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「正しい服従」ルカによる福音書14章1-6節

2023年8月27日
牧師 武石晃正

 教会暦は主の降誕を祝うクリスマスから1年が始まり、終末における主の来臨を待ち望むアドヴェントで一巡します。1年52週あるいは53週のうちで最も長い期間が聖霊降臨節であり、今年はペンテコステから始まって22週あります。
 聖霊降臨節はペンテコステにおいて使徒たちに降った聖霊の働きを覚える期間です。主キリストが聖霊によって世にお生まれになったように、キリストの体である教会は主の霊が降って地上に生まれました。

 福音書からキリストを知るということは各々の信仰者をみもとへ近づけるばかりでなく、教会が主のみからだとして十字架を担いつつ再臨を待ち望むための備えでもあります。本日は朗読したルカによる福音書を中心に「正しい服従」と題して進めて参りましょう。

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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)


1.安息日に行なわれたいやし
 「安息日のことだった」(1)と筆者は一つの区切りを設けます。ここでルカは3つの話(1-6節、7-14節、15-24節)を一連としてイエス様の教えを提示しています。
 聖書新共同訳において「安息日に水腫の人をいやす」「客と招待する者への教訓」と小見出しが付されております2つの話は他の福音書には見られず、ルカ独自の記事です。これら2つの教えを引くことによって3つ目のたとえ(15-24)へと結論が導かれます。

 ユダヤ人では安息日には会堂での礼拝の後にラビと呼ばれる教師を迎えて宴会を催すという習慣があったそうです。ですからルカは安息日と食事(1)、招待された客(7)、盛大な宴会(16)の教えを一まとまりとして記したのでしょう。
 この安息日の食事はファリサイ派の議員の家で催されたものです。主が十字架に架かられる前にユダヤの最高法院へ引き渡されたこと(22:66)を思いますと、「人々はイエスの様子をうかがっていた」との一言に企みの一切が詰まっているようです。

 水腫という病についてモーセの律法は具体的な指示を与えておらず、聖書の中で取り上げられているのはルカによる福音書のこの箇所だけです。癒された後にイエス様がこの人を帰らせておりますので(4)、客人として招かれた一人ではなかったわけです。
 ファリサイ派の議員や招かれていた人々は、イエス様が安息日に腰の曲がった女性をお癒しになった出来事を見聞きしていたことでしょう。先の一悶着を互いに承知の上でイエス様は「安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか」(3)とお尋ねになったことになります。

 律法の専門家たちやファリサイ派の人々にとって安息日の重要性は神殿礼拝にも先立つものでしょう。と申しますのも神殿や幕屋の規定が与えられる以前に、十戒において「安息日を心に留め、これを聖別せよ」(出20:8)と命じられているからです。
 また彼らの父祖たちがバビロン捕囚という憂き目に遭った時にエルサレムは陥落し神殿も崩されたままでした。虜として引かれていった者たちも各地へ散らされた者たちも、神殿でいけにえを捧げることができなくなっても主の祝祭である安息日だけは守ることができたのです。

 このような事情もあって安息日を何としてでも守り通すことが契約の民としての拠り所となりました。それはそれで良いことなのですが、いつしか人々は安息日の形式にとらわれるあまり病人たちも神の民として神の安息に与るべきであることを見失ったようです。
 イエス様が投げかけた2つの問いに対してその場にいた人たちは誰も答えることができませんでした。しかし黙っていたということは主に服従したということではなく、話を聞かずに自分たちに都合の良い仕返しについて考え始めていたこととなります。

 律法を都合よく解釈し、人々を支配しようとしては揉め事を起こすような者たちに主の安息を語ることができるでしょうか。周りの人々もまた望んで彼らを受け入れていたというよりも、争いごとや困りごとを避けるために口をつぐんでいたようにも思われます。
 病気を癒すとイエス様はすぐにこの人をお帰しになりましたが、それはせっかく癒されて安息を得た人を争いに巻き込みたくなかったからでしょう。そして改めて人々に向け「自分の息子か牛が井戸に落ちたら」(5)と語り掛け、安息日に象徴される律法の本質を現実の中で問われたのです。


