「異邦人をも救う方」使徒言行録11章1-18節
2023年7月2日
牧師 武石晃正
皆さんはどのような招きの言葉をいただいてイエス・キリストと出会ったでしょうか。「信じる者は救われる」「あなたも家族も救われる」など短い一言が心に残り、決心に至ったという方もおありでしょう。
聖書を旧約の創世記から一つ一つ理解しなければ救われないとすれば、教会に初めて足を運んでから40年も経とうという者でも未だに信仰をいただくに至らなかったように思われます。今週はどのように自分が救いに招かれたのかを思い返しながら、「異邦人をも救う方」と題して使徒言行録を中心にキリストの福音を考えることができれば幸いです。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
皆さんはどのような招きの言葉をいただいてイエス・キリストと出会ったでしょうか。「信じる者は救われる」「あなたも家族も救われる」など短い一言が心に残り、決心に至ったという方もおありでしょう。
聖書を旧約の創世記から一つ一つ理解しなければ救われないとすれば、教会に初めて足を運んでから40年も経とうという者でも未だに信仰をいただくに至らなかったように思われます。今週はどのように自分が救いに招かれたのかを思い返しながら、「異邦人をも救う方」と題して使徒言行録を中心にキリストの福音を考えることができれば幸いです。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.イスラエルの中で広がり始めた福音
キリストと呼ばれる救い主メシアとは、もともとはイスラエルを救う王である祭司、また預言者です。王、祭司、預言者は神の名によって任職される際に油の注ぎを受けますので、ユダヤの言葉で「油を注がれた者」を意味するメシアと呼ばれます。
福音書におけるナザレの人イエスの活動はごく一部を除いてユダヤとガリラヤの地域であり、その宣教もイスラエルの契約の中でもっぱらユダヤ人の間で行われました。使徒言行録や各書簡の光に照らされることで、律法と預言者を成就するために来られた救い主メシアが実は異邦人をも救う方であるのだと明らかにされます。
それでもペンテコステの日に聖霊に満たされた者たちが各地各国の言葉を話し始めたとはいえ、その日それを聞いていた人たちは外国人ではなく各地へ散って住んでいたイスラエルの人たちでした。
先に与えられていたイスラエルの契約が大前提であり、キリスト自身もそれを廃棄するためではなく成就するために来たと述べています。従って使徒たちが異邦人について、律法の規定に従ってユダヤの教えに改修した者だけが救われると考えたのは自然なことです。
ですからペトロをはじめ使徒たちが癒しのわざを行ったのも、当初は彼らの主が言いつけたとおり「イスラエルの失われた羊」のところだけでした。それで今日の箇所では「異邦人も神の言葉を受け入れたことを耳にした」(1)と雲行きが怪しくなるのです。
さてエルサレムから地中海沿いの街道を目指して西へ向かいますとエマオを過ぎた先にリダという町がありました。そこにはアイネアという人が住んでおり(9:33)、彼は後に教会にとって大切な働きを担ったのでその名が知られたのでしょう。
当時のイスラエルでは北部ガリラヤ地方と南部ユダヤ地方はサマリアによって隔てられており、行き来をするには東にあるヨルダン川沿いの街道を迂回しておりました。8年前から病にかかっていたアイネアが未だに癒されていなかったことを見ますと、イエス様と一行はリダやヤッファのほうまでは足を運ぶことができなかったことが伺われます。
リダの町にもナザレの人イエスの名だけは伝わっていたでしょうけれど、エルサレムで処刑されてしまったとの噂も聞こえてきます。ところがその弟子だというペトロがイエス・キリストの名によってアイネアを癒したので、これは本物であると海辺の町ヤッファに至るこの地域一帯に知れ渡りました。
2.異邦人に及ぶキリストの救い
ヤッファへ招かれたペトロがそこでもまたイエス様と同じ奇跡を行いました(9:40、ルカ8:54)。それまでイエス・キリストの福音が伝わっていなかった地域にでもようやく「見失った羊」たちが見つけ出され、多くの人々が主を信じました。
しばらくヤッファに滞在していたペトロは、ある日の午前中の祈りを終えると急に幻を見ました(11:5)。10章にその出来事が記されていますが、ルカが「事の次第を順序正しく説明し始めた」と前置きしているペトロの証言からたどって参りましょう。
主はペトロに天から四隅を吊った大きな布の幻を見せました。その布の中には律法で戒められている食べてはならない動物「清くない物、汚れた物」ばかり入っていました(6)。
レビ記11章ではタヌキや野ウサギ、イノシシ(中国語では猪肉と書いてブタ肉の意)のほか爬虫類などが食用として禁じられており、更にペトロたちの年代には細かな掟も加えられていたでしょう。「屠って食べなさい」と主のお声があっても食べる気になれず、ペトロは丁重に断るわけです(8)。
