「金持ちと貧者」ルカによる福音書16章19-31節
2023年10月1日
牧師 武石晃正
先日、実家で墓じまいというものをいたしました。ちょうど世の中では彼岸明けと呼ばれる日だったようで、平日にもかかわらず市民墓地には少なからぬ人影が見えました。
多くの墓石の前に花や供物の菓子などが供えられておりましたが、故人が召しあがるわけではないことは墓所に住み着いている猫たちの体格や毛艶が物語っています。
人は必ず死にますし、死なない人はいないのに、子どものうちから死について正しく教えないのはなぜなのでしょうか。誰も行ったことがなく、ましてや帰って来た者もいないのに「あの世」についての空想話がまことしやかにささやかれるのです。
キリストは十字架に架かり葬られた後、3日目に死人のうちよりよみがえられました。本日はルカによる福音書を開き、「金持ちと貧者」と題して読み進めて参りましょう。
PDF版はこちら
(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
牧師 武石晃正
先日、実家で墓じまいというものをいたしました。ちょうど世の中では彼岸明けと呼ばれる日だったようで、平日にもかかわらず市民墓地には少なからぬ人影が見えました。
多くの墓石の前に花や供物の菓子などが供えられておりましたが、故人が召しあがるわけではないことは墓所に住み着いている猫たちの体格や毛艶が物語っています。
人は必ず死にますし、死なない人はいないのに、子どものうちから死について正しく教えないのはなぜなのでしょうか。誰も行ったことがなく、ましてや帰って来た者もいないのに「あの世」についての空想話がまことしやかにささやかれるのです。
キリストは十字架に架かり葬られた後、3日目に死人のうちよりよみがえられました。本日はルカによる福音書を開き、「金持ちと貧者」と題して読み進めて参りましょう。
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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)
1.「金持ちとラザロ」のたとえ
聖書 新共同訳では「金持ちとラザロ」という表題がつけられています。実際にある金持ちとラザロという人について何かがあったという話ではなく、イエス様がファリサイ派の人たちに向けて話したたとえです。
「あるお金持ちがいた」(19)と、その裕福ぶりを象徴するように「紫の服や柔らかい麻布」を着ていました。イエス様の時代、紫色の染料は非常に高価で特別なものでした。
この人は自分の楽しみのことで頭がいっぱいだったのか、家の前で横たわっていた貧しい病人のことは気にかからなかったようです。病と貧しさの中にある同朋に対して裕福な者が手を広げないことはユダヤの掟の精神に背くことでありますし(申命記15:10-11)、直接に手を下さなかったとはいえ見殺しにしたのも同然と言えましょう。
貧しい人のほうはラザロという名で呼ばれており(20)、ヨハネによる福音書に同じ名前の人ついて記されています(ヨハネ11:38-41)。たとえの話とは別であるとしても、このラザロもまた病のために死んで葬られました。
ところが葬られて4日も経って、イエス様がラザロを墓の中からよみがえらせたのです。するとユダヤの人々はラザロのことでナザレ人イエスへとなびくようになり、それを知った指導者たちがラザロまでも殺してしまおうと企んだというのです(同12:10)。
彼らが殺そうとしたラザロの名前をイエス様はあえてたとえの中で用いられたのでしょう。ラザロを殺そうとしたのは祭司長たちではありましたが、イエス様をねたむ思いとしてはファリサイ派の人々も同様であり、敵意や憎しみは殺意をはらみます。
さて金持ちも貧者も死んで葬られことになるわけですが、福音書ではそこを「陰府(よみ)」と記しています。これはあくまでもたとえでありますから、死後の世界がどのようなところであるかを示したものではなく、当時広く受け入れられていた概念をイエス様が用いられたということです。
炎の中で苦しみを受ける金持ちは生前に自宅の前でいつも見かけていた男をはるか遠くに見つけます。そこで彼らの父祖アブラハムを呼ばわり「ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください」(24)と嘆願しました。
父と呼ばれるアブラハムは聖書の一番初めの書である創世記に記されており、イスラエル民族の始祖であります。主なる神が「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」(ルカ20:37)と呼ばれるように、神とイスラエルとの契約はこの人から始まりました。
ですからイスラエルあるいはユダヤの人々にとってアブラハムとは神に最も近い存在であり、契約の源であるわけです。「あなたを祝福する人をわたしは祝福し/あなたを呪う者をわたしは呪う」(創12:3)と神様から直接にお言葉をいただいたわけですから、アブラハムを神の代理者としてユダヤの人々は信じていたのです。
そのアブラハムが例の金持ちへ「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ」(25)とはっきりと断るのです。もし彼が生きているうちに貧しい人へ憐れみをかけていたなら、もだえ苦しむことにならなかったでしょう。
憐れみや施しについて16章を通して考えるなら「不正にまみれた富で友達を作りなさい」(9)とイエス様が言われたことに思い当たります。不正にまみれた富すなわちこの世の富によって自分の仲間たちに賢くふるまい、「金がなくなったとき」に永遠の住まいに迎え入れられることが先のたとえにおいて示されたところです。
