「生きて働く信仰」ルカによる福音書13章10-17節
2023年8月20日
牧師 武石晃正
安息日ということばを聞いて、皆さんはどのような印象あるいは連想をしますでしょうか。日曜日を安息日であるとする方もおられるでしょう。
あるいは、礼拝のほかに奉仕や委員会などで午後までかかるから安息どころではないよ、という方もおありでしょうか。イエス様の時代にも安息日においてそれぞれの立場や考え方がありました。
朗読の箇所はある安息日の出来事におけるイエス様のお言葉と人々の反応が記されています。ルカによる福音書より「生きて働く信仰」と題して考え巡らせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
安息日ということばを聞いて、皆さんはどのような印象あるいは連想をしますでしょうか。日曜日を安息日であるとする方もおられるでしょう。
あるいは、礼拝のほかに奉仕や委員会などで午後までかかるから安息どころではないよ、という方もおありでしょうか。イエス様の時代にも安息日においてそれぞれの立場や考え方がありました。
朗読の箇所はある安息日の出来事におけるイエス様のお言葉と人々の反応が記されています。ルカによる福音書より「生きて働く信仰」と題して考え巡らせて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.会堂でのいやし
とある安息日に主イエスは弟子たちを連れていつものようにユダヤの会堂に入られ、聖書の教えを説いておられました。安息日は「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とモーセの十戒の中で神様に命じられたもので(出20:8)、いかなる仕事もしてはならない(同10節)と定められています。
人々は仕事に行くことをせず、会堂に集まって礼拝をします。当時の会堂の様子を思い浮かべながら話を進めて参りましょう。
礼拝所は宗教上の成人と認められた男性だけが入れる場所として分けられており、律法について質問をしてよいのは男性だけでした。それ以外の方々は会堂の後ろのほうや上階の中二階のような場所に分けられます。
この日は祭りの巡礼の時期である上に噂に聞こえるナザレのイエスが来たということで、会堂はいつも以上に賑わっていたことでしょう。それでも午後の時間も押してくるとポツリポツリと人々が帰って行くので、人だかりが徐々に捌けてくると会堂の様子が見えてきます。
会堂の一番奥の正面あたりにイエス様がおられると、幾人かの立派なひげを蓄えた男性たちがまだ何人か残って話を聞いたり質問をしたりしています。弟子たちは弟子たちで地元の人たちと話をしては、答えられる質問を受けたり一緒に祈ったりしていたでしょう。
入口近くの会堂の後ろの方へ目をやると女性たちの姿もまだいくらか見られます。子ども連れの母親たちは早めに帰りますから、残っているのは連れ合いを待っている方々です。
見え隠れしている姿はガリラヤから従ってきた女性たちで、彼女たちも地元の女性たちの話を聞いては弟子たちやイエス様に取り次ぐのです。するとそこに最後まで残っていたのは腰がまがった一人の女の人でした。
神の民と呼ばれる人々が集まる会堂は、この長年の病を負った女性にとって平安を得られる場所とは言い難いものです。子どもを連れて帰ったり連れ合いと一緒に帰ったり、そのような女性たちの姿は彼女の境遇とはあまりにもかけ離れたものだからです。
腰を伸ばすことができませんから背伸びをして覗くことも上階から伺うこともできず、ただひたすらイエス様を一目でも見たいと願ってじっと待っていたのです。ところが病気を治してもらうことができるとしても失った青春時代は返ってきませんし、嫁ぐあても子を授かるあてもなければ「癒されたい」「治してください」という言葉は彼女の口から出てこないのです。
本当のメシヤという方がいるのなら、せめて一生のうち一度だけでもこの目で拝んでおきたいと強く願ったことでしょう。こうして人垣の隙間から辛うじてナザレ人イエスの姿を捕らえると、そこで彼女にとって奇跡のようなことがその身に起きたのです。
なんとメシヤあるいは神の人と噂される方のほうから自分に声をかけてきたのです。普段であれば病人たちのほうから憐れみを求めてやってくるのが常なのですが、この時ばかりはイエス様のほうから声をかけ彼女を呼び寄せたのです。
主は彼女の心の内をご存じですから「どうしてほしいのか」などとあえてお尋ねになることをせず、ただ「婦人よ、病気は治った」と宣言して手を置かれました(12,13)。するとたちまち曲がっていた腰は伸びて、この女性は神様を賛美したのです。
ところがこの喜ばしい出来事に対して、「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」(14)と怒って文句をつけた人がおりました。その人は会堂長と記されていますが、その役目は会堂の管理のほか礼拝や祈りの整えにもあたっていましたから、今の教会でいうところの教会役員のように熱心な信仰者です。