すると「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と押し問答、ペトロはまたしても3度否むことになってしまいました。実はこの幻はカイサリアにいたローマの百人隊長の家へペトロを遣わそうと主がお示しになったものでした (11)。
ユダヤの人たちは異邦人を家に招いたり招かれたりすることは身を汚すことになると考えたようで、清くない動物を屠って口にするのと同じぐらいに忌み嫌っておりました。ですがペトロは聖霊の語り掛けでもなければありえないような決断を迫られ、ついにカイサリアから来た3人の異邦人を滞在先の家に迎えたのです(11)。
そればかりかペトロ自身がカイサリアまで出向くや異邦人の家に入ったというのですから、このことは確実に律法に対する違反であります。それで報告を受けたエルサレムの弟子たちは憤慨して、「あなたは割礼を受けていない者たちのところへ行き、一緒に食事をした」と厳しく非難したという次第です(3)。
聖霊の助けをいただいたペトロが異邦人たちの証言に耳を傾けると、彼らは異邦人でありながらも信仰があつく神を畏れる人たちでした(10:21)。しかも主の天使から「あなたと家族の者すべてを救う言葉をあなたに話してくれる」(14)との御告げたというのです。
主の約束を信じて待ち続けた異邦人へイエス・キリストの福音が告げられました。するとまだペトロが話をしている最中にも関わらずペンテコステの日のように「御言葉を聞いている一同の上に聖霊が降った」のです(10:44)。
そうなるとペトロ自身はもちろん彼から報告を受けたエルサレムの弟子たちも聖霊の働きを妨げることができなくなります。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」(10:34)との確信はペトロだけでなく教会の人々にも分け与えられました。
疑心暗鬼になっていた人たちも心穏やかになり、「それでは、神は異邦人をも悔い改めさせ、命を与えてくださったのだ」(11:18)と異邦人をも救われる方をほめたたえました。それまではユダヤの掟によって改宗しなければ弟子なることができなかった教会でしたが、いよいよ「異邦人」が救われる道へと開かれたのです。
3.神を賛美したサマリア人
かつてイエス様が地上におられた時の話です。主は異邦人の家を訪れることこそなさいませんでしたが、その家に入らずとも病気で死にかかっていた人をお言葉ひとつで癒されたということがありました(ルカ7章)。
また別の機会にはユダヤの人々が異邦人と同じぐらいに付き合いを退けていたサマリア人をも主はお癒しになりました(ルカ17:11-19)。その日、既定の病とも訳される重い皮膚病を患っていた10人がイエス様に癒していただきましたが、一人だけ大声で神を賛美しながらイエス様の元へ戻ってきたというのです。
彼は「イスラエルの失われた羊」ではなくこともあろうにサマリア人だったのです。他の9人は自分がきよめられたことを祭司に見せるために立ち去ったきりでした。
神の救いの恵みが現わされたのに、自分たちの掟や慣わしを守ることを優先してしまった人たちがいました。重い皮膚病を癒された神の民は祈りが聞かれて自分の信仰を喜んだのかもしれませんが、たった一人この異邦人だけが神を賛美する様子をご覧になり主はどのようなお気持ちだったことでしょう。
信仰深く善良であったので神様は私たちを選んで救ってくださったのでしょうか。そもそも私たちはいくら善良であっても異邦人に過ぎず、信仰深く施しを惜しまない者だとしても神の民とは数えていただけない存在だったことを覚えます。
それでも主は憐れみによって私たちを清めてくださいました。キリストは神を賛美するために戻って来た者がたとえ異邦人であっても「あなたの信仰があなたを救った」(同19)と受け入れてくださる救い主です。
<結び>
「彼らはイスラエルの民です。神の子としての身分、栄光、契約、律法、礼拝、約束は彼らのものです。先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。」(ローマ9:4-5)
使徒パウロは異邦人の使徒としての使命を受けてローマ世界へ広くキリストの福音を宣べ伝えた人ですが、自らが神から見捨てられようとも肉による同朋イスラエルが救われることを悲願としました。私たち異邦人はかつて「わが民ではない者」(ホセア2:1)と呼ばれる者でしたが、今は憐れみを受けて神の民とされることができるようになったのです。
すべての罪を背負って十字架に架かり、死んで3日目によみがえられたイエス・キリストを信じる者はだれでもその名によって罪の赦しを受けられます。独り子である神ナザレの人イエスただお一人が、私たちのような異邦人をも救う方なのです。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。」(エフェソ2:8)