「教会が受けた使信」使徒言行録2章22-36節
2023年6月4日
牧師 武石晃正
あなたはイエス・キリストを信じていますか。イエス・キリストを自分の救い主として信じている皆さんは、この救い主がどのような方であると知っておいででしょうか。
今の時代では聖書は世界中で多くの言語に翻訳され、日本語でもいくつもの版が出版されています。ですからキリストについて知ろうと思えば、日本であれば誰でもいつでもその気になれば福音書を読むことができるのです。
ところが福音書の中で最も短いマルコによる福音書でさえ38ページもあります(「聖書 新共同訳」)。仮に全文を一言一句たがえずに暗唱することができたとしても、そこからキリストがどなたであるのかを誤りなく証しするには聖霊の助けが必要です。
五旬祭において神の霊を受けた弟子たちが教会としてキリストを証しするようになって1990年経ちました。本日は「教会が受けた使信」と題して使徒言行録を開いて読み進めて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
あなたはイエス・キリストを信じていますか。イエス・キリストを自分の救い主として信じている皆さんは、この救い主がどのような方であると知っておいででしょうか。
今の時代では聖書は世界中で多くの言語に翻訳され、日本語でもいくつもの版が出版されています。ですからキリストについて知ろうと思えば、日本であれば誰でもいつでもその気になれば福音書を読むことができるのです。
ところが福音書の中で最も短いマルコによる福音書でさえ38ページもあります(「聖書 新共同訳」)。仮に全文を一言一句たがえずに暗唱することができたとしても、そこからキリストがどなたであるのかを誤りなく証しするには聖霊の助けが必要です。
五旬祭において神の霊を受けた弟子たちが教会としてキリストを証しするようになって1990年経ちました。本日は「教会が受けた使信」と題して使徒言行録を開いて読み進めて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.ペンテコステの宣教
イエス様の昇天からちょうど10日が経ち、五旬祭の日になると約束されたとおり弟子たちへ天から神の霊が降りました。ガリラヤ人以外には語ることができないと言われるほど強いガリラヤなまりを持つ弟子たちが突如として流ちょうな外国語を語りだしたので、その日エルサレムに滞在していた人々はめいめいが生まれた故郷の言葉で神の偉大な業を聞いたのです(2:8-11)。
ところが騒ぎを聞きつけてやって来た人々の中には「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざける者もありました(13)。そこで12人揃った使徒たちは立ち上がり、預言者ヨエルを通して言われていたことであると主なる神による聖霊の注ぎについて証言を始めたという次第です(16-18)。
使徒ペトロは集まった人々に向けて「ユダヤの方々」(14)「イスラエルの人たち」(22)「兄弟たち」(29)「イスラエルの全家」(36)と呼びかけています。これは使徒たちが「イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(マタイ10:6)とイエス様から受けた使命がなお有効であることを示します。
ペトロは続けて「ナザレの人イエスこそ、神から遣わされた方」すなわちイスラエルが待ちに待っていた救い主メシアであると告白します(22)。「奇跡」「不思議な業」「しるし」はいずれも「あなたがたの間で行われた」「あなたがた自身が既に知っているとおり」であるのですが、見て知っていることと真実を信じていることとは全くの別物です。
この人たちが単に奇跡を見聞きしても信じなかったばかりでなく、「律法を知らない者たちの手を借りて、十字架につけて殺してしまった」(23)と主イエスの死についての責任が追及されます。しかし人々が御子イエスを殺すことができたとしても、神がこの方を復活させたので罪と死の支配は及ばなかったのだと逆転勝利が明されました(24)。
預言者ヨエルの言葉や詩編を引用しながら解き明かすのは常日頃からイエス様より受けていた教えの通りです。復活の日にもイエス様は2人の弟子たちに現れて「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)ことも記憶に新しいことです。
この使徒の言葉を更に注意深く読み返しますと、「お定めになった計画」「あらかじめご存じのうえ」(23)「ダビデは、イエスについてこう言っています」(25)「ダビデは(中略)知っていました」(30)と全てが旧約聖書において人々に示されていたことが指摘されています。言葉としては聞いていても、主キリストにおいて啓示され、聖霊の導きによってはじめて真理を知ることができるのです。
2.聖霊によって新しく生まれる
言葉としてはイスラエルの人たちも受けていたことではありますが、キリストがはりつけにされて殺され、復活されたことにより「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(21)という計画が成就しました。やがての日にメシアが到来するという使信を漠然と受けていた契約の民に向け、聖霊は使徒を通して「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません」(36)と救いの言葉を語ったのです。
