「隣人とはだれですか」ルカによる福音書10章25-37節
2023年8月6日
牧師 武石晃正
先週主日(7/30)はアジア学院サンデーとして栃木県内にありますアジア学院より研修生のベンさん(カメルーン出身)とスタッフ2名が来訪されました。礼拝の中でのお証しに加え、スライドを交えながらカメルーンにおける窮状についてもお聞きしました。
ベンさんの祖父が民族の王様で父は皇太子、自身はその7人きょうだいの末っ子です。彼は自身が何者であるかについて「私はンソ民族の王子です」と名乗ります。
では私たちはそれぞれ自分を何者であると言えるでしょうか。あるいは神様から何と呼ばれたら「それは私のことです」と手を上げることができるでしょう。
本日はルカによる福音書を開き、「隣人とはだれですか」と題して進めて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
先週主日(7/30)はアジア学院サンデーとして栃木県内にありますアジア学院より研修生のベンさん(カメルーン出身)とスタッフ2名が来訪されました。礼拝の中でのお証しに加え、スライドを交えながらカメルーンにおける窮状についてもお聞きしました。
ベンさんの祖父が民族の王様で父は皇太子、自身はその7人きょうだいの末っ子です。彼は自身が何者であるかについて「私はンソ民族の王子です」と名乗ります。
では私たちはそれぞれ自分を何者であると言えるでしょうか。あるいは神様から何と呼ばれたら「それは私のことです」と手を上げることができるでしょう。
本日はルカによる福音書を開き、「隣人とはだれですか」と題して進めて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.聖書をどう読んでいるか
朗読の箇所は聖書新共同訳において小見出しが付けられているように、「善いサマリア人」として知られているお話です。聖書本来の文脈から切り出されて「善いサマリア人」という言葉だけが世の中で独り歩きしてしまっている場面を見受けることもございます。
「ある律法の専門家が立ち上がり」(25)とあるとおり、ここではまずユダヤの律法の解釈に結び付けてサマリア人のたとえが展開されています。律法の専門家という言い回しは福音書の中でもルカ特有のもので、マタイであれば「律法学者」あるいは「ファリサイ派の人」と具体的に示すところです。
律法と申しますと厳しくて堅苦しい印象があるかもしれませんが、旧約聖書を丁寧に読み解いてみますと天地創造の神様が被造物である人間のためにどれほど心を砕いてくださっているのかが分かって参ります。もちろん私たちにはイエス・キリストにおいて御父の愛が啓示されているわけですが、それ以前にも聖書の中に永遠の命があると考えて聖書を研究している人たちがおりました(ヨハネ5:33)。
この律法の専門家は「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(25)とイエス様を試しました。イエス様は彼がその一派の者なのであるとご存じだったのでしょう、「律法には何と書いてあるか」だけでなく「あなたはそれをどう読んでいるか」と一歩踏み込んで問い直されました。
レビ記や申命記からすぐさま引用できるところはさすがです(26-27、参照レビ19:18、申命6:5)。イエス様のお口から直接に「正しい答えだ」(28)などと褒められた人は聖書の中でも数えるほどもいないでしょう。
ところが「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」と言われたものですから、この律法の専門家にとっては腑に落ちないのです。掟について「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(18:21)と軽々しく口にする者たちは多くおりましたが、この人ははるかに熱心に律法を研究してイスラエルの同朋への義務を果たしてきたからです。
そこで「では、わたしの隣人とはだれですか」(29)、すなわち「あなたが言うところの隣人とは誰を指すのか」と切り返します。「あなたが徴税人や罪人などを隣人として食卓を共にしていることは律法の範囲を超えている」と言い返しているようです。
旧約において「これらを行う人はそれによって命を得ることができる」(レビ18:5)のは掟と律法とを守ることによるので、それらに反している者たちが「隣人」であるとは律法の専門家たちにとって受け入れがたいことです。そして彼らは永遠の命を得られる人たちとして祭司、レビ人、律法を行う「正しい人」の順であると考えていたようです。
これに対してイエス様は「追いはぎに襲われた男」のたとえ話で返された、というところまでが本日の箇所の顛末です。当時のラビたちの間では「強盗に襲われた男」のたとえが用いられていたそうですが、イエス様は祭司、レビ人に加えてサマリア人を登場させて独自のたとえで説かれました。
2.わたしの隣人とはだれですか
ラビたちに伝わっていた「強盗に襲われた男のたとえ」は呼ばれているとおり襲われた男が主体であり、それは世の諸国民から残酷な迫害を受けてきたイスラエルを描いたものです。幾人かの男たちにさんざんに打ち叩かれた男がやっとの思いで自宅にたどりつき、前身の痛み苦しみを訴えるという話です。
