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「生き返った若者」使徒言行録20章7-16節

2023年7月9日
牧師 武石晃正

 聖書の読み方にもいろいろありまして、その時に開いた箇所から心に残った一節を胸に抱いて一日また一週間の支えとするということもあります。あるいは福音書であればイエスと弟子たち、イエスとユダヤの人たちの問答の中に自分の身を置いてみて、果たしてどちらの受け答えをするだろうかと主にお会いする備えをすることもありましょう。
 イエス様ならどのようにご覧になるだろうかと、聖書を読む中で物事について神の国の価値観や見え方を考えさせられることもあります。使徒たちの時代もイエス様に直接はお聞きできないので、教会は聖霊の助けをいただきながら御言葉によって歩みました。

 本日は使徒言行録の中でもパウロの第3次伝道旅行の中から、朗読箇所の前半部分を中心に「生き返った若者」と題して主の恵みに与りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.使徒パウロの福音宣教
 使徒言行録は序盤にエルサレムで起こった聖霊降臨と教会への迫害が記されておりますが、迫害の中心にいた人物が主キリストに出会ったところから話の流れが一変します。迫害者サウロが悔い改め、キリストの使徒パウロとされました。
 エルサレムからダマスコへと教会を迫害するために向かう途上においてサウロは主に打たれ、目が見えなくなって地面に倒れました(9:4-5)。そこで彼は「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と主の声を聞いたのです。

 天からの声に従ってダマスコへ連れて行かれたサウロは目が見えないまま断食をして3日を過ごしました。その後アナニアというキリストの弟子に導かれたサウロはそこで回心したものの、教会を激しく迫害したという事実が消えるわけもなく、教会の人々に広く受け入れられるようになるまでには相当の期間を必要としたようです。
 もとはラビと呼ばれるユダヤの教師であるパウロは、キリキア州のタルソ出身でありながらもエルサレムに上ってはガマリエル(使徒5:34)のもとで律法について厳しい教育を受けた名門です(22:3)。ですから教会を迫害するほどまで熱心に律法を追及し、預言者が指し示した神の国と救い主メシアの到来をひたすらに待ち望んでいたのです。

 そこまで熱望していたメシアすなわちキリストがナザレの人イエスであると知ってどれほど驚いたことでしょう。彼自身が「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよい」(ローマ9:3)と思うほどまでに「兄弟たち、つまり肉による同胞」イスラエルの救いを願うようになりました。
 「異邦人のための使徒」(ローマ11:13)と知られるパウロですが、第2次宣教旅行で「今後、わたしは異邦人の方へ行く」(使徒18:6)と宣言するまではユダヤの会堂を中心にイエス・キリストの福音を伝えていました。更に宣教を進めるにあたって当時の世界の中心であるローマまで向かう使命を抱いたのも(19:21)、全世界に離散している同朋イスラエルへ約束の救い主メシアの到来を伝えたい一心だったでしょう。

 先へ進みたいと願う一方で、ある都市では長く滞在することが余儀なくされました。パウロにしては珍しくコリントでは1年6か月(18:1)、エフェソでは2年 (19:10)と長く滞在したことにより、ユダヤ人ばかりでなく異邦人も主の言葉を聞くことになりました。
 大迫害者サウロはキリストの使徒パウロとして世界へと遣わされ、一旦エルサレムに戻ってからローマを目指したいところです。ところがエフェソでは町を挙げての騒動に巻き込まれ(19:21以下)、またギリシアでは3か月(20:3)も滞在を余儀なくされました。

 思うように歩みを進めることができずにじれったいパウロの心境を、ルカはフィリピからトロアスまで5日、更に7日間とさらに細かく日数を刻んで記しています(20:6)。先を急ぎたいパウロの気持ちとは裏腹に、人々としてはできるだけ長く引き留めて神の国の言葉を聞きたいと願ったことでしょう。


2.生き返った若者
 旅路を急ぐパウロには心強い同行者がおりました。使徒言行録の中で「わたしたち」と記されている箇所は筆者であるルカ自身がその場にいたことを示しています。
 朗読いたしました箇所も安息日に「わたしたちが」パンを裂くために集まっていたとありますので、その場にいた者だけが知り得た情報を筆者は書き記しています。例えば「階上の部屋」が2階ではなく3階であること、そしてその広間が明るかったのは「たくさんのともし火がついていた」ためであるということです。

 さて使徒たちをはじめとする当初の弟子たちの間で「パンを裂く」と言われているとき、それは単に食事を分け合ったというだけでなく特別な意味がありました。杯について触れられておりませんので直接には聖餐式に結び付けるのは難しいかも知れませんが、少なくとも主キリストが祝福をもって裂かれたパンを記念したものであります。
 迫害が厳しくなる時代において一つのパンを裂いて分け合うことは、儀式という価値ばかりでなくむしろ弟子たちの結びつきを確かにしたことです。エルサレムへ向かうことはパウロにとって命の危険を伴いますから、別れを惜しんでパンを裂いたでしょう。