イスラエルの人々が異邦人の手によってはりつけにして殺したナザレ人のイエスを「神は主とし、メシアとなさったのです」(36)と言われており、復活させることまでが神の計画であった証しされます。すると預言者と詩編に書かれていることですので、聖書を読んでいた人なら誰にでも分かったということなのでしょうか。
聖書に書いてあることであっても、解釈が施されてはじめて正しく読まれるのであり、解釈は聖霊の導きと信仰告白によるのです。本日の朗読箇所も前後を含めて使徒ペトロの説教でありまして、聞けば預言書に書かれているとおりだと思われるほど過不足なく補われるのも聖霊の促しによるものと言えましょう。
ところで、かつてある人がイエス様から直接に「あなたはイスラエルの教師でありながら、こんなことが分からないのか」と言われたことがありました(ヨハネ3:10)。そこでは「霊から生まれたものは霊である」(同3:6)と言われており、契約の民の中に生まれ育った指導者であっても肉から生まれた者は肉に過ぎないのです。
たとえイスラエルの教師であっても「水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」わけですが、翻って異邦人である私たちでさえ神の霊によるならば新しく生れることができるのです。これもみな十字架で死なれ3日目に死人のうちよりよみがえられた主キリストが、御父から受けた聖霊を注いでくださったことによります。
預言者たちの言葉を信じて何百年も待ち続けたのに、イスラエルの人たちが目の前に来られた救い主に気づかなかったなら勿体ないことだと思いませんか。神ご自身が救いの計画を成し遂げてくださって世界中で多くの人たちがそれを受けているのですから、あなたもまたキリストを信じて聖霊によって生まれることで神の国に入ることができるのです。
3.新しい宣教の言葉
ナザレ人のイエスと一緒に生きた弟子たちに聖霊が語らせた証し、使徒教会の型となる宣教の言葉がペトロを通して語られました。宣教や告知、あるいは信仰の告白とも言える使徒たちの言葉には概ね4つの特徴を見いだすことができます。
一つはイエス様の公生涯、特に受難受苦について語られています。使徒たちやガリラヤから従って来た弟子たちは第一目撃者として直接の証言をすることができましたが、使徒言行録の筆者であるルカもまた福音書において「すべての事を初めから詳しく調べて」順序正しくキリストを証ししています(ルカ1:1-2)。
次に死んで葬られた御子を神が復活させ、その復活により神が御子をメシアとされたという確証です。ペトロをはじめとする使徒たち、また500人以上の人々(コリント一15:6)が復活した主と実際に会ったことを証言できました。
3つ目の特徴としては、ナザレ人のイエスが救い主メシアであると旧約の御言葉から証言することです。ペトロがダビデの証言として引用したように、使徒パウロもまた同じ詩編16編を用いて主の死と復活による罪の赦しを説いています(使徒13:35-39)。
そして4つ目として、聞く者すべてに対して悔い改めと信仰への勧めがなされます。悔い改めた者には洗礼が授けられ、罪の赦しと聖霊が与えられますので、使徒の時代から世の終わりまで教会は福音宣教と聖礼典を執り行うのです。
福音書から公生涯と受難、十字架と復活が示されます。新約の光に照らして旧約の言葉からキリストによる救いの計画が明らかにされます。
復活の証人である使徒と、キリストの救いを指し示す預言者とを土台として建てられた教会は、聖霊によって宣教の言葉を語ります。「主の名を呼び求める者は皆、救われる」(2:21)と悔い改めと信仰に導く使信を教会は受けたのです。
聖霊によって語られたこれらのキリストの証しが、神の霊感によって正典のうちに収められています。後の時代にただ読まれるばかりでなく、主が再び来られる日まで教会は聖霊によって語り続けます。
<結び>
「それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。」(33)
救い主メシアが世に現れて、苦しみを受けて殺されることは確かに旧約においてイスラエルに示されていたことでした。主ご自身もまた弟子たちに律法と預言者の言葉から受難を予告されたことを福音書は明かしています。
はじめに契約の民へ与えられた神の救いの計画は、聖霊によってあらゆる国の言葉で告げ知らせれることになりました。人として生まれた御子は人々から捨てられ、十字架にかかり死んで葬られましたが、父なる神はこの方を死者の中から復活させて信じるすべての者の救いとされました。
救い主キリスト自身が「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました(ヨハネ3:3)。キリストの十字架と復活による救いを世界中に告げ知らせるために語り始めた弟子たちの言葉は聖霊によって主キリストの体である教会が受けた使信であり、それを受けた一人ひとりにも委ねられています。
「神はこのイエスを復活させられたのです。わたしたちは皆、そのことの証人です。」(使徒2:32)