「鋤(すき)に手をかける」ルカによる福音書9章51-62節
2023年7月30日
牧師 武石晃正
コロナ禍における国内でのさまざまな規制はなくなりましたが、かつてのように国内外を行き来することは未だに難しい面も残されているようです。それでも私たちが国外へ行くことができなくとも、昨年よりアジア学院サンデーが再開したことで海外からの研修生やスタッフの方とお会いすることができるようになりました。
今年は50周年を記念するアジア学院のお働きを覚えつつ、喜びと感謝を祈りによって主にささげたいと思います。本日はアジア学院サンデーとして本科生のベンさんのお証しを、藤吉先生に通訳していただきました。
お証しの恵みをいただいた後に御言葉の恵みをいただきます。ルカによる福音書を開き、「鋤に手をかける」と題して神の国にふさわしい者ついて考えて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
コロナ禍における国内でのさまざまな規制はなくなりましたが、かつてのように国内外を行き来することは未だに難しい面も残されているようです。それでも私たちが国外へ行くことができなくとも、昨年よりアジア学院サンデーが再開したことで海外からの研修生やスタッフの方とお会いすることができるようになりました。
今年は50周年を記念するアジア学院のお働きを覚えつつ、喜びと感謝を祈りによって主にささげたいと思います。本日はアジア学院サンデーとして本科生のベンさんのお証しを、藤吉先生に通訳していただきました。
お証しの恵みをいただいた後に御言葉の恵みをいただきます。ルカによる福音書を開き、「鋤に手をかける」と題して神の国にふさわしい者ついて考えて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.エルサレムへ向かう道
「天に上げられる時期が近づくと」(51)と始まりますが、福音書の著者であるルカは実際の昇天日がいつであったのかを知っています。1か月以上も先である昇天そのものを指しているというよりも、もはや道を逸れたり後戻りをしたりすることはないという主の決意のほどの表われです。
エルサレムで捕らえられ十字架にかかり、すべての罪の贖いとなられる使命です。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)と言われるように、多くの人を悔い改めに導くため主は弟子たちを町々へと遣わされました(52)。
既にユダヤではナザレの人イエスの名が広く知れ渡っており、民の指導者たちはその人を取り押さえようとしておりました。ですからイエス様は祭の時期に都へ上るにあたり、多くのユダヤ人が行き交う街道ではなくサマリアを経由する道を選ばれました。
訪れようとした村のサマリア人たちは祭の時期にガリラヤの一行がやってきたので、この人たちがエルサレムではなく彼らの山であるゲリジム山で礼拝するのではないか期待したのでしょう。ところが主はエルサレムを目指して進んでおられたので、期待を裏切られたサマリアの村人たちは「イエスを歓迎しなかった」ということのようです(53)。
もともと当時のユダヤの人たちとサマリアの人たちとは付き合いを避けていましたから、歓迎しなかったというよりもむしろ敵意をあらわにして罵ったということも考えられます。そこで売り言葉に買い言葉、「雷の子ら」(マルコ3:17)との二つ名を持つゼベダイの子ヤコブとヨハネが「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と息を巻きました。
実はこの2人、数日前にイエス様に連れられて高い山に登ると、そこでイエス様と語り合う旧約の神の人モーセと預言者エリヤを見たのです(9:30)。山の上で見たことを口止めされたとは言え、かつてエリヤがサマリアのカルメル山で偽預言者たちを滅ぼしたこと (列王上18:33)を思い起こして感情的になってしまったのも無理のないことです。
ところが主の御思いはご自身を信じる者が一人も滅びないことです。ヤコブとヨハネは彼ら自身の正義感を丸出しにして憤りましたが、「人の怒りは神の義を実現しない」(ヤコブ1:20)のです。
サマリアの人たちの村を過ぎ、イエス様ご一行は更に道を進んでいきます。すると道々で3人の人物に出会いました。
マタイはこれらの人々について初期の出来事のうちに含めております (マタイ8:18-22)。これはルカとの証言の相違というよりも、むしろイエス様が宣教を始めた当初から「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」(57)と軽々しく弟子入りを申し出た人たちが絶えなかったことを意味します。
特にルカによる福音書においてはサマリア人の村で歓迎されなかった直後ですから、「どこへでも従って参ります」と言われたなら少なからず嬉しく感じるのが人情というものでしょう。ところがイエス様は「神の国にふさわしくない」と彼らの弟子入りをことごとく拒まれました。
一体どのような者が神の国にふさわしいのか、とルカは読者に考えさせます。そして読者である私たち一人ひとりが聖霊によって問いかけを受けているのです。
2.鋤(すき)に手をかけるということ
