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「神の家に仕える」ルカによる福音書16章1-13節

2023年9月24日
牧師 武石晃正

 昼間は汗ばむほどに暑さを覚えるところですが、朝夕の空気に秋の訪れを感じられるようになりました。しばらく姿を見せていなかった小動物たちもなんとか夏の盛りの厳しさを乗り越えたようで、敷地内の地面を駆け回るようになりました。
 「烏のことを考えてみなさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、納屋も倉も持たない。だが、神は烏を養ってくださる」(ルカ12:24)との御言葉を覚えつつも、色づく田んぼを眺めては農家の方々の知恵と努力に頭が下がる思いです。その上で「大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です」(Ⅰコリント3:7)と、目に見える働きよりも背後で働かれる見えざる神の御業によることを私たちは知っています。

 本日はルカによる福音書から「不正な管理人」のたとえとして知られる箇所を開いております。この箇所を中心に「神の家に仕える」と題して考えて参りましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.「不正な管理人」のたとえ
 15章からの一連の出来事としてルカによる福音書は記されておりますが、16章に入ると「弟子たちにも」(1)とイエス様は話の相手を変えられます。とはいえ弟子たちだけを集めて話をなさったのではなく、ファリサイ派の人々もまだ目の前にいたことが続く箇所から示されます(14)。
 聖書 新共同訳には小見出しが付されておりまして、この箇所には「不正な管理人」のたとえと添えられています。イエス様は「ある金持ちに一人の管理人がいた」(1)と語られておりますので、厳密には「不正な管理人に任せていた金持ち」のたとえでありましょう。

 強いて言うならば「神の国は不正な管理人の抜け目ないやり方をほめた金持ちのようである」とのたとえ話であるわけです。話としてはある金持ちから財産の管理を任されていた男が主人の財産を無駄使いしたことに端を発しています(2)。
 財産の無駄使いという点に限っては15章における「二人の息子を持つ父親」のたとえにある弟息子に通じます。大きく違うところとしては、旅に出た息子が父から譲られた財産を使い果たしてしまったのに対して、この管理人は無駄使いこそしたものの財産や取引先を失ってはいないということです。

 当時のユダヤでは珍しくないことなのかも知れませんが、この管理人は任されていた財産の精算にあたり奇妙にも見える行動を取りはじめます。その思惑としては「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」(4)ということで、取引先への貸し付けを次々に割り引いていくのです(5-7)。
 「油百バトス」(6)は約2,300リットル、小麦のほうは乾量で23,000リットルですから個人ではなく商家の取引でしょう。掛け値で掛け売りをする際に利息分を上乗せして代金を貸し付けて、管理人はその利鞘の一部を自分の懐に収めていたものと思われます。

 それにしても100バトスを半分の50に減らすのは相当な減額です。支払い期限に対してかなり早く精算するために利息の分が割引かれることと、値引いたことで生じる主人の損失は管理人が自腹を切って埋め合わせること、そのような遣り繰りがあるのでしょう。
 割り引かれた証文はあくまでもたとえの中の描写ですので、ここでは不正な管理人が自分の目論見に沿って抜け目のないやり方を徹底したということに留めましょう。とにかくどういうわけか「主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた」(8)のです。

 このたとえの中から明らかにできることは2つありまして、一つは私たちに任されている期間すなわちこの世の時代あるいは個々人の生涯には必ず終わりがあるということです。もう一つはその終わりの時に主人は僕たちに精算を命じるということです。
 放蕩息子は財産を使い果たした際に誰も助けてくれる人がいなかったようですが、抜け目のないやり方をした管理人は主人にほめられています。「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(8)と言われているように、この管理人は自分の仲間に対して賢く振舞ったのです。

 世の終わりが来るにしても自分の生涯が終わるにしても、いずれこの世を去るのであればこの世の富を持っていくことはできないわけです。私たちが自分で所有していると思っているものでさえ創造主なる神の手による被造物であり、私たちはあくまでもそれらを管理するようにと委ねられているに過ぎないのです。
 別のたとえでは自分が貸しているものを仲間から厳しく取り立ててたために主君の怒りを買った家来の話があります(マタイ18:21-35)。主人にほめられた管理人は仲間の借りを軽くすることで、終わりの時に自分を家に迎えてくれるような者たちを作りました。


