「主の来臨に備える」ルカによる福音書12章35-48節
2023年8月13日
牧師 武石晃正
先日、8月7日から9日にかけてホーリネスの群首都圏ユース・バイブルキャンプに奉仕者として参加して参りました。4年ぶりに宿泊を伴う対面での行事でした。
バイブルキャンプは日常生活から離れて聖書の言葉に耳と心を傾け、聖霊の促しを受けて一人ひとりが主イエス・キリストに出会う場です。普段の週ごとの礼拝には家族に連れられたりキリスト教学校の課題だったり、信徒としての義務感から出席していることがあるとしても、日常から離れることでキリストと「わたし」が正面から向き合うのです。
もちろんキャンプや聖会に参加せずとも御言葉と祈りによる生活の中できよめの恵みを受けることはできるでしょう。信仰の歩みの中で大切なのは知識として聖書の言葉を蓄えるだけでなく、キリストと出会うこと、そして主の弟子とされた自分が何を備えているのかと考えることです。
本日はルカによる福音書を開き、「主の来臨に備える」と題して恵みを求めましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
先日、8月7日から9日にかけてホーリネスの群首都圏ユース・バイブルキャンプに奉仕者として参加して参りました。4年ぶりに宿泊を伴う対面での行事でした。
バイブルキャンプは日常生活から離れて聖書の言葉に耳と心を傾け、聖霊の促しを受けて一人ひとりが主イエス・キリストに出会う場です。普段の週ごとの礼拝には家族に連れられたりキリスト教学校の課題だったり、信徒としての義務感から出席していることがあるとしても、日常から離れることでキリストと「わたし」が正面から向き合うのです。
もちろんキャンプや聖会に参加せずとも御言葉と祈りによる生活の中できよめの恵みを受けることはできるでしょう。信仰の歩みの中で大切なのは知識として聖書の言葉を蓄えるだけでなく、キリストと出会うこと、そして主の弟子とされた自分が何を備えているのかと考えることです。
本日はルカによる福音書を開き、「主の来臨に備える」と題して恵みを求めましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.人の子は思いがけない時に来る
主イエスが自身を指して「人の子」と呼ぶことがしばしばあります。旧約では被造物にすぎない人間を指す意味で用いられることが多いのですが、神様から言葉を託された預言者や終末に現れる特別な存在が「人の子(のような者)」と呼ばれています(エゼキエル書、ダニエル書)。
従ってイエス様が「人の子」とおっしゃるにもかつての預言者たちのように迫害を受けることと、来たるべき日における出来事を予告することの両方があります。そしてルカによる福音書においては24章のうち9章以降の大半を十字架に向かう道のりで占められていますから、主はユダヤの指導者たちから排斥されて殺されるという文脈で自身を「人の子」と呼ばれています。
「人の子」と呼ばれるキリストに従うなら、その先に待っているのは十字架です。いかに死に向かうのかと各々の生き方が問われると同時に終末における「人の子」に会うための備えでありますから、キリストを信じる信仰は世間で言うところの「善い生き方をすれば天国に入れる」という考えとは大きく隔たりがあります。
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(35)とイエス様はたとえによる教えを始められました。ともし火のたとえは当時のユダヤのラビたちの間でも多く用いられていたのでしょうか、イエス様もともし火や光を用いたたとえ話をしばしばなさいました。
ともし火が灯されるのは闇であることが前提になっています。闇とは光がなく見えていない状態ですから、私たちは「ともし火」や「光」がなければ神を知ることができない存在なのです。
留守を任される僕と旅先から帰ってくる主人のたとえにもいくつかの型があるわけですが、ここでは「主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」(37)と言われています。一方で「このことをわきまえていなさい」(39)と命じられていることで、多くの者たちがわきまえていない者たちであることが暗に示されます。
そこでペトロは「このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41)と尋ねました。「みんな」とは一般的なユダヤ人であり、そのうちの「正しい人」と呼ばれる人々は律法や掟に忠実で信仰に篤い人たちのはずでした。
ところが本来は神様から権威を預かって神殿を治めている大祭司たちやサドカイ派の人々でさえ、神のものであるべき神殿を「自分たちのもの」にしてしまいました。このことは教会も気をつけなければならないことで、主キリストのものであると頭では分かっていても「私たちの」教会として人間の尺度で営んでしまうことがあり得ます。
自分たちの利益を求めるために神殿を利用していた人々をつかまえて、主は「あなたたちはそれを強盗の巣にした」(19:46)と蹴り散らしたことがあります。「人の子は思いがけない時に来る」(40)という警告が教会に向けられたとあれば、人間の都合や損得で図ろうものなら教会も同じ目に遭うことになるのでしょう。
さて当時のユダヤの婚礼は1週間ほど続いたと言われています。花婿がいつ家に迎えに来るのかは花嫁には事前には知らされておらず、いつかいつかと期待しながら祝宴が続いたそうです。
