「あなたの信仰があなたを救った」ルカによる福音書7章36-50節
2023年7月16日
牧師 武石晃正
教会での信仰生活が長くなりますと、いつも必ずとまでは言えなくともイエス様が共におられることを感じる場面が増えてくるように思われます。言葉で説明できないながらも、神様の御腕で守られているのだと不思議な確信を抱くこともございましょう。
神の子とされたことの確信が強められる一方で、経験則が増えてくると「今まではこのようにやってきた」「これまでは問題なくやってこられた」という既得権や慣れのような意識が積み重なることもあります。信仰とは何か、神の前に死ぬべき人間が救われるほどの信仰とはいかなるものだと思わされます。
本日はルカによる福音書においてある人の救いの記事を開きまして、「あなたの信仰があなたを救った」と題して思いめぐらせて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
教会での信仰生活が長くなりますと、いつも必ずとまでは言えなくともイエス様が共におられることを感じる場面が増えてくるように思われます。言葉で説明できないながらも、神様の御腕で守られているのだと不思議な確信を抱くこともございましょう。
神の子とされたことの確信が強められる一方で、経験則が増えてくると「今まではこのようにやってきた」「これまでは問題なくやってこられた」という既得権や慣れのような意識が積み重なることもあります。信仰とは何か、神の前に死ぬべき人間が救われるほどの信仰とはいかなるものだと思わされます。
本日はルカによる福音書においてある人の救いの記事を開きまして、「あなたの信仰があなたを救った」と題して思いめぐらせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.あるファリサイ派の人の食卓
イエス・キリストの宣教の初期、ガリラヤ地方での出来事です。この箇所には香油を携えてやってきた女性が登場することから、しばしばベタニアでナルドの香油がイエス様の頭に注がれた出来事と混同されやすいようです。
また「罪深い女」をマグダラのマリアと同一視されることもあるようですが、せっかくルカがこの女性の名誉を守るべく名を伏せているのに直後の記事で明かすということは不自然です。いずれにしても意味深長な個所ですので憶測に絶えないことでしょう。
朗読の箇所はガリラヤ地方でナザレの人イエスの名が知られ始めた頃のことで、ユダヤの指導者たちもまだこの時点では捕えようとするほどは厳しくなかったようです。圧力をかけたり様子見したりを重ねながら、神の人であるかどうか判断しかねていた頃合いです。
ユダヤの教えに厳格だったファリサイ派の人で、シモンという男がおりました(36)。ユダヤのしきたりでは同朋やラビと呼ばれる教師を家に招くことは名誉の義務でしたので、彼はイエス様を招くことで自分が「正しい人」であることを示したかったのでしょう。
客人を家に招いて食事のもてなしをするのは立派なことであり、周りの人々から「正しい人」と見られる行いです。そして律法は貧しい者たちへ手を広げることを教えていますら、施しを求める人々が自由に出入りできるよう戸口が開放されていました。
食事をする場所は日本でいう小上がりのような造りになっており、横たわって食事をするのが常でした。左ひじを下にして横たわり、足は土間のほうへ投げ出す格好です。
庶民が靴を履くという習慣がない時代ですので、裸足か良くてもサンダル履きで歩いておりました。ですから客人が食事のために横たわっておりますと、腰に手拭いをまとわらせた召使や使用人がやってきて汚れている足を洗うのです。
ところが食事の間へ入って来たのは召使でも施しを求める人でもなく、この町にいた一人の罪深い女でした(37)。直訳では「見よ、その町で罪深い者である女」と記されており、その場に似つかわしくない人物の登場に人々が驚いた有様です。
「罪深い」と訳された語について「ふしだらな生活をする者」という解釈もなされます。誰が見てもそれと分かるであろう独特の雰囲気を漂わせるその女性は、入ってくるなりイエス様の足元にすがると涙ながらに御足を洗い始めました(38)。
涙だけで足をきれいにするのは難しいと思われますので、泣きじゃくりながら主の御足を洗ううちにあふれる涙がボロボロとこぼれ落ちたということでしょう。するとこともあろうか彼女は自分の髪の毛で汚れた足を拭ったというのです。
横たわっている男性の足元に長い髪を解いた女性が覆いかぶさるように身をかがめています。それも街角で男性を魅了するような女性でありますから、同席した者たちは目のやり場にも困りまったことしょう。
「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ」(39)とのシモンの心の声はすなわち、「預言者なのだから自分が何をされているのか分別ぐらいあるだろうに」という苦言です。この女性が来ることを知っていたかどうかは不明ですが、シモンは食事に招くことによってナザレの人イエスの人物を見ようとしたのです。
