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「神からの誉れ」ルカによる福音書14章7-14節

2023年9月3日
牧師 武石晃正

 9月に入り、朝夕の風に秋を感じられるようになりました。景色を見渡せば田んぼの稲が色づきつつあり、穂先が垂れ始めています。
 季節になれば当たり前のように眺めている光景ではありますが、稲という一つの作物だけを同じ場所で作り続けられるということがとても不思議に感じます。同じ作物だけを植え続けていれば連作障害が起こりそうなものですが、農家の方の知恵と技術と努力によって今年も田んぼは黄金色の誉れを受けることになりましょう。

 豊かに実った稲が頭を垂れるように、人もまた誉れを戴くときには身を低くするものです。本日はルカによる福音書を開き、「神からの誉れ」と題して考えて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.へりくだる者は高められる
 ルカによる福音書の14章は1節より24節までが一連で構成されており、イエス様の3つの教えが記されています。本日はその2つ目の話であり、安息日の食事において招待を受けた客が上席を選ぶ様子から端を発しています(7)。
 当時のユダヤでは安息日の礼拝が終わるとラビと呼ばれる教師や同朋たちを招いて食事をする習慣がありました(1)。客人らが上席を選んでいる様子をご覧になっていたというのですから、イエス様はまだ席に通されていなかったようです。

 上席を選ぼうとしている人々に対して婚礼の祝宴のたとえが語られます(8)。当時のユダヤの婚宴は1週間ほど期間を設けて行われました。
 祝宴には親類縁者など遠方からの来賓もありますが、列車や飛行機などありませんので幾日の何時に到着できるか定かではないのです。したがって十分な数の席は用意されていて上席と末席の区別はあっても、席次はその都度に定められたようです。

 空いているからといって上席に着いてしまうと、たとえのように後から身分の高い人が到着するということも起こり得ます(9)。「この方に席を譲ってください」と言われて席を立つのはよいとして、もはや空いているのは末席だけなので恥をかくことになります。
 「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい」(10)と言われているのも、あくまでもユダヤの婚宴のたとえです。実際にイエス様が語っている場は安息日の食事における出来事ですから、末席に着いたからといって婚宴のように上席を勧められるかは分かりかねるところです。

 この場面が1節の安息日と同じであれば「招いてくれた人」はファリサイ派の議員ということになります。するとここで言われている昼食や夕食も単なる食事ではなく議員が主催する食事会という趣です。
 先の議員ではないとしても、大勢の人を招く食事を催すことができるひとかどの人物といったところでしょう。少なくとも食事を振舞うことで自分を気前良く見せかけようとする人であることは推して知るところです。

 「友人も、兄弟も、親類も、近所の金持ちも呼んではならない」(12)とイエス様はおっしゃいますが、それは誰を呼ぶかではなく動機のほうを問われています。「あなたを招いてお返しをするかも知れないからである」と結ばれているように、「あなたを招いたりあなたにお返しをしたりすることのないように」と食事に招く目的が指摘されているのです。
 従って「むしろ、貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人を招きなさい」(13)と言われているからといって、招く対象を変えればよいという問題ではないことも分かるでしょう。このような人たちから直接の見返りを期待していなくとも、「あの人はいつも私たちに施しや食事を振舞ってくれる人だ」という評判や賛辞を求めているならお返しをされたも同然だからです。

 モーセによって与えられた律法には「この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」(申命15:11)と気前よく施すように命じられています。施しや食事を振舞うことそのものはみこころに適うことなのですが、イエス様は「自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない」(マタイ6:2)とも「施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない」(マタイ6:3)とも戒めています。
 人前で善行を見せびらかすような者を主イエスは偽善者たちと呼ばれます。そして偽善者たちは「白く塗った墓に似ている」(マタイ23:27)と言われるのです。

 さて「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(14)と言われて、この「招いてくれた人」は考えを改めたでしょうか。すぐにイエス様を上席へ案内したのでされば、次のたとえにおいて「言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」(24)とは結ばれなかったように思われます。
 招待を受けた客でも招いてくれた人でも「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(11)のです。


2.高ぶる者は低くされる
 イエス様が客たちの様子をご覧になっていたということは、これらの話をしている時点ではまだ席に通されていなかったわけです。安息日は神の言葉を聞く日であり、それを語るラビが招かれているのに後回しにされたことになります。
 ではどのような者たちラビすなわち神の言葉より優先されたのかと申しますと、食事の主催者の近縁の者や金持ちたちだったということが話の流れから分かります。このような失礼なことはかつてのユダヤの人たちだけの話であって、キリストを救い主と信じる教会の中では起こるはずがないと言い切ることができるしょうか。

 ところが後にキリストの福音が宣べ伝えられて教会が形作られていく年代において、主の兄弟ヤコブが書簡の中で次のように述べています。「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛けください』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら、あなたがたは、自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになるのではありませんか。」(ヤコブ2:2-4)
 世故に長けた価値観を持ち、見返りを求める損得勘定で人を値踏みする者が教会にいたということです。過去にあったというばかりでなくいつの時代においても教会の中で起こり得るので、福音書だけでなくヤコブの手紙を通しても主は念を押されたのでしょう。

 使徒パウロは後に異邦人の使徒と呼ばれるようになりましたが、もともとはファリサイ派に属する律法の専門家でありガマリエルという名門で厳しい教育を受けたラビでした(使徒22:3)。イエス・キリストを救い主と信じてからはファリサイ派としての身分も名誉も手放して、御言葉を伝えるために教会に仕える者となりました(コロサイ1:25)。
 それでも元はユダヤのラビですから、信仰においては異邦人に対して優れた立場にあるはずでした。ところが異邦人の町コリントには1年半も留まり(使徒18:11)、身を低くして仕えたというのです(コリント二11:7)。

 コリントの教会は争いごとが絶えず、見栄えばかりを気にしているような人々がおり、力のある者たちは貧しい人々に恥をかかせるような状況でした(コリント一11:2-22)。それでもパウロは彼らの顔を立てて身を低くしていたので、それをいいことにパウロを侮った者たちは平気で報酬を出し渋るということも起こりました(コリント二11:7)。
 表向きには立派であってもキリストの福音について根本的に思い違いをしている者について、パウロは「サタンでさえ光の天使を装うのです」(同11:14)と述べています。高ぶる者は低くされるばかりでなく、「自分たちの業に応じた最期を遂げるでしょう。」(同15)

 神の前で偽る者を主キリストが「白く塗った墓に似ている」とおっしゃったように、パウロもまた「白く塗った壁」(使徒23:3)と言っています。高ぶる者は「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」ような者であり、へりくだる者には「正しい者たちが復活するとき、あなたは報われる」(ルカ14:14)と約束されています。


<結び>
 「主は貧しくし、また富ませ
  低くし、また高めてくださる。」(サムエル記一2:7)

 これは旧約聖書の時代、イスラエルにまだ王がいなかった頃、預言者サムエルを生んだ母ハンナが詠んだ賛歌です。そこからおよそ1000年を経て、主キリストを生んだ母マリアは「権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ」ると神を褒めたたえました(ルカ1:52)。
 マリアを通して世にお生まれになったとき、罪のない全き神が「自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:7)。私たちの救い主が低くなられたので、そのしもべである者たちは主の十字架を背負って身をかがめます。

 日本のことわざとして「実るほど頭が下がる稲穂かな」という句がありますが、すべてのものを満たす神の恵みと賜物によってキリストのしもべは頭を垂れるほどに実ります。神の前でへりくだる者はキリストが高く上げてくださり、神からの誉れを受けることになるのです。

「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。」(ローマ3:23-24)

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