「教会の一致と交わり」使徒言行録2章37-47節
2023年6月11日
牧師 武石晃正
つい先ごろのことですが「六月病」という言葉を初めて耳にしました。五月病であれば患いたくないとは思いつつも見聞きに覚えもございます。
決意をもって新しい生活を始めるところまではよいのですが、それを続けていくことにはしばしば困難が伴います。信仰の歩みにおきましても、求道中の熱心さや洗礼を受けたばかりの新鮮な思いだけでは長く続けられないものです。
本日は「教会の一致と交わり」と題し、聖霊を受けたばかりのキリストの弟子たちの姿を使徒言行録より読み上げたところです。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
つい先ごろのことですが「六月病」という言葉を初めて耳にしました。五月病であれば患いたくないとは思いつつも見聞きに覚えもございます。
決意をもって新しい生活を始めるところまではよいのですが、それを続けていくことにはしばしば困難が伴います。信仰の歩みにおきましても、求道中の熱心さや洗礼を受けたばかりの新鮮な思いだけでは長く続けられないものです。
本日は「教会の一致と交わり」と題し、聖霊を受けたばかりのキリストの弟子たちの姿を使徒言行録より読み上げたところです。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.神の民の悔い改め(37-42)
キリストの昇天の後、集まって祈っていた弟子たちに神の霊が降りました。主の約束どおりに聖霊を受けた弟子たちは、様々な国と地域の言語で神の偉大な業を語りだしました。
話を聞いていたイスラエルの人々に対してペトロはキリストであるナザレ人イエスの受難と死について責任を問いました。「だから、イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが十字架につけて殺したイエスを、神は主とし、またメシアとなさったのです。」(36)
心を動かされた人々は「わたしたちはどうしたらよいのですか」(37)と求めました。これがペトロだけでなくほかの使徒たちにも向けられていることから、単なる説教への質問ではなく一人ひとりの生き方の問題であるとして各々が尋ね求めたことが分かります。
この様子はイエス様が「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8:8ほか)と説教の折に人々に告げ、近寄って来た者たちだけに説き明かされたことに重なります。開かれた説教では通り一遍のところまでしか語らずに尋ね求める者だけに説き明かすのは、実にナザレ人イエス直伝の教え方だと言えましょう。
求める人々へ向けてペトロは救いの言葉を語ります。「悔い改めなさい」との勧めは、具体的な応答としてめいめいがキリストの名によって洗礼を受けることと、それによって罪の赦しを受けることの2つの指示に結ばれます(38)。
バプテスマのヨハネが現れて以来、悔い改めを伴う水による洗礼はイスラエルの中でも行われておりました。しかしイエス・キリストの名による洗礼は水によるだけではなく、聖霊をも賜るものなのです。
洗礼を授かり賜物として聖霊を受けるので、水と霊によって生まれた者として神の国に招かれます(ヨハネ3:5)。「この約束は(中略) わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(39)と、預言者イザヤの時代から何世紀にもわたってイスラエルが待ち続けていた約束が成就したのです(イザヤ57:19)。
言い換えるならばイスラエルの人であればとっくに知らされていたことなのです。律法と預言者すなわち旧約聖書を読めば誰にでも分かることですから、使徒たちでなくとも民の長老たちであれば誰にでも語れるような内容です。
人々は「こんな話は聖書を読んだだけじゃないか、他の教師たちやイエスの受け売りに過ぎない」とないがしろに一蹴することもできたでしょう。イエス様が聖書の言葉をそのまま説いたときでさえ「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」とあしらう者がいたのも事実です(ルカ10:20)。
しかし御言葉による勧めを聞いた人々、聖霊を受けた者の言葉を受け入れた人々は悔い改めたのです。かつてガリラヤ湖畔の野辺で5000人もの人々にパンと魚を配ったことのある弟子たちは、この日だけで3000人ほどに洗礼を授けることとなりました(41)。
2.神の民の新しい生活(43-47)
話は転じて43節に「すべての人に恐れが生じた」と書かれています。ペンテコステの日の出来事としては42節で一旦区切られておりますので、ここからは後日談ということになりましょう。
恐れが「生じた」ことと不思議な業としるしが「行われていた」こととは、翻訳される前の言葉では同じ動詞が用いられています。これらが連続して繰り返されるなかで、「主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされた」(47)のでした。
ルカはここで使徒たちを中心に始まった教会の営みの原型あるいは原点を記しています。聖霊によって新しく生まれた人たちが「皆一つになって」(44)財産を共有しパンを分かち合う営みは、まさに弟子たちがイエス様とともに過ごした生活そのものです。