2.井戸に落ちた者を引き上げる方
 「井戸のたとえの教え」ではありませんから深掘りはいたしませんが、人間の罪の現実を言い当てているように思われます。自力で這い上がれないので引き上げなければ死に至りますから、安息日だろうと何だろうと放っておけないからです。
 ところで井戸と申しますと日本ではもっぱら地面に垂直に掘られた竪(たて)井戸を思い浮かべることが多いでしょうか。深い竪穴に子どもが落ちたら大変ですが牛が落ちるということは考え難いので、ここで言われている井戸は地面を大きな螺旋状やすり鉢状に掘り下げたものを指していると思われます。

 斜面であれば落ちても登ってくればよさそうなものですが、水辺の斜面というものは非常に恐ろしいものです。貯水池や遊水地などに「入ってはいけません」「釣りをしてはいけません」という看板が設けられているのをご覧になったことはおありでしょうか。
 岸が急な斜面であれば大概の人は危険を感じて近寄らないものですが、貯水池などの法(のり)面は見た目ではとてもなだらかです。ところが何事もなければ容易に登ってくることができそうな斜面なのに、一度足を滑らせると大変なことになるのです。

 落ちたことがある方であればお分かりのように滑り出したら底まで落ちますし、落ちたら落ちたで絶望的に登りにくいのです。いくら力自慢であっても牛のひづめでは登ることができませんし、子どもであれば登るコツを掴む前に力尽きてしまうでしょう。
 自分の力で清まることも神様と和解することもできないのが罪の本質です。井戸に落ちた子どもは自分では登ることができないので、ただ引き上げられるに任されます。

 井戸に落ちた者は子どもにせよ牛にせよ自力で助かる術がないので、安息日であってもすぐに引き上げてやらなければならないのです。すべての人が神の前に罪人であり自らを救うことができないので、神の子キリストが人の子として天から助けに来てくださったのです。
 ゆえに罪と死の支配から救われるには、ただ救い主キリストの御腕にすがるのみです。たとえ罪人が力尽きてすがることができなくとも、招きに従いキリストの救いを受けるなら力強い御腕によって引き上げてくださるのです。

 全くもってお手上げのところを救っていただくのですから、自力で斜面を10㎝登ろうと1m登ろうと這い出せなければその差は無いも同然です。律法の専門家たちはたまたま安息日を守ることができる環境で生まれ育ったのかもしれませんが、人の意思や努力で何とかなると考えているうちは井戸の底から抜け出すことはできないものです。
 翻って、自ら望んで水腫や規定の病を患った者はおらず、牛だって落ちたくて井戸に落ちたわけではないのです。体の半分だけ上げてもらえば残りは自分で井戸から登ってきます、などということがあり得ないように、引き上げてくださる方に全てを委ねて献げることが神に対する服従です。

 癒された人がその後どのような人生を送ったのか福音書は触れていませんが、彼が弟子になろうとなるまいとキリストは病から安息へと引き上げてくださいました。人が罪に滅ぶのを見て見ぬふりはしておられずに、キリストは神であることをかなぐり捨てて罪の世に生まれて来てくださったのです。
 「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです。」(ローマ14:9)


<結び>
 「そこで、イエスは律法の専門家たちやファリサイ派の人々に言われた。『安息日に病気を治すことは律法で許されているか、いないか。』」(3)

 かつての安息日と教会における日曜日が同じものとは言いきれないとしてとも、日本基督教団では教憲において「教会は主の日毎に礼拝を守り、時を定めて聖礼典を執行する」と定められています。私たちは「主の日」すなわち「安息日が終わって、週の初めの日」に礼拝を行います。
 「主の日」と安息日の間には、「聖書において証せらるる唯一の神」を礼拝する日である点において相通じます。働いてはならない日としての安息日ではなく、「あなたがたのなすべき礼拝」(ローマ12:1)を捧げるのです。

 肝心なのは教会がキリストの血潮という代価をもって買い取られたものであり、キリストの所有であるということです。十字架の贖いにより罪から買い戻された一人ひとりはもはや罪の奴隷ではなく、キリストの所有とされた召し使いと呼ばれてます(ローマ14:4)。
 一人ひとりはキリストの体である教会の肢(えだ)であり、教会を通して主に従います。自分では這い上がることができない罪の深みから引き上げてくださったキリストに対し、このようにして私たちは救われたこの身を捧げます。

 教会は主キリストの体であり、私たち自身の熱意によるのではなく主の御思いによって支配されます。神に対する正しい服従はファリサイ派の人たちのように個人や集団の意思によるのではなく、教会においてなすべき礼拝を献げることにあります。

 「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです。」(ローマ14:8)

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