一人ひとりにとどまったのは「舌」であります。「舌」は英語でも「言葉、言語」という意味がありますように、聖書の中でも言語や方言を指しています。
「舌のような炎」ではなく「炎のような舌」と記されていますから、弟子たちが彼らの熱意や感情で語り始めたのではなく、あらゆる国ことばで語る賜物が授けられたことを意味します。「“霊”が語らせるまま」(4)とありますが、何か恍惚状態で不可思議な言葉を発したというよりも「ほかの国々の言葉で話しだした」と明らかな外国語です(6)。
イエス様とその一行がガリラヤ訛りの強いユダヤの言葉で話していたことは、「皆ガリラヤの人ではないか」(7)と言われているほか、ペトロが大祭司の家の庭で「言葉遣いでそれが分かる」(マタイ26:73)と言い当てられています。母国語でも訛りが抜けない人たちが東はメソポタミア、西は北アフリカのリビアまでの非常に広い範囲の諸言語を身に着ける機会があったとはまず考えられないことです(10)。
しかし騒ぎを聞きつけてやって来た人たちはそれぞれの故郷の言葉を聞いたので、弟子たちが話す内容を理解することができました (11)。どの言語であろうと「神の偉大な業」は信心深い人々だけのために語られたのではなく、むしろ外地からエルサレムに来て滞在していた人たちや改宗者のためでもありました。
その一方で、霊に満たされて働きが起こるところでは、霊に満たされていない者たちからの侮りが伴うことも示されます (13)。使徒パウロもまた「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません。その人にとって、それは愚かなことであり、理解できないのです。霊によって初めて判断できるからです」(コリント一2:14)と記しており、教会の内外問わず一部の人から理解を得られないことはむしろ神の霊に満たされた働きである証しであるとも言えましょう。
2.教会の誕生日
集まって祈っていたキリストの弟子たちに聖霊が降り、あらゆる国ことばでの宣教がペンテコステから始まりました。そのため、この日は「教会の誕生日」とも呼ばれます。
教会と訳される語は新約聖書が書かれた当初のギリシャ語では「エクレーシア」、直訳すれば集会や組織、会衆という意味の言葉です。するとある人たちは「弟子たちはペンテコステより前から集まって祈っていたのだから、ペンテコステを教会の誕生日とするのはおかしいのではないか」と考えるようです。
確かにそれも一理あるわけですが、集会や会衆というものは旧約聖書の中にも見られます。七十人訳と呼ばれるギリシャ語訳の旧約聖書では「主の会衆」としてエクレーシアが申命記から用いられておりまして(申命記23章)、さすがにそこまで「教会」を遡るのは過ぎたることだと思われます。
では「誕生日はいつを指すのか」と考えてみますと、それは文字通り生まれた日のことです。使徒たちの時代においてお産と言えばいわゆる自然分娩ですから、子どもが生まれた日と言えば一生に1回だけ、産声を上げたその日です。
医学や生物学などの見地では命の始まりを受精や卵割の開始、着床などに認めることがあるでしょう。それでも「生まれた日」というものは水の中から取り出されて息を吹き込まれた日に相違はないのです。
同様に教会の誕生日についても、その兆しが早くからあったはいえ産声を上げた日より前に遡ることは難しいでしょう。そして何よりこのペンテコステの出来事を記したルカは医者であったこと(コロサイ4:14)も念頭に置くならば、生まれた日はやはり産声を上げた日とするのが妥当でしょう。
朗読の箇所には「激しい風」とありまして、もとの言葉では「風」と「息」は同じ単語です。旧約においても吹く風は神の息であり、風も息も「霊」を意味する語です。
2節では、天で力いっぱい大きな息をする音が聞こえるや否やそれが家中に響いたということになります。生まれてきた赤子が初めて息を吸うや、いま生まれ落ちたぞと全身全霊で響かせる産声さながらです。
天から降った神の霊が弟子たちに臨み、一人ひとりに炎のような舌が留まりました(3)。聖霊によって処女マリアに宿った主がこの世にお生まれになったのがクリスマスであるように、神の霊に満たされた一同が主キリストの体である教会として「“霊”が語らせるまま」産声を上げたのがペンテコステです。
3.求める者に与えられる聖霊(ルカ11:1-13)
皆さんは待てと言われて待つのはよいとして、何日ぐらいまでなら待つことができるでしょうか。弟子たちが聖霊を待ったのは結果として10日でありましたが、イエス様はいつであるかと期日を定めずに待つように命じておられました(1:7-8)。
心を騒がせず、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを常々イエス様は弟子たちに教えておられました(ルカ11章、18章ほか)。主ご自身が神の子として御父に祈ることを弟子たちに分け与えてくださったばかりでなく、殊に使徒たちは聖霊が与えられるまで待ち続けるための訓練を必要としたのです。
ルカによる福音書11章の初めにはいわゆる「主の祈り」の原型が記されています。マタイによる福音書では山上の説教において祈りの手引きとして与えられていますが(マタイ6章)、ルカは必要なものが与えられるまで執拗に求める祈りの導入として扱っています。
「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」(ルカ11:13)と、いつになるのか分からなくても「良い物」が与えられることをイエス様は約束されました。すなわち「主の祈り」を授けられるにあたって「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる」と聖霊が与えられるまで待つことを指示されたのです。
従って「御国を来たらせたまへ」と主の再臨を求める祈りを奉げるとき、私たちは先だって神の霊に満たされることを思い起こすのです。そして聖霊を受けた使徒たちより始まった教会には、主イエスが「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(ヨハネ14:18)とおっしゃった約束が残されています。
日頃の個人の祈りに加え、主の日毎の礼拝の中で「主の祈り」をもって祈るとき、ペンテコステにおける神の霊の満たしをいつも覚えることができるのです。
<結び>
「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。」(ローマ8:32)
実に主イエス様の約束の通り、天から聖霊が降り、弟子たちは地の果てに至るまで主の証人となるべき「舌」が与えられました。そして今やエルサレムから遥か東方の地の果て、更に海を渡ったこの島国にも使徒たちの知らない国ことばで福音が宣べ伝えられています。
あのペンテコステの日に神の霊の満たしを受けて教会が産声を上げました。そして今に至るまで主キリストの体として世に遣わされ、主の十字架と復活と再臨を証しします。
独り子である神キリスト・イエスを通してなされた神の偉大な業があらゆる国の言葉で語り告げられています。そして弟子たちに委ねられた罪の赦しのみわざが、今なお神の霊の満たしを受けた教会とそして私たちを通してこの地で成されるのです。
「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(ヨハネ20:22-23)