打ちひしがれた神の民が主の癒しを求める祈りは詩編6編などに見られますから、イスラエルの伝統的な祈りまたは基本的な信仰姿勢をたとえたものです。ところが苦難の中から助けを求めて嘆願するまではよいものの、いつしか自分たちが正しいのになぜ苦しめられなければならないのかという不満と驕りを伴う感情へと変わることがあります。
すると律法や掟に正しくない者たちや異教徒たちを排除する特権意識が生まれます。このような心情は当時のユダヤ人の選民意識に限らず、「自分は間違っていないのにいつも周りから苦しめられる」という自己憐憫や被害妄想にも通じることです。
律法学者やファリサイ派の人々は律法を実践しようとしない庶民を「地の民」と呼び、永遠の命に至る道が閉ざされている者たちであると軽蔑していました。この「地の民」という呼び方は主の契約から外れている異邦人にも用いられますが(エズラ3:3)、実はそれ以上に彼らが嫌っていたのがサマリア人だったという次第です。
サマリアとは元々はイスラエルが分裂した北王国の末裔でありまして、アッシリアに滅ぼされてからは異教徒との雑婚や異教崇拝が取り入れられました。アブラハムの子孫でありながら主なる神との契約を破ったサマリア人を汚れた民として南王国ユダは受け入れず、翻ってサマリア人らはゲリジム山に神殿を建てたことから互いに反目しあいます。
「わたしの隣人とはだれですか」と尋ねた律法の専門家としては、イエスが独自のたとえを語る中で祭司とレビ人までは黙って聞いていたことでしょう。たしかにエルサレムからエリコに向かう道は勾配が急なだけでなく盗賊や追いはぎが出没する危険な場所でしたから、祭司やレビ人が行き倒れの者との関わり合いを避けたのも無理のないことです。
ところがこともあろうにサマリア人が通りかかったという展開を聞いて、この律法の専門家ばかりでなく近くにいた弟子たちも肩をすくめて身震いすることになります。たとえ話は作り話とは異なり事実に基づくものですから、程度の差はあれ実際にその危険な街道でユダヤ人を助けたサマリア人がいたわけです。
憎しみと偏見をもって扱って来たサマリア人が善い行いをしたと聞いても、おそらくユダヤの人々は聞かなかったことにするか口をつぐむでしょう。それに対して主イエスは隣人が誰であるかではなく、誰が隣人になるのかと問われました。
隣人とはだれであるかと枠組みを狭めて自分を正当化しようとする者もあれば、隣人となることによって神の愛には隔たりがないことを示した方がおられます。「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(36)と問われたとき、その答えは善い行いをした者でも施しをした者でもなく「その人を助けた人」でした。
イエス様はこのたとえを通してサマリア人を見習えと教えたわけではないようです。むしろ普段あなたが見下げているような人が祭司らより善い行いをしたなら、あなたはどちらを良しとするかと問いかけているのです。
そもそも「隣人とはだれですか」と尋ねた時点で、この人は自分と利害が一致する人や自分の思い通りになる人だけを念頭に置いていたことは明らかです。私たちが胸に手を当てて考える時、心の内はいかほどでしょうか。
果たしてこのたとえが単なる博愛や人助けの勧めとして受け取られやすいことを筆者であるルカは予め理解していたのでしょう。続けてベタニアの姉妹マルタとマリアの話を添えることによって、行いそのものによるのではないと釘を刺しています(38-42)。
旅人をもてなすことはユダヤの美徳の一つでしたから、ガリラヤの一行のために奔走するマルタは先の律法の専門家に通じるところがありましょう。イエス様のために一生懸命に働くことはもちろん良いことであるのですが、「多くのことに思い悩み、心を乱している」(41)のでは本末転倒です。
「必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」(42)と結ぶことによって、ルカは永遠の命を受け継ぐことは行いによるのではないことを示されます。主が「行って、あなたも同じようにしなさい」(37)と命じられたのはサマリア人のような人助けという行為そのものではなく、まずその人の隣人なって傍らに身を置くことでした。
<結び>
「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。」(ローマ12:14)
良い行いやたとえの中のサマリア人と同じような行動を数多くとったところで、自分の感情や思い思いからのものであれば「多くのこと」となるでしょう。神の言葉に耳を傾けた上で正しい手続きを経ることによって、わずかであるか「ただ一つだけである」方を選ぶことができるのです。
行いによるのか信仰によるのかという二者択一を迫られているというよりも、あなたは誰であるのかという存在の本質が問われています。逆に主が「わたしの隣人とはだれですか」とお聞きになられたら、「はい、私です」と答えられる者でありたいです。
「そこで、イエスは言われた。『行って、あなたも同じようにしなさい。』」(10:37)