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「見失った羊を見つけ出す」使徒言行録8章26-40節

2023年6月25日
牧師 武石晃正

 1942年6月26日はホーリネス系の教会に対して治安維持法違反による一斉検挙が行われた日です。教師たちは逮捕され、文部省より命令を受けた日本基督教団からの強要により、ホーリネス系教会の教師は「自発的に」辞任願を提出しました。
 また教会も解散を強制され、「ホーリネス弾圧事件」において多くの個人・家族・教会が苦しみを受けたました。ホーリネスの群では毎年この時期に、信教の自由と政教分離の大切さを覚える弾圧記念聖会を行います(今年は本日6/25午後)。

 思えばバプテスマのヨハネも、主イエス・キリストご自身も迫害と弾圧の中で神の国の到来と悔い改めを説きました。神の霊を受けて産声を上げた教会もまた、困難を通して押し出されながらイエス・キリストの福音を伝え広めたことです。
 本日は「見失った羊を見つけ出す」と題して使徒言行録より読み進めつつ、主が再び来られるまで続く教会の使命について思い巡らせてみましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)



1.エルサレムからユダヤとサマリアの全土への宣教
 ペンテコステにおいて天より聖霊が降り使徒たちをはじめとするキリストの弟子たちに臨みました。あらゆる国と地域のことばでナザレの人イエスと神の偉大な業を語りだしたばかりでなく、イエスと同じように語り同じように病人をいやした弟子たちは、大祭司やサドカイ派の人たちからあからさまにねたみをかうようになりました(5:17)。
 日に3000人また5000人も加わるようになると各地各国の言葉を母語とする人たちも増えました。ユダヤの言葉ではなくローマ帝国の共通語であるギリシア語を話す弟子たちが増えると、ガリラヤ出身の使徒たちとは別に7人の指導者たちが選ばれました。

 その一人がステファノで、彼もまた使徒ペトロのように聖霊に満たされて、ユダヤの指導者たちの圧力に対して立ち上がりました(7章)。創世記から始めてダビデと預言者たちまでを聖書からまっすぐ語るステファノの説教を記すことで、使徒言行録の筆者であるルカは読み手に対してイスラエルの神の契約と律法の概要をまとめて提供しています。
 ステファノが大祭司らに向けて「天使たちを通して律法を受けた者なのに、それを守りませんでした」(7:53)と神への背きを指摘したので、人々は激しく怒って殺意をあらわにしました。死を覚悟したステファノが「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言うや否や、人々は彼を都の外へ連れ出して石で打ち殺したのです(同57-60)。

 最初の殉教者が出ました。するとこの事件を機にエルサレムでは教会に対して非常に厳しい迫害が起こりました(8:1)。
 ガリラヤの一派とはまた別に興った新勢力と見なされたのか、主にギリシア語を話す人々が迫害によってエルサレムから散らされました。当時ユダヤ人はサマリア人と付き合いをしないのですが(ヨハネ4:9)、やむを得ずサマリアへと逃れた者たちもおりました。

 サマリアへ福音を伝えに出て行ったのは、殉教したステファノの同僚であるフィリポです(8:5)。大迫害が起こらなければ弟子たちはエルサレムを中心に活動し、遠くてもガリラヤとの間を行き来する範囲に限られたことでしょう。
 迫害によって散らされたキリストの弟子たちは主が天に昇られる前に命じられたように「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で」(1:8)ナザレの人イエスの証人となりました。使徒や7人の指導者たちが計画したことではなく、急に襲い掛かった大迫害によって散らされた信徒たちが至るところでキリストを証しするようになったのです。


2.地の果てに至るまでの出発
 朗読の箇所は先のフィリポがサマリアからエルサレムへ戻ったと思いきや、天使の命により今度はガザへ下る道へと遣わされたことから始まります(8:26)。宣教の目的地はカイサリアであるには違いないようですが、より多くの地域へ福音を伝えるために地中海沿いの街道を南のはずれから北上する道順が示されたようです(40)。
 「寂しい道」とは荒れ野の中を通る道を意味するでしょう。気候の上で荒れて寂れた土地であるばかりでなく、盗賊や追いはぎが出没するような危険な道です。

 「すぐ出かけて行った」(27)のは、面倒事に巻き込まれる前にできるだけ早く歩みを進めたかったからでしょう。ところが行く手には馬車の影が見え隠れしていたのです。
 当時のパレスチナでは馬に牽かせる車といえば軍隊か王室の乗り物ですから、見知らぬ者が不用意に近づけば警護の者が剣や槍で討つことでしょう。様子を見ながらつかず離れずのところを歩いていても、怪しい者と見なされる危険がフィリポには伴うのです。

