「十字架を背負う」ルカによる福音書14章25-35節
2023年9月10日
牧師 武石晃正
皆さんは十字架という単語を聞いたときにどのような印象を抱かれますでしょうか。教会やキリスト教学校に通っておられる方であればイエス・キリストが磔(はりつけ)にされた十字架を思い起こすことでしょう。
あるいはキリスト教とほとんど関りがない方にとっては地図記号が示す病院であったり映画で見かけた墓地であったりと、単なる意匠の一つに過ぎないのでありましょう。神聖さを感じる人もいれば死を連想するので不吉だとおっしゃる方もおられます。
ヨーロッパでキリスト教が広まるにつれ救い主キリストの贖いの象徴となりましたが、十字架はコンスタンティヌス大帝が廃止するまで重罪人の処刑方法でした。罪のない方がひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげたことを覚えつつ、本日はルカによる福音書を開き「十字架を背負う」と題して思いめぐらせましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
皆さんは十字架という単語を聞いたときにどのような印象を抱かれますでしょうか。教会やキリスト教学校に通っておられる方であればイエス・キリストが磔(はりつけ)にされた十字架を思い起こすことでしょう。
あるいはキリスト教とほとんど関りがない方にとっては地図記号が示す病院であったり映画で見かけた墓地であったりと、単なる意匠の一つに過ぎないのでありましょう。神聖さを感じる人もいれば死を連想するので不吉だとおっしゃる方もおられます。
ヨーロッパでキリスト教が広まるにつれ救い主キリストの贖いの象徴となりましたが、十字架はコンスタンティヌス大帝が廃止するまで重罪人の処刑方法でした。罪のない方がひとたび己を全き犠牲(いけにえ)として神にささげたことを覚えつつ、本日はルカによる福音書を開き「十字架を背負う」と題して思いめぐらせましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.自分の十字架を背負う
安息日の食事に伴う3つの教えが14章の始めに記されておりますが、ルカによる福音書は食事そのものには触れずに次の場面へと移ります。「大勢の群衆が一緒について来た」(25)とありますのは食事を終えた後のことでしょうか、しかし安息日に会堂以外へ出かけるということは考え難いので日を改めての出来事とも思われます。
福音書において群衆と呼ばれているのは弟子になるほどの覚悟がないまま、興味関心むしろ興味本位でイエス様について来る者たちです。ここで「ついて来た」と訳されている語はかつてガリラヤの漁師たちが「わたしについて来なさい」(マタイ4:19)とイエス様に命じられたのとは全く別の動詞が用いられています。
「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26)とは何と厳しいお言葉でしょう。ところがそれ以上に驚くべきは、短い箇所の中で3度も「わたしの弟子ではありえない」と繰り返されていることです(26,27,33)。
律法の中では十戒において「あなたの父母を敬え」(出20:12)と命じられておりますから、実際に肉親へ憎しみを抱くことをイエス様が良しとされたわけではないのです。思い違いや誤解をしたままついて来る群衆に対し、主は毅然とした態度で向き直られました。
そしてこの場においては人々への悔い改めの勧告も記されておりませんから、イエス様は群衆の中から弟子を招こうとはなさっていないのです。弟子に招くおつもりであれば道を歩きながらでも真理を説いてくださるでしょうに、わざわざ立ち止まり「振り向いて言われた」(25)のですから彼らとは歩みを共にしないというご意思です。
27節について意味を強めに訳してみますと「自分自身の十字架を担わずに私の後ろを来るところの者は、私の弟子ではあり得ない」と表せます。群衆はイエス様の後ろをついて来たにも関わらず十字架すなわち生涯を通して主に従おうという決意を背負っておりませんので、弟子ではないと突き放されているのです。
前後しますが26節にある「憎まない者」について、憎むという動詞には「無視する」とか「無頓着である」という意味もあります。せっかくイエス様のもとに来ているというのに、家族のことや自分の都合など他のことに気を取られているようでは弟子ではないと言われても仕方のないことでしょう。
続けて塔を建てようとする人のたとえと敵を迎え撃とうとする王のたとえが説かれます。塔とは戦いに備えて建てられる見張りの塔であるわけですが、多勢に無勢のまま迎え撃たなければならない状況は塔を完成できなかった結果のようです。
「あなたがたのうち」(28)と切り出されておりますので、これら一連のたとえは一般的な話ではなく目の前の群衆を指して語られています。「造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか」(28)「迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか」(31)と疑問形ではありますが、「あなたがたは腰をすえて考えてもいなければ弟子になる腹も括っていない」と決心の程が明らかにされました。