恐らく遠方の主客が列席するのに合わせて新郎新婦の披露を行ったのでしょう。したがって祝宴に向かった主人が帰ってくるのも1週間ぐらい先であることは分かっていても、正確にいつであるか定かでないのが慣例でした。
いつであるかは明らかではなくともその時は必ずやってきます。まずキリストの来臨が必ずあると信じること、それと同じく私たちの人生に終わりへの備えが求められます。
どちらもその日は突然にやってきます。「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである」(40)と主が命じられたとおりです。
「目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ」と言われる者であるためには、主が住まわれるとしながらも人の営みで占められていないか確かめるのがよいでしょう。私たち一人一人の身と心ばかりでなく、教会においても問われます。
2.みんなのためですか
シモン・ペトロの言として記されておりますが、他の弟子たちも同じ疑問を抱いていたことでしょう。「主よ、このたとえはわたしたちのために話しておられるのですか。それとも、みんなのためですか」(41)と尋ねています。
この問いに対してイエス様は少し考えさせるように「忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか」(42)と返されました。言葉を砕いて読み替えるなら「忠実で賢い管理人は誰ですか」との問いは、「はい、私です」と手を上げさせるようにも見受けられます。
福音書を記したルカは教会の文脈においてイエス・キリストの言行録をまとめておりますから、契約の民であるユダヤの人たちと教会におけるキリストの弟子たちとを重ねて記しているでしょう。続くイエス様のたとえが直接にはペトロが「みんな」と呼ぶユダヤの人々を対象にしているとは言え、福音書が記された時点では教会の中に宛てられるのです。
主人から管理を託された僕が「下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになる」(45)とたとえにありますが、暴力や酔狂が教会の中で起こることなど考えたくもないことです。ところが使徒言行録をも記したルカとしては「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいる」(コリント一11:21)という教会のことも承知のことでした。
かくして「その僕の主人」つまり「人の子」である主イエス・キリストは予想しない日、思いがけない時に帰って来られます(46)。もし教会の中に乱暴なことや、「あなたたちは食べるにしても飲むにしても、ただあなたたち自身のために食べたり飲んだりしてきただけではないか」(ゼカリヤ7:6)と追及されるようなことがあれば、教会の頭である主は「彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる」のです。
どうしてこのようなことになるのでしょうか、その一因は信仰とは何であるかが不明確だったからでしょう。使徒たちの時代はまだ新約聖書がまとめられておりませんので、教会や個人が各々に聞いたままにキリストの福音を信じることになります。
たとえばコリントの教会では「相変わらず肉の人」「ただの人」(コリント一3:3)と呼ばれる者が思い思いの行動を取ったり、有力者が高ぶって身勝手なふるまいをしたり(同5章)していました。その後の時代にも外からの迫害ばかりでなく、教会の内には偽の教えが吹き荒れるなどの混乱が絶えなかったことでしょう。
今は旧約新約あわせて66巻からなる聖書があり、正しく読むための助けとして基本信条や信仰告白があります。日本基督教団には「旧新約聖書に基づき、基本信条および福音的信仰告白に準拠して制定された」日本基督教団信仰告白があり、教会は教会規則の中に日本基督教団信仰告白を告白することを定めます。
私たちは日本基督教団信仰告白において「愛のわざに励みつつ、主の再び来りたまふを待ち望む」と告白しています。告白するだけでなく実践することによって「主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕」(ルカ12:43)になるのです。
「みんな」と言われると多数派、大勢がいる側にいるという安心感を覚えるものです。ところが「人の子は思いがけない時に来る」ことを知って主の来臨に備えて愛のわざに励む者こそ「忠実で賢い管理人」であり、このような者には主みずから帯を締めて食卓を整えてくださいます。
<結び>
「しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」(48)
結びの部分だけ取り上げますと、何とも厳しいお言葉でしょう。あなたは打たれて少しで済むほうがよいと思うでしょうか、更に多く要求されるほうを選ぶでしょうか。
一人ひとりの生涯が終わるまで聖化を求める歩みが続き、それは主にお会いするための備えであります。神の霊である聖霊が住まわれる宮とされているのですから、かつてエルサレム神殿の境内に主イエスが来られた日のことを思い起こしましょう(19:45)。
礼拝を捧げているようでも「強盗の巣」(エレミヤ7:11)と呼ばれるような者が主の前から追い出されることは明らかです。そのようなことのないように信仰者ひとり一人もまた教会もまた、多く与えられ任された者として主の来臨に備えるのです。
「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」(40)