つまり弟子たちは主イエスが今も共におられると信じ、実際にそのように生きていたということです。主が一団の中におられるように神殿へ行って礼拝し、主がその食卓におられるように各々の家では祈りとともにパンが裂かれました。
後に教会は迫害を受けることになりますが、心を一つにして喜びと真心をもって神に仕える人々は民衆全体から好意を寄せられておりました(46-47)。もし彼らが自分たちをキリストの名で洗礼を受けたことに特権意識を感じたり、何らかの正義感を振りかざしたりしていたならば周囲との揉め事が絶えなかったことでしょう。
天の父の右に座しておられる主が共におられるのですから、すべての人に聖なる恐れが生じます。使徒たちもまた聖霊を受けたことにより、イエス様が地上におられた時と同じく不思議な業としるしを行いました。
弟子たちが3000人もの人々に洗礼を施したことは目を見張るばかりですが、ルカは日々主が救われる人々を加えてくださったことに焦点を当てています(47)。悔い改めた者は洗礼を受けて救いの恵みに与るばかりでなく、聖霊を受けて教会の交わりの中できよめの恵みに与ることができるのです。
3.神に招かれる人々(ルカ14:15-24)
パンを裂く食卓と申しますと、かつてイエス様が地上で人々の間に住まわれていた時のことを思い起します。どのような者たちが主の食卓に招かれ、加えられていたでしょうか。
神の前に招かれる者について、ルカは福音書において招かれることと神の国の食卓につくこととは別物であるとのイエス様の教えを記しています(ルカ14:15-24)。神の国の食卓のたとえ話において、招かれていた人たちは神の民であり掟において「正しい人」でした。
ところが招かれていた人たちはそれぞれにもっともらしい理由をつけて一様に断ったというのです(18)。これらの人々は神の国に入るための悔い改めを説かれても「悔い改めるのは罪人のするべきことであって、自分は正しいのだから関係ない」と考えるのでしょう。
たとえの中で僕が遣わされた先は「町の広場や路地」(21)「通りや小道」(23)です。そこは人々が行き交うばかりでなく物乞いをする人たちの場所でもありますので、行けば必ず多くの人がおります。
宴の主人は「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」を連れてくるように命じます。当時のユダヤではこれらの人々は神殿に入ることができず、主の集会や礼拝に加わるべきではないと考えられていました。
主の集会(エクレーシア)を教会と読み替えるならば、教会にふさわしくないと人の目に映るような人々を連れてくるように神様が命じておられることになります。初めに招かれていた人たちについてイエス様は「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」(24)と言われました。
イエス様が語られた時点ではイスラエルの人々の中での話ですが、福音書は教会の文脈において記されています。すなわち「あの招かれた人たち」とは先に救われて洗礼を受けたはずなのに、日々に悔い改めがない人たちであると言えましょう。
招きの言葉を聞いても様々な言い訳をして耳も心も傾けない者は「あの招かれた人たち」のうちに数えられます。翻って、見た目には神の前にふさわしくなさそうな者でも、招きに応じて罪の赦しときよめを受けるならば神の国の食卓に着くことになるのです。
幼子や小学生であれば教わった聖句の深い意味は分からないまでも、言葉どおりに暗唱することは大人たちよりも長けています。年を重ねるごとに新しく御言葉を受け入れることがどんどん難しくなって参ります。
言葉を水にたとえるなら、子どもたちはきよい言葉もきよくない言葉もバケツやボウルのように蓄えます。教会は主の御言葉を注ぐことで子どもたちをきよく育みます。
もし水を溜めることができないザルのようなものであっても、清い水の注ぎを受け続けていれば清く保つことはできるものです。主は「あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも」神の国の食卓へ招かれた上で、悔い改める者には聖霊によってきよめの恵みを賜るのです。
<結び>
「あなたたちは聖なる者となりなさい。あなたたちの神、主であるわたしは聖なる者である。」(レビ記19:2)
水による洗礼と罪の赦しを受けただけでは生まれたばかりの赤子と同じです。聖霊すなわち神の息によって産声を上げ、神の家族に加えられて神の子どもとして成長します。
そして教会は祈りを共にし、パンを裂くことで主キリストが今も生きておられることを世に示します。福音を正しく宣べ伝える教会は、バプテスマによって新生を、パンと杯によって罪のきよめと主の再臨とを証しするのです。
救い主でありきよめ主である主キリストによって、悔い改めたすべての人をきよめの恵みへと招かれます。教会の一致と交わりの中に聖霊が働かれ、招かれたすべての人が救いときよめを受けるのです。
「こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである。」(使徒2:47)