しかしイエス様はこの「一人の罪深い女」が誰であるのか本当の意味を知っておられたので、逆にシモンへ金貸しのたとえをもって問いかけました。「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」(43)と受け答えの上では正しくとも、果たしてシモンの胸の内はいかほどだったでしょうか。
教師を招いておきながら人物を見ようなどという者に対し、主は彼の無礼な有様を指摘した上で「赦されることの少ない者は、愛することも少ない」(47)と言い切られました。このような信仰があなたを救うことができるのか、と聖霊は聖書を通して教会と読者に問われます。
人目にさらされて惨めな思いをすることも覚悟のうえで御足にすがった女性がおりました。主は彼女に向き直り、「あなたの罪は赦された」と慰めの言葉をくださいました(48)。
2.髪の毛でイエスの足をぬぐった信仰
この話は自己犠牲的な善行をすれば罪を赦していただけるという教えなのでしょうか。なぜイエス様はこの「罪深い女」に信仰を認め、「あなたの罪は赦された」と言われたのしょうか。
何のためにわざわざファリサイ派の人の家に入ってまでイエス様のもとへやって来たのか、彼女の所作から探ってみましょう。まず彼女が携えてきた「香油の入った石膏の壺」ですが、同時のパレスチナでは香油には大きく分けて2つの種類があったそうです。
一つはイエス様が十字架に架かられる数日前に注がれた「ナルドの香油」(ヨハネ12:3)のように東方やインドから輸入されたもので、非常に高価な上に香りが重厚なものでした。もう一つの種類はユリやジャスミン、バラなどから抽出した華やかな香りのもので、これらを扱う香料屋の最大の顧客はふしだらな生活の女だったと言われています。
自慢の長い髪をまとめ上げて華やかな香りを漂わせれば、言葉をかけずとも街角で男性のほうから近寄って来るというものでしょう。したがって「罪深い女」と呼ばれた彼女にとって長くて美しい髪は単に女性としての誉れ(コリント一11:14-15)であるだけでなく、香油と併せて生きていくために欠かすことができない切り札でした。
彼女が涙で濡らしたイエス様の足はガリラヤの乾いた土埃にまみれておりました。通りには人や荷物を運ぶためにロバやウシなどの家畜が行き来していますから、舗装もままならない道端にはそれらの「落とし物」が垂れ流されています。
濡らした足を髪の毛でぬぐったことにより、家畜の糞尿もまた泥と一緒に彼女の髪に染み付くでしょう。これまでの生き方が罪に汚れたものでああり、その罪をすべて赦してくださった方に全てを尽くしたいという一心です。
こんな生き方から抜け出したいと願っても、町の人々ましてファリサイ派の人たちは「罪深い女」に耳を傾けることさえなかったのでしょう。しかしナザレの人イエスは徴税人や罪人たちをも受け入れて、罪を赦してきよめてくださると彼女は信じたのです。
汚れた髪は洗えばきれいになるとしても、もうその髪に香油をつけて街角に立つような生き方にこの女性が戻ることはないのです。その誓いをもって彼女は主の御足に信愛の接吻をし、石膏の壺の香油を注ぎました。
他方で自分からイエス様を招いておきながら「わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかった」(44)と言われた者がおりました。ユダヤ人同士の信愛の証しである「接吻の挨拶もしなかった」ばかりか、日射と乾燥を和らげるための「オリーブ油を塗ってくれなかった」ような憐れみに欠いた者です。
旧約聖書には「わたしが喜ぶのは/愛であっていけにえではなく/神を知ることであって/焼き尽くす献げ物ではない」(ホセア6:6)という言葉があります。イエス様が「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(47)とおっしゃるとおり、この女性はいけにえではなく精一杯の愛を主にささげたのです。
「あなたの罪は赦された」(48)と言われている罪は複数形、多くの罪を示します。完了の時制が用いられておりますから、彼女はここに来る前に既にイエス様を信じて罪を赦されていたことを意味します。
キリストが罪のない方であるのに身代わりとなって死んでくださり、私たちすべての人の多くの罪を赦してくださいました。命をかけて救ってくださった方の御前にあって「赦されることの少ない者」ではなく多くの罪を赦された者となりましょう。
<結び>
「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)
立派な生き方をしていると思っていたファリサイ派のシモンは、教師であるイエス様を値踏みしようと食事に招きました。出迎えもおろそかで足を洗う水も用意せず、イエス様の出方を伺うような憐れみのない者でした。
自分の罪深さに気づき「もうこんな生き方なんてやめて新しい人生を始めたい」「救ってくださるのはこの方だけだ」とイエス様への信仰によって悔い改めた女性は、すべてを捨てて主の前に大きな愛を示ししました。「あなたの信仰があなたを救った」と言われる信仰は、十字架に架かって流された主イエスの血潮に見合った愛と憐れみです。
「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(ルカ7:50)