塔を建てるにも使節を送って和を求めるにも町ひとつを救うだけの費用が掛かります。講和の申出はうまくいっても相手の条件を飲まざるを得ませんし、悪くすれば攻め込まれて後には全滅が待っています。
ですから家族や自分の都合に頓着しないこととして、「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33)とイエス様は結ばれます。とはいえ2つの話はあくまでもたとえでありますから、金銭的な損得勘定が先に立つような者はそれこそ「わたしの弟子ではありえない」と言われることになりましょう。
2.神の国から外に投げ捨てられるもの
朗読の箇所の最後の2節は一見すると急に話題が変わったように思われます。塩のたとえであればマタイによる福音書において「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と山上の説教の中で語られています。
山上の説教は主が弟子たちを対象にして天の国について説かれたものですが、このルカによる福音書での文脈は群衆に向けて語られています。そして「あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(32)と言われている人々へ向けて塩のたとえが当てられているのですから、33節は反語として「味気を失って駄目になった塩に塩味をつけ直すことができるだろうか、いやできはしない」と読むことができましょう。
塩が塩気をなくすとはいかなることかと調べてみますと、イエス様がおられた時代のパレスチナで塩と呼ばれるものは岩塩の塊のようなものだったようです。その「塩」と呼ばれる塊から「塩気」すなわち私たちが普段「塩」と呼んでいる食塩を削って使います。
「塩気」を削り取られた「塩」はやがて砂や礫だけが残ります。それは中途半端に塩分を含んでおりますから畑に撒くにも肥料にするにもいかず、「役立たず、外に投げ捨てられるだけ」(35)のものです。
先の2つのたとえにおいて「わたしの弟子ではありえない」と告げられた上で、イエス様は群衆に対し「外に投げ捨てられるだけだ」とおっしゃっています。「あなたがたは地の塩である」と弟子になるよう招かれたのではなく、塩気を失った塩であるのように神の国から外に投げ出される者(13:28)である群衆をたとえたのです。
これほど厳しく求められるのであれば誰もイエス・キリストに従うことなどできない、信じれば救われるはずではなかったのか、と思われるのはもっともなことです。塔を建てる人や戦いに出る王、塩気をなくした塩の3つのたとえが語られましたが、これらはみな口では敬いつつも本心では主に従おうとしない者たちへ向けられているのです。
いざ主の招きを受けた時に「畑を買った」(18)「牛を二頭ずつ五組買った」(19)「妻を迎えたばかり」(20)などいくらでも理由を作り出し、自分勝手な都合で拒んだり先延ばしにしたりする者たちが非常に多くいるのです。ところが主の弟子にふさわしい者たちは「わたしについて来なさい」とイエス様の招きを受け、「すぐに網を捨てて従った」のだと福音書は示します(マタイ4:19-20)。
使徒ペトロは4つの福音書を通して知られるように、しばしば失敗や早合点をしています。とはいえ網を捨てて従った時に自分の十字架を背負ってきたので、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」(マタイ26:35)と覚悟のほどを告白できたのです。
もちろんペトロだけでなく他の弟子たちも同じ決意をもってイエス様に従ってきました。鶏が2度鳴く前に3度もイエス様のことを知らないと拒んでしまったことではありますが、ともかくペトロは捕らえられたイエス様の後を自分の足でついて行きました。
自分の十字架を背負わずに主に従おうとする者は親兄弟その他の都合をイエス様より優先し、神と富とに仕えようとする二心ある者です。「十字架につけろ、十字架につけろ」(23:21)と叫び続けた群衆のよう、他人を犠牲にしても意に介さないのです。
このような者たちがユダヤの群衆ばかりでなく教会の中にも生じることを主の兄弟ヤコブの手紙の中から知ることができます。「あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします」(ヤコブ4:2)と書かれているとおりです。
「世の友になりたいと願う人はだれでも、神の敵になるのです」(同4)。自分の持ち物を一切捨てて十字架を背負ってキリストに従うのがよいでしょうか、はたまたこの世の富とともに神の国から外に投げ捨てられるのがよいでしょうか。
<結び>
「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。」(ガラテヤ6:14)
主キリストが私たち罪人を救うために人として世に生まれ、十字架にかかってご自身を完全ないけにえとなさいました。御父の前に流されたキリストの血によって私たちの罪は贖われ、罪が赦されました。
神であることを捨てて人となられ、人として持っていたものを命まで惜しまれなかった主キリストを覚えます。この方のもとに来るとき私たちはまだ心の中にキリスト以外の何かを抱えているでしょうか、それとも自分の十字架を背負って従うのでしょうか。
「それから、イエスは皆に言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。』」(ルカ9:23)