生前にもらっていた良いものを貧しい人と分かち合っていれば、恐らく金持ちであってもアブラハムの祝宴に招かれていたことでしょう。しかし死んでからでは手遅れであり、はるかかなたの隔たりがあるので巻き返すどころか行き来することさえ叶わないのです。
「そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって」(26)と決定的に取り返しがつかないことが告げられます。それで金持ちは自らのことは断念したのか、5人の兄弟たちへラザロを遣わして悔い改めさせるようにと願いました(27、30)。
彼自身がそうであったように、「モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしない」(31)のです。翻っては、聖書の言葉を信じた者だけが目の前で行われた奇跡を父なる神の御業として受け入れることができ、キリストの十字架の死と復活の恵みをも受けるのです。
2.いま生きているうちに
当時のユダヤでは富が神様の祝福を表すものであると考えられており、貧しさは何らかの理由や原因によって神の恵みに乏しいことであるとされていました。多くの祝福を受けた者には受けた富を御父の代わりに貧しい人々へ施すことが求められていましたが(申命記15:11)、物惜しみをして自分だけが豊かになろうとした者も少なくなかったでしょう。
そしてイエス様は直接にはファリサイ派の人々に向かって説かれましたが、福音書が書き記された年代においてはルカの筆を通して教会の人々へこの教えが向けられました。かつてイエス様と議論しては逆らった者たちがいたという昔話ではなく、金に執着するファリサイ派の人々(14)のような者が教会の中にもいるではないかと問われるのです。
ここで改めて本文をたとえであると確認したうえで、この話の要点について考えてみましょう。登場人物は3人いますが、金持ちと貧しい人という2つの立場での対比です。
契約の父であるアブラハムをして主題を語らせており、主に3つの要点が挙げられます。一つは、生前に受けたものによって死後の状態が分けられ、両者には隔たりがあって死んだ後に入れ替わることはないことです(25,26)。
二つ目は、生きている間に聖書の教えに従う者は死んだ後にアブラハムの側、つまり神のみもとへ迎えられることです(29)。そして三つ目は、生きていて聖書の言葉に従わない者は死者がよみがえるほどの奇跡を見ても悟らないということです(31)。
死人が生き返ることを見れば誰でも驚いて神を信じるのかと思いきや、神の国の福音も信じない者たちはナザレ人イエスの復活を認めようとしなかったのです。それどころか空っぽの墓を見た兵士たちに多額の金を与えて、弟子たちが死体を盗んでいったという嘘の証言をさせたほどです(マタイ28:12-13)。
またファリサイ派の人々が金に執着していたと指摘されておりますが、対するサドカイ派こそ祭司階級や貴族らが中心でしたので金と権力を持っていました。ユダヤの指導者たちをたとえにおける「金持ち」と読み解くならば、どれほど裕福であるかによって金持ちと呼ばれているのではなく「生きている間に良いものをもらっていた」ことによるのです。
そして金持ちになぞらえられている者たちはアブラハムを父と呼び、アブラハムも「子よ」と呼ぶところから血統そのものは認められています。サドカイ派でもファリサイ派でも律法を継承しておりましたし、割礼を受けた民でした。
もし血筋や家柄で救われるのであれば、あの金持ちは炎の中に落とされることにはならないはずです。父祖から伝わる掟や伝承を大切にしていても、氏より育て柄と申しましょうか、肝心の信仰は育まれていなかったようです。
死んでからどうなるのかを知ったところで死んだ後にやりなおすことはできないのですから、生きている「いま」のうちに聖書の言葉に耳を傾けて従うのです。この世で富や名声を得ようと力を振りかざそうと、神の前では何の支えにもならないからです。
神が望んでおられるのは裁きや滅びではなく、あなたがキリストを信じて救いを受けることです。「独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得る」(ヨハネ3:16)と、神は御子さえ惜しまずに世を愛されました。
<結び>
「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。」(ルカ16:25)
教会暦は今年もまもなく聖霊降臨節が終わり、終末への備えの時を迎えます。「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」(ヘブライ9:37)と聖書が明らかするように、私たちは主の御前に立たされる備えができているでしょうか。
「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(ルカ12:21)と神に命を取られることもあるのです。また「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます」(ヤコブ2:13)との主の兄弟ヤコブを通して教えられます。
金持ちと貧者とを比べてどちらが正しいとか清いとかそのような計り方をされているわけではなく、生きているうちに御言葉に聞き従うことが求められています。裕福な者であっても生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開くことは主の御心に適うからです。
「わたしの愛する兄弟たち、よく聞きなさい。神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさったではありませんか。」(ヤコブ2:5)