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「宣教を支える力」フィリピの信徒への手紙4章1-9節

2023年7月23日
宇都宮上町教会主日礼拝
牧師 武石晃正

 いつどのようにキリストの福音に触れられたのかと思い起こすとき、そのきっかけは子ども時分に近所へ背の高いアメリカ人のご夫妻が引っ越してきたことでした。誘われるまま、ただ外国人への興味と憧れだけで訪ねていったのが人生で最初の主日礼拝でした。
 海を渡って極東の島国へ福音を携えてきた方がいなければ、信仰へ導かれることはなかったでしょう。言葉や文化の壁に悩まれたばかりでなく、1970年代以降は為替が変動相場制に変わったことで宣教師自身も派遣団体も経済的に大きな困難を経験されたでしょう。

 新約聖書には使徒たちが当時の世界の各地へと力強く宣教する様子が書かれておりますが、果たして彼らはペンテコステにおいて受けた聖霊のゆえに恐れも疲れも困難も知らずに突き進んでいたのでしょうか。本日はフィリピの信徒への手紙を開き、「宣教を支える力」と題して思いめぐらせて参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.使徒パウロのとフィリピの信徒たち
 しばらく使徒言行録を読み進めて参りましたが、16章においてパウロの進路が大きく転向します。それまでは比較的パレスチナに近い小アジア半島の地域においてユダヤの諸会堂を中心に救い主メシアであるナザレの人イエスを伝えておりましたが、「イエスの霊がそれを許さなかった」(同7)としか言えないほどの困難が立ちふさがったのです。
 そこでパウロは主から幻をいただき、ローマの支配が色濃いマケドニアへと渡りました。その最初に訪れたのが「マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピ」(同12)です。

 マケドニアと申しますと現代では北マケドニア共和国という国名がありまして、そこから東はエーゲ海、西はアドリア海まで広げた範囲が当時のローマにおけるマケドニア属州でした。東西の海路、南北の陸路を結んでおりますので経済的には非常に豊かでありましたが、あくまでもそれはローマにとっての豊かさです。
 ローマの植民地ですからローマ市民権が物を言う土地であり、多分に漏れず当時の奴隷制度の仕組みが社会に敷かれています。奴隷と自由な身分の者との区別があり、そのうえローマ市民権をもつ者がおりました。

 少し使徒言行録からパウロの足取りをたどってみますと、フィリピの町ではこれまでのアジアの諸地域とは異なった様子が見られます。数日間の滞在にあたって安息日であるにも関わらずパウロはユダヤの会堂ではなく、なんと町の外へと向かったのです(同13)。
 その町にユダヤの会堂がなかったとは書かれておりませんので、ただ何らかの事情によってパウロが訪れることができなかったということも考えられます。いずれにしてもパウロはこれまでとは異なり、全くの手探りの状態でフィリピでの宣教に取り掛かりました。

 会堂とは異なった「祈りの場所」が町はずれの川岸にあり、もっぱら女性たちが集まって祈っておりました。安息日に祈るにも郊外へ出て行かなければならないとすれば、現地のユダヤの人たちは信仰の上で相当に困ったことでしょう。
 このように複雑な文化背景や社会制度の中でフィリピの教会が生まれました。社会的には貧富の差ばかりでなく身分や立場の違いがあり、信仰においてはアジアから流れてくる自称ユダヤ人が律法について幅を利かせるということがありました。

 土地の人たちはローマを神の国のように考えており、ユダヤ人はイスラエルを神の家であると信じています。パウロも「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です」(フィリピ3:5)と選民であることを自負しておりましたが、このフィリピの町に来たことで市民権を持つ生まれながらローマ帝国の市民であることを告白するに至りました(使徒16:37、22:28)。


2.キリストの福音を支える人々
 ところであなたはどのようなときに元気が湧いてきたと感じたり、励まされて力づけられたりすることがあるでしょうか。美味しいものを食べた時、不意の贈り物を受け取った時、人それぞれにありましょう。
 逆に誰かを励ましたい、支えたいと思った時にどうやってその気持ちを表すことができるでしょうか。元気な人を喜ばせようとすることは思いつきやすいかもしれませんが、重い病気や困難の中にある方をどうして力づけることができるかと考えあぐねることもございます。