イエス様は会堂長と人々に向かって答えました。「あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」(15)。
家畜を解くのはよくて同族である女性をサタンの束縛から解くことが赦されないなど、そもそも辻褄が合わないことです。会堂長とその肩を持っていた人たちは大いに恥じ入る一方で、群衆はイエス様が苦しみから解放してくだる救い主だと知って喜びました(17)。
2.束縛から解放される安息日
既にナザレのイエスを捕えようとユダヤの指導者たちが画策していた時期ですから、エルサレムへ近づけば近づくほどその影響力は強まります。したがって会堂長はナザレのイエスが会堂に入ってきた時点から疑惑の目で見ていたことは容易に推察できることです。
巻物が朗読され、聖書の言葉が語られても心ここにあらずといったところでしょう。礼拝中であるにも関わらず神様ではなく自分の腹の内と語り合い、いかにして揚げ足を取ろうかと些細なことでも何かしらの汚点を見つけて訴え出る機会をうかがっていたのです。
この会堂長の胸の内のように人を陥れようとしているわけではなくとも、私たちが礼拝に出席していながら他のことに心を奪われているようであれば大差ないと言えましょう。あの人がそうだ、この人はどうか、と他の人を見るのではなく、私自身あなた自身の魂が主の前に立たされているのです。
民衆からの人気や信頼をナザレのイエスに奪われてしまうと感じたユダヤの指導者たちは、不安とねたみから憤りをもって行動を起こしました。福音書にたびたび記されていることは、教会の中でも同じことが起こっていないだろうかという問われているのです。
主の兄弟ヤコブが「人の怒りは神の義を実現しないからです」と書簡において諸教会へと書き送っています(ヤコブ1:20)。会堂長やその仲間である反対者たちは恥じ入っただけまだよいほうですが、開き直ったり居直られたりしたのでは困ったものです。
「あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り(中略) 御言葉を行う人になりなさい」(同21-22)と勧められています。主イエスは「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」(ヨハネ8:32)と説かれましたが、御言葉を聞くだけで行わない者がどうして真理を知りうるでしょうか。
ユダヤの掟では安息日に人間が自分のために井戸に水を汲みに行くことは禁じられましたが、家畜を解いてに水を飲ませに行くことは認められていました。家畜を解くのはよいのに、なぜ病や苦しみから解くことが赦されないと考えてしまったのか不可解です。
律法学者やファリサイの人たちが安息日にしてもよいことや出歩いてよい距離などを事細かに定め、きまりを守らせていました。事細かに規則を設けてしまったことで安息日のあり方を見失ってしまったのでしょう。
すると安息日は本来のあり方から離れ、会堂は主の慰めではなく一部の人々の満足のためのものになってしまいます。自分たちの考えや望んだことと相容れない事柄であれば、たとえ良いわざが行われたとしても共に喜ぶことができない人たちです。
言葉に出せない祈りと願いを胸の内に抱えつつも、主の御前に出て行くことができない人がいます。18年も病に縛られていた女の人が主の御もとに近づくことができなかったのは、律法に熱心で信仰に篤く見える人々によって主との間を阻まれてしまったからでした。
他人事であれば一括りに18年と口にすることができるとしても、それは途方もなく長い年月です。ルカが安息日と労働が対比される箇所の中で扱っていることから、彼女はまだまだ元気に働ける年頃だったことが示されます。
一方で会堂長の信仰はいわゆる律法主義的に安息日を守るもので、18年も病を負っていたこの女性だけでなく他にも憐れみを求めて待っていた人々までも主の御前から追い散らそうとしました(14)。しかし主は自分から救いを求める言葉を発することさえできなかった者を見いだして招き、病と苦しみから救い出してくださったのです。
<結び>
「自分は信心深い者だと思っても、舌を制することができず、自分の心を欺くならば、そのような人の信心は無意味です。」(ヤコブ1:26)
偽善者とイエス様に呼ばれたのはあの会堂長ばかりでなく、律法学者たちとファリサイ派の人々という民の指導者たちでした(マタイ23:13)。自分たちの都合で作った決まり事によって良いわざを否む彼らは人々の前で天の国を閉ざす者であり、「自分が入らないばかりか、入ろうとする人をも入らせない」のです。
主の日ごとに礼拝を守るにあたっても、出席することそのものや信徒であるという立場を守ることが目的となってしまったならばその信仰は生きていると言えるでしょうか。主のみわざを見て喜ぶ者、御言葉を行う者を立たせるのは生きて働く信仰です。
「群衆はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ」(17)