天の御国にふさわしくない者をたとえて、主は「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者」(62)と呼ばれています。この表現が当時の慣用句であるのかイエス様がこの場で思いつかれたのか定かではありませんが、聖書ではこの箇所だけの言い回しです。
日本語で鋤と申しますと柄が長くて先が平たいスコップのような農具を指します。また犂(すき)という同じ読みをする農具もあり、それは家畜に引かせて畑地を起こすもので英語ではプラウ plow と呼ばれます。
福音書の中で鋤と訳されている名詞は人が扱うものと家畜に引かせるものと両方とも含む単語です。いずれにおいても農耕のために土を起こす働きは大変な重労働ですから、手をかけるからにはせめて一畝だけでも掘り起こす覚悟が必要です。
まして家畜に引かせるほうの犂(プラウ)であれば家畜を御しつつ農具を操りますので、よそ見をすれば時に大惨事。農具が土を捕えないまま家畜が先へ先へと歩いてしまうばかりか、隣の畑まで台無しにしてしまうことも起こり得ます。
イエス様の弟子になろうということは、イエス様に従ってついて行くということです。イエス様を力強い牛に見立てるなら、私たちは鋤に手をかけて後ろをついて行くのです。
英語の plaw には農具を指す名詞のほかに、土を耕すという動詞もあります。転じて「設備などに投資をする」とか「困難な仕事に取り掛かる」という意味もあるそうです。
手をかけるからには鋤に全体重をかけるように、イエス様の弟子になるには全生涯をかけることが求められます。まさに「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」のです。
3人の人たちが「神の国にふさわしくない」と言われていますから、彼らは心のうちに中途半端な思いを抱いていたということです。ユダヤの祭の時期であるのにこの人たちがわざわざサマリア寄りの道を選んでいることから、正規の手順を踏むことができないような何かしら訳ありの人物であることが知れているのです。
「どこへでも従って参ります」と最初は立派な申出をしながらも、それが受け入れられた途端に条件をつけたり変えたりするのです。ラビあるいは先生と呼んで謙遜そうにしておきながら、自分に都合よく物事を進めようという手合いでしょう。
今のうちにナザレの人イエスの弟子になっておき、本当にメシアとしてエルサレムで王になったならば弟子の一人として家臣になるのが目論見です。しかしユダヤの指導者たちに捕らえて計画倒れになってしまうなら、その時に自分がイエスの弟子であっては都合が悪いのです。
弟子とされる約束だけ取り付けておいて、この人たちは「父を葬りに行かせてください」(59)「まず家族にいとまごいに行かせてください」(61)と様子見のための時間と距離とを取るのです。行って戻ってくる頃にはエルサレムで結論が出ているだろうとの算段です。
ナザレのイエスが王になった暁には、以前から従う約束をしていたと言って取り入るのです。捕えられたと聞こえたならば「やっぱり怪しいと思っていた」「あいつを探るために近づいただけ」と言い逃れることができるような、両天秤にかけた状態です。
神の人を捕まえておいて人物を見ようなどは大変な思い違いです。二心ある者や人をおとしめようとする者に対し、主イエスは「神の国にふさわしくない」と一蹴されます。
ルカがこの話を福音書の中に記したのは、教会がペンテコステの日に産声を上げてから少なくとも30年は経った頃のことでした。ですから単なる出来事の記述ではなく、教会の文脈において教会の中の人々に宛てられて説かれています。
つまり使徒たちが種を蒔いた教会の中に伝道者を歓迎しないような者がいるならば、そのような者はサマリア人にも劣るということです。旅人すなわち外から来た働き人を懇ろに扱うことを使徒パウロは重ねて奨励しています(ローマ12:13、テモテ一5:10)。
主キリストについて「正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれた」(ペトロ一3:18)と証しをされており、その苦しみに臨まれる途上には二心ある3人の者たちが現れたことを覚えます。キリストにあって神の国のために苦しみを受けるとき、神はわたしたちを神の国にふさわしい者としてくださいます(テサロニケ二1:5)。
鋤に手をかけてから後ろを顧みることなく、キリストに繋がれてこの地を耕し続けましょう。
<結び>
「涙と共に種を蒔く人は
喜びの歌と共に刈り入れる。」(詩編126:5)
今年度は主なる神がお選びになった人々を14か国からこの日本へ遣わされており、アジア学院を卒業した方々が遣わされた先は60か国を超えています。学びに来られるために払った多くの犠牲があり、祖国でもなお困難が待っていることでしょう。
アジア学院サンデーとして私たちができる支援は実に限られたものでありますし、ここにいる一人ひとりの名前がカメルーンで直接に知られるということもないでしょう。カメルーンをはじめそれらの国々へ私たちが応援のために直接お伺いすることはできないとしても、主が共に働いておられることを覚えて喜びとともに感謝の祈りを奉げます。
後ろを顧みずに鋤に手をかける者を神の国にふさわしい者としてくださいますように。
「あなたがたの内に働いて、御心のままに望ませ、行わせておられるのは神であるからです。」(フィリピ2:13)