 全くの手探りといってよいところからパウロはフィリピの人々へイエス・キリストの福音を伝え、その後も先々で苦心しながら宣教を続けます。その知らせを受けたフィリピの教会の人たちはパウロを何とか支えたいと考えて、エパフロディトを応援に遣わしました。
 ところが手伝いに行ったはずのエパフロディトはひん死の重病にかかり、そもそも経済的に窮していたパウロへ更なる負担を強いてしまったのです(2:26-27)。パウロに迷惑をかけたこともさながら送り出してくれた仲間たちに合わせる顔もなく、エパフロディトは心苦しさのあまりフィリピへ帰るに帰れずにおりました。

 余計な手間暇と費用がかかったことでパウロはエパフロディトのことをありがた迷惑な厄介者として扱ったでしょうか。むしろパウロにとって「彼はわたしの兄弟、協力者、戦友であり」、自分のもとで死なせてしまっていたらとんでもないことになっていたと癒し主であるキリストに感謝しています(27)。
 パウロにとって経済的な支援や人的な応援は非常にありがたいものでしたが、届けられた金品よりも彼を大いに力づけたものがありました。それはフィリピの人たちが主にあって同じ思いを抱いて、パウロの苦しみも喜びも一緒に担ってくれたことでした。

 「物欲しさにこう言っているのではありません」(11)「贈り物を当てにして言うわけではありません」(17)と述べながらも、パウロはフィリピの人々が度重ねて贈り物をしてくれたことへの感謝と喜びが絶えない様子を手紙の中ににじませます。贈り物とは実質的には献金のことを指していますが、それ以上にパウロの宣教を支える力となったものが何であるかは「よくわたしと苦しみを共にしてくれました」(14)の一言に尽きましょう。
 働きの成果の良しあしも大切なことでありますが、協力者たちと力を合わせて喜び合うところに福音の宣教は大いに支えられるのです。逆に自分を支えてくれている人たちが仲違いをしていることを伝え聞いたら、それが自分のせいでなくとも悲しく思うことです。

 フィリピの信徒への手紙においてパウロはエボディアとシンティケという2人の女性に対して「主において同じ思いを抱きなさい」と勧めています(4:2)。何者であるか定かではありませんが教会の中心的な存在であろうこの2人が揉め事の種となっていたのです。
 先に召された方々と並んでフィリピの教会を建て上げてきた彼女たちは、草創期の顔ぶれとしての自負も互いに持っていたのでしょう。ところが今や「真の協力者」と呼ばれる人物の助けを必要とし(3)、お迎えが遠くないと暗に言われるようになりました(5)。

 実際に彼女たちがパウロとどれほど親密に祈りの交わりを持っていたのか、具体的にどのような支援をしていたのかを聖書はあえて伏せているようです。恐らく個人がその業績によって評価を受けることのないようにという導きでしょう。
 そこで「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい」(6)とパウロは勧めます。主イエスも「その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)と言われておりますから、わざわざ話を蒸し返して面倒事を作る必要などないのです。

 さて当時のローマにおいてもイスラエルにおいても、女性は社会的に不利な立場にありました。しかし主イエス様の周りでは使徒や弟子たちとは別に女性たちが働きの支えとなっており(ルカ8:2-3)、パウロにおいても彼を支えたフィリピの人たちは町はずれの川辺に集まって祈っていた女性たちが中心でした。
 金額の上ではそれほど大きくはなかったかもしれませんし、直接にパウロの宣教旅行に同行したわけでもなければ、イエス様の弟子として奇跡を行ったこともない人たちです。しかし彼女たちの感謝を込めた祈りと願いによってパウロの宣教は支えられ、その様は主イエスが十字架に架かられる数日前に精一杯のもてなしをした2人の姉妹の姿に通じるようです(ヨハネ12:1-3)。

 これらの捧げものが義務感からなされたのだとしたら、受ける側にとっても義理と苦痛が伴うでしょう。「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)「あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい」(同5)と言われており、主において同じ思いを抱き喜びあうことがイエス・キリストの十字架の愛を伝える宣教を支える力となるのです。


<結び>
 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(フィリピ3:20)

 天から来られる方を地上で待っているので私たちはどの国の人でも「奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」(ガラテヤ3:28)から、キリストによって一つの体とされています。そして「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」(コリント一12:26)。
 また霊的には荒れ野のような日本の地に福音の種が蒔き続けられています。私たちのような小さな者であっても神の前に感謝を込めた祈りと願いをささげ続けるとき、それは苦難の中にあってもこの宣教を支える力となるのです。

 「終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。」(フィリピ4:8)

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