 馬車にはエチオピアの女王に仕える宦官が乗っていました。彼は使命を果たして帰路についたのに、何ともやるせない思いを抱えながら聖書の写しを広げています。
 彼は先進国エチオピアの女王の側近であるにも関わらず、小国ユダヤでは神殿への立ち入りを断られるという扱いを受けました(申23:2)。宦官ですので「異邦人の庭」と呼ばれる境内の外庭にさえ入ることが許されなかったことでしょう。

 実際には見ることができなかった羊の屠り場を思いつつ、エチオピアの宦官はイザヤ書を読んでいたわけです。「卑しめられて、その裁きも行われなかった」(33)とは境内に入ること拒まれ、取り合ってももらえなかった彼自身の惨めさにも重なります。
 せっかく手にした聖書であるのに、いくら読んでも心に入ってこないので一層むなしくなるのです。あたりの光景と同じく、その心は寂しくなるばかり。

 そこへ一人の見知らぬ男が走り寄り、「読んでいることがお分かりになりますか」(30)と呼びかけたのです。異邦人の家を訪れることをしないはずのユダヤ人が、しかもエチオピア人の彼にも分かる言葉で語り掛けてきたのです。
 驚きと嬉しさから口を突いて出た「手引きしてくれる人がなければ、どうして分かりましょう」(31)とは反語による受け答えですので、「ぜひとも分かるように手引きをしてくれたまえ」と読み替えることができましょう。身分が違いますので馬車の脇を歩かなければならないところですが、なんとフィリポは招かれるまま王族の馬車に乗せられたのです。

 聖書は手にしようと思えば今の日本であれば誰でも読むことができますし、使徒たちの時代でもお金さえあれば異邦人でも写しの巻物を求めることができました。手に取ることはできても「どうぞ教えてください」と求めた者にだけ手引きが与えらるのです。
 宦官が独りで悶々としながらイザヤ書の写しを読んでいたときは、周りも心の中も寂しい荒れ野でした。ところがフィリポの手引きによって読まれた箇所から説き起こされたイエス・キリストの福音を聞いているうちに、急にあたりの景色がパッと開けたように見えました。

 なんと折しも水辺に通りかかったのです。「ここに水があります。洗礼を受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」(36)
 二人が水から上がると、聖霊がフィリポを本来の働きのために道を急がせました(39)。主はエルサレム神殿において見失われた羊のようになったこのエチオピア人を救うために、迫害の中にあってフィリポを選んで遣わされたのです。


3.世の終わりまで
 復活した主イエスは使徒たちを呼び集めた際に「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16:15)と命じた上で、「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束されました。すなわち地の果てに至るまでくまなくイエス・キリストの福音が宣べ伝えられ、行き渡ったところで世の終わりを迎えるように響きます。
 イエス様が地上におられた頃、徴税人や罪人と呼ばれる人たちを迎えて食事を共にし、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(ルカ15:7)とおっしゃいました。喜びは天にあるのですから、終わりの日に来られる主とともに地上へもたらされるでしょう。

 使徒たちが考え及ぶ全世界とは当時のローマ帝国の支配下にエジプトやエチオピアを加えた範囲か、パウロが見据えた到達点のイスパニアまででした(ローマ15:24)。実際の全世界とは使徒たちが考えていたよりもはるかに広く、それから2000年も経とうと言うのにイエス・キリストの福音が未だに届いていない地域や民族が残されています。
 世の終わりまでかかる宣教の働きには困難や迫害が伴います。「いつもあなたがたと共にいる」という主イエスの約束の上に立つ者は、使徒たちが希望を抱いたように主の再臨の日に光栄と誉れを受けるのです(ペトロ一1: 7)。


<結び>
 「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。」(ローマ5:3-4)

 エルサレムから始まった迫害が教会をユダヤとサマリアの全土へと送り出すことになりました。フィリポにしても困難なガザへの道へ送り出されてみるまでは、エチオピアの女王の家臣へキリストの福音を伝えることになろうとは思わなかったことでしょう。
 神の民を自負する人たちの既得権を守るために救われるべき罪人たちが排除され、異邦人もまた見失われた羊となってしまいました。教会もまた既存の価値観にとらわれてしまうならば、悔い改める一人の罪人を見失った羊にしまうことが起こり得ます。

 主キリストが世の終わりまで共におられるのですから、迫害や弾圧をくぐった教会は主が再び来られる時まで福音を宣べ伝え、見失った羊を見つけ出すのです。

「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」(ルカ15:10)

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