 ここでエウティコという青年が突然に登場し、こともあろうか窓に腰かけたまま居眠りをしてしまったというのです(9)。もしあなたがこの場にいてパウロの話を聞く人たちの一人だったなら、窓辺で居眠りしている青年を見てどのように感じたでしょうか。
 「夜中なのだから誰だって眠いのに、自分ひとりが疲れているような顔をしている」「長老たちでさえ遅くまで励んでいるのだから若い人にはもっとしっかりしてほしい」という声も聞こえてきそうです。「パウロ先生とお会いできるのはこれが最後かもしれないというのに、居眠りするなどとんでもない」といったお叱りの声もありましょう。

 この青年が何者であるのかルカは記しておりませんから、聖書の読者である私たちはだれも彼のことを知らないのです。知らないからといってエウティコがこの日は何もせずに居眠りばかりしていたと決めつける人もいるでしょうし、あるいは彼がなぜこの時間になってわざわざ3階の部屋の窓に腰かけていたのかに気づく人もいるでしょう。
 出来事の中心人物はパウロでありますから、彼を通して現わされた主イエスの恵みに焦点が当てられます。しかし他方でルカは読者の目線をさりげなく誘導し、聖書は後の時代の教会とくに年長者に対して若者をどのように扱っているのかと問いているようです。

 踏み込んで読み解いて参りますと、この日は週の初めの日としてパンを裂くために人々が集まるばかりでなくパウロを見送るために訪れる人たちの出入りが多かったでしょう。そして普段であれば客人らも遅くとも夕食までで帰っていくとしても、この日は図らずもパウロの話が長引いたので階上の部屋にはいつまでも人々が集まっています。
 「たくさんのともし火がついていた」(8)のでその部屋は夜中でも明るく、時が過ぎるのを忘れてしまったのは無理のないことです。途中で火が消えたならば大騒ぎですが、パウロが話を中断することがないように絶えず「ともし火」の見張っていた忠実な人をルカは窓辺に示します。

 そしてここは2階ではなく3階であり、ともし火の油のことに限らず彼は来客のために幾度と昇り降りしたことでしょうか。窓に腰かけていたところまでは良かったものの、とうとう「ひどく眠気を催し、眠りこけて三階から下に落ちてしまった」(9)のです。
 「起こしてみると、もう死んでいた」(9)との衝撃は、死人が出たことで家にいる者がみな汚れるというユダヤの掟に深く関係します(民数19:11)。5日、7日と日を刻むように先を急いている旅の途中にあって、パウロと一行は死者に関するきよめという7日間の足止めを受けてしまうからです。

 騒ぐ人々の中から「大けがならまだしも死ぬなんて」「明日出発できなくなるじゃないか」と聞こえてきそうです。ところが死体に触れれば確実に汚れると知りつつも若者の上に身をかがめたパウロの姿は (10)、実にイスラエルの預言者エリヤ(列王上17:21)あるいはエリシャ(列王下4:34)そのものです。
 「騒ぐな」とパウロのひと言は居合わせた人々ばかりでなく、聖書を通して読者にも向けられます。なぜこの若者はわざわざ3階の窓で眠りこけなければならなかったか、誰のためにへとへとになるまで働いていたのかと、ルカが行間から問いかけているようです。

 「まだ生きている」を直訳すれば「彼の命は彼の中にある」、すなわち死んだ肉体が生命を取り戻したことを意味します。もう大丈夫と上階へ戻ったパウロは改めてパンを裂き、一同は復活の主イエス・キリストが共におられることを味わい知ったのです。
 夜明けまで話し続けたパウロは予定通り翌朝に出発しました(11)。13節以下にエルサレムへ向かう行程が手短にまとめられておりますが、これは順風満帆で平穏な旅であったのではなく殉教を覚悟したパウロの固い決意であると後の記事から分かります。


<結び>
 「そして、また上に行って、パンを裂いて食べ、夜明けまで長い間話し続けてから出発した。人々は生き返った青年を連れて帰り、大いに慰められた。」(20:11-12)

 主イエスが地上におられた時、病人たちが癒されたばかりでなく死んだ者が生き返らせていただきました(ルカ7:11-16)。「女たちは、死んだ身内を生き返らせてもらいました」(ヘブライ11:35)と証しされているとおり、生命の回復があるところには神が共におられることが示されます。
 改めてパンを裂くことによってパウロたちはキリストが共におられることを確かめ合いました。エウティコが生命の回復を得たことによって、主イエス・キリストが今も生きて働かれることを教会は確証したのです。

 復活の主がおられるところには生命の回復があり、生き返った若者を通して主は人々に希望と慰めとをお与えになりました。現代の教会には若者を生かす力があるでしょうか。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。」(ヨハネ11:25)

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