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「主が赦して下さった」ルカによる福音書15章11-32節

2023年9月17日
牧師 武石晃正

 「孝行のしたい時分に親はなし」とはよく申したもので、敬老の日どころか誕生日も祝うこともできないまま今年の3月には横浜の義母の遺影に向き合うこととなりました。子である者がこの年齢にもなりますと母の日、父の日、誕生日がみな同じような趣になりまして、実家筋では年中だれかしらの敬老を祝っているような気がいたします。
 使徒パウロは「ある日を他の日よりも尊ぶ人もいれば、すべての日を同じように考える人もいます」(ローマ14:5)と述べております。宇都宮上町教会では毎年この時期の主日礼拝を敬老感謝礼拝あるいは敬老祝福祈祷とし、今年も年配の方々を主の祝福を受け継ぐ者として一層に敬うことを覚えて祈ります。

 本日はルカによる福音書から2人の息子を持つ父親のたとえ話の箇所を朗読したしました。この箇所をもとに「主が赦して下さった」と題して思いめぐらせて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.いなくなっていたのに見つかった
 「また、イエスは言われた」(11)とルカは先行する2つのたとえ話を受けて「放蕩息子のたとえ」を切り出します。イエス様のお言葉をよく読み取るならば「ある人に息子が二人いた」とのことですから、正しくは「2人の息子を持つ父親のたとえ」であるわけです。
 弟の方が父親に「わたしが頂くことになっている財産の分け前をください」(12)すなわち生前に遺産分配を願ったことから話が始まります。本来であれば親が亡くなってから兄弟同士で財産を分け合うべきことでありますので、この父親は弟息子から死んだも同然の扱いを受けたと言えるでしょう。

 愛する息子から死別を告げられた生身の父親の胸中はいかに痛み悲しんだことでしょう。それでも父親は弟の方には弟の分け前を、兄の方へはその倍(申命21:17参)を与えました。
 さて弟息子は分け与えられた財産をお金に換えて遠い国へと旅立つわけですが、イエス様の時代においても離散したユダヤの人々はかなり広い地域に住んでおりました。バビロン捕囚から解放されても現地に残った人々もあれば、捕囚前にエジプトへ逃れた人々もあり、使徒言行録の年代に至っては小アジア半島の各地にもユダヤの会堂が見られます。

 どこへ向かいどこまで行ったのかはともかく、不慣れな土地で物の相場も分からなければ元手がいくらあっても商売がうまくいくはずもないでしょう。「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」(13)とは多少の強調を加えた訳であるとしても、とはいえ徒に若さの日々と財産を使いつぶしてしまったことには相違ないところです。
 その矢先に弱り目に祟り目と申しましょうか、一帯に飢饉が襲いました(14)。故郷を捨てた青年が身を寄せることができたのは畑で豚を飼うような家でしたから、この時すでにユダヤ同朋の間には彼の居場所がなかったことが示されます(15)。

 「豚の食べるいなご豆」(16)とは詳しく訳すと豆の鞘(さや)の部分を指すようです。これは人間でも食べることができるものではあるそうですが、豚たちは豆の鞘だろうと地面を掘り返したミミズだろうと栄養になるものであれば何でも腹の足しにするのです。
 もし誰かいなご豆をくれようとする人がいたしても、豚たちは彼らの食べ物を見知らぬ男にくれることはないでしょう。かの青年はユダヤ人としての誇りを故郷に置き忘れて来たかもしれませんが、もはや地べたを掘り返し汚物をほおばる豚以下の存在となろうとしていました。

 ようやくここで我に返り、本来あるべき生き方を失ってしまっていたことに気づくのです(17)。人を辞めたも同然だった青年は今さら父の前で息子を名乗ることはできませんので、雇い人の一人でよいので父の家に帰ろうと決意します(18,19)。
 一方で彼の故郷では恐らく父親は来る日も来る日も人影が見えるたびに「あれは私の息子ではないか」と雇い人を遣わしたことでしょう。もはや呆れて誰も聞き入れてくれなくなったころ、生きた屍のようになって故郷の土を踏もうする息子の姿が見えました(20)。

 「まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」と、父親は自分が迎えに行かなければ息子が失われてしまうことを知っていたのです。何週間か知れませんが着の身着のまま豚と過ごし、宿賃もないので無宿で旅をしてきた無様な姿です。
 近寄らずとも相当な臭いを発していたでしょうに、抱擁のうえに接吻するとはこの父親がどれほど息子を愛して待ち焦がれていたかの現れです。「もう息子と呼ばれる資格はありません」(21)と詫びようとする息子の言葉を接吻で遮り、父親は僕たちに命じて彼を自分の息子にふさわしく整えさせました(22)。