2.富に仕えるか、神に仕えるか  
 「そこで、わたしは言っておくが」と9節からイエス様の論調が変わります。「不正にまみれた富で友達を作りなさい」とは一体どういうことでしょう。
 光の子たちは終わりの時に「永遠の住まい」に迎え入れられる備えとして、この世の子らより賢くあることが求められます。「不正にまみれた富」についてイエス様が不正な行為を勧めているのかと驚くところではありますが、8節までと9節からでは論調が変わるので「不正」と訳されている言葉の意味も変わります。

 先の管理人のたとえにおいては道徳上の不正そのものを指すのに対し、「不正の富」は言うなれば「この世の富」を指しています。天にあるものが真実まことでありますから、それに対して地上におけるこの世的なものに不正や不義という語が聖書の中では当てられます(二テサロニケ2:10、12)。
 尽きることのない富(ルカ12:33)が天に積まれる一方、「不正にまみれた富」すなわちこの世の富は使えばなくなります。またこの世の富を天の御国へ持っていくことはできませんし、この「不正にまみれた富」を持ったままでは永遠の住まいに入ることはできないのです。

 では「不正にまみれた富」について友達を作ったり自分の仲間に対して賢くふるまったりしないとすれば、その人はどのような結末を迎えるでしょうか。何年も生きていけるだけの蓄えをしても「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(12:21)と神に命を取られることもあるでしょう。
 更にある個所では「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(18:25)とも言われます。ですから「金がなくなったとき」すなわち仲間のために地上の富を手放すことによって、「あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」のだとイエス様がおっしゃるところです(9)。

 福音書は主が天に昇られてから30年40年と経った後、教会という文脈の中でまとめられました。従ってこの教えは迫害の最中に繰り返し語られた上で聖書の中に収められ、代々の教会へと受け継がれています。
 使徒言行録の中では使徒パウロを捜して見つけ出したバルナバというレビ族出身の教師がおりまして、彼は持っていた畑を売った代金を持参しキリストを信じた人々の群れのために献げました(使徒4:36-37)。この世の富がいかに大きいものであっても天の富と比べたら「ごく小さな事」でありますから、ごく小さな事に忠実なバルナバは大きな事にも忠実な者としてキリストの福音を伝える者となりました。

 また「ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である」(10)と言われるように、教会が困難の中にあるにも関わらず施しを出し惜しんだ者もおりました。ある夫婦は土地を売ったところまではよかったものの、人ではなく神を欺いて代金をごまかしたために主の霊に打たれて二人ともそれぞれに息絶えました(使徒5:1-11)。
 「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(11)と主は言葉を変えつつ繰り返されます。不正にまみれた富はこの世の富ですから「他人のもの」であり、これを仲間のために賢くふるまう者には本当に価値あるものを「あなたがたのもの」として神ご自身が与えてくださるのです。

 忠実であるということは二心のないことです。「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない(中略)あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」のです。
 富をいくら積んだところで神の前で命を買い戻すことができるでしょうか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)と主のお言葉です。

 イエス・キリストが忠実な大祭司としてたった一度ご自身を完全ないけにえとして神にささげたことにより、私たちの罪が贖われ、その代価が支払われました。「神は、わたしたちの一切の罪を赦し、規則によってわたしたちを訴えて不利に陥れていた証書を破棄し、これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました」(コロサイ2:13-14)。


<結び>
 「ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。」(ルカ16:10)

 おそらく多くのキリスト者たちは自ら不忠実であろうと考えることはなく、むしろ主に対する愛の現れとして小さな事にも大きな事にも忠実でありたいと願うでしょう。主はそれをご存じの上で、光の子たちが自分の仲間に対して抜け目なく賢く、すなわち憐れみをかけて寛大にふるまうことを求めておられます。
 人の目には小さく映る者たちについて「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」(ルカ9:48)と主の目には映っています。神の家に仕えるとあなたが望むのであれば、主はあなたが神と富とどちらに仕えるのかといつも問いておられます。

 「正義、信心、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい。信仰の戦いを立派に戦い抜き、永遠の命を手に入れなさい。」(テモテ一6:12)

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