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待望

2017年02月12日
川崎 献一師
創世記18:1~15

神は、想定外の方法で人類に本当の幸せを与える方です。100%アナログ文化の聖書の話でも、デジタル文化の現代にも必要な御言葉を与えられます。聖書のメッセージは、時代も文化も超える力があります。便利な社会こそが人間の幸せに必要なのではありません。便利になったからといって、この世に問題がないということは有り得ないことは現代人でもわかっています。アナログの時代は、何事も手間暇かけることこそ、心がこもって素晴らしい、そこに価値があると思う人々もいますが、聖書は「主にあって待望する」ことに価値があると告げます。

65才で不妊のサライは、神の約束である子孫繁栄の話を夫から聞いて、高齢でも子どもが出来る奇跡の妊娠を待望していましたが、10年が過ぎても、何の兆候もありません。それで「やはり年だから無理。夫の子どもという意味なら、私じゃなくても女奴隷のハガルを通してでも夫の子が欲しい」ということで生まれたのがイシュマエルですが、彼は契約の子ではありません。更に13年が経ちました。

<聖書に態々、年齢が書かれているのは、人は神の約束をどこまで待望できるかと試されています。サラは、もう待ち望んではいなかったのか、天使の言葉を聴いて密かに笑いました。この諦めの思いを神に見破られたサラは、撤回します。笑わなかったことにしてほしくとも、神の前では通じません。その不信仰な態度は事実として、聖書に記されています。この世でも、教会であってもタブーはありますが、神にはタブーはありません。聖書はタブーにされるような隠し事であっても向き合います。罪を認めて、悔い改める姿勢を神は望まれています。サラも笑ってしまったことを認め、神の赦しの中を歩んで行きます。真実なる神の契約は、人の不信仰を超えて実現されます。人類にとって、最も待望すべき方は、主イエス・キリストです。その主が、再来される日をクリスチャンは今も、待望しています。/p>

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