 衣服はもちろんのこと、指輪はその家の権威の証しであり、履物を履かせることで親族としての権利を取り戻させました(ルツ4:7参)。そして「肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。」(23)と満願の献げ物(レビ7:16)として子牛が屠られます。
 「この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかった」(24)と、屠られたいのちと引き換えに父親は弟息子の命を得たのです。「食べて祝おう」と生き返った息子を傍らにして、父親は雇い人たちを招いて祝宴をはじめました(24)。


2.一緒に喜んでください  
 さて兄息子のほうはせっかく弟が生きて帰ってきたというのに、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた(25)のをわざと知らないふりをしたようです。そして僕に「これはいったい何事かと尋ねた」(26)わけです。
 父親としては兄息子にも一緒に喜んで欲しかったので、弟息子を迎えたようにみずから出て来て彼をなだめました(28)。そこで兄息子は初めて父親に心中を吐露します。

 「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません」(29)とは息子ではなく雇い人の言い草です。この息子も父親からどれほど愛されているのかに気づかずに、ただ義務的に言いつけを守ってきたのです。
 「わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかった」という言い分はもっともなのですが、既に兄としての分け前となっている家畜の中から自分で振舞えばよかったことです。しかも自分の弟を指して「あなたのあの息子」と他人呼ばわり。

 確かに身代を潰して風に吹かれて帰ってきたには違いないのですが、「娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして」(30)とは誰から聞いた話なのでしょうか。他人を裁く者は往々にして憶測で物事を決めつけるものです。
 情に訴えられるので父親と二人の息子たちの話だけが独り歩きしていることが多いような印象を覚えます。ルカによる福音書は15章の初めに2つのたとえを記した上で、その結びである3つ目のたとえという位置づけで父親と二人の息子たちの話を描いています。

 聖書 新共同訳の小見出しによれば1つ目が「見失った羊」のたとえ(15:1-7)、2つ目が「無くした銀貨」のたとえ(8-10)です。100匹のうち失われた1匹の羊が見つけだされ、10枚のうち無くした1枚の銀貨が見けられます。
 共通していることは一人の罪人が悔い改めれば天に大きな喜びがあり、見つけ出した方は友達や近所の人々に一緒に喜んでほしいということです。ゆえに3つ目のたとえにおいても、死んだと思われていた息子が悔い改めて父のもとへ立ち返ったことは大きな喜びであり、父親は身近な者たち特に兄息子にこそ一緒に喜んでほしいのです。

 ずっと一緒に暮らしていた兄息子もまた父親の愛を見失っており、自分から見失われた者となってしまったのでした。「お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ」(31)とはイエス様のご愛そのものです(マタイ28:20、ヨハネ17:10)。
 父とともにあり父に愛されている兄息子であるからこそ、死んでいたのに生き返った弟息子のことを一緒に喜んで欲しいのです。いなくなっていたのに見つかったのですからケチをつけずに喜べばよいことであり、父が既に赦して下さったのであればなおのことです。

 「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」と主イエス・キリストは徴税人や罪人たちをお招きになりました。それを良しとせず難癖をつけたファリサイ派の人々は「わたしに味方しない者はわたしに敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」(マタイ12:30)と言われています。
 主が赦して下さったことを天の御使いたちと一緒に喜ぶことができるでしょうか。「だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(32)


<結び>
 「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。」(コロサイ3:12)

 人はみな神に創られた者でありながら生まれながらに神を知らず、創造主なる神の御旨に従おうとせずに生きています。生まれたばかりの赤ん坊に善悪の分別などつくはずがないとお考えになろうかと思われますが、最初の人類において罪が定められたので全ての人が神のみこころを失ったまま生まれてくるのです。
 犯した罪は償いをしても疵(キズ)として残りますから、いくら言い繕っても神の前にはすべて数え上げられています。財産をまとめて遠方へ旅に出ても、言いつけに背かずに仕えても、父の御愛の深さを身に染みて知るまではどちらも失われた者なのです。

 キリストにおいて神が私たちを選び、十字架で流された血によって罪をきよめてくださったとは何という恵みでしょう。主が赦して下さったのですから、私たちは互いに喜び受け入れ合いましょう。

 「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。」(コロサイ3:13)

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