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「弱者をいたわる」ルカによる福音書17章1-10節

2023年10月8日
牧師 武石晃正

 同じ関東地方でも東京や神奈川などはまだ蒸し暑いようですが、宇都宮界隈ではすっかり秋の空気に入れ替わったようです。樫の木やコナラなどの広葉樹はいわゆるドングリを実らせまして、その落ちる音が山の賑わいとなる季節です。
 ことわざに「どんぐりの背比べ」とありますが、ドングリは自ら背比べなどせずひっそりと自分の時を待ち望みます。落ち葉に覆われ隠されてしまっても、天の父は隠れたことを見ておられることを覚えます。

 小さなもの、覆われてしまったものにも主の目は注がれています。本日はルカによる福音書より「弱者をいたわる」と題して思いめぐらせてみましょう。


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(引用は「聖書 新共同訳」を使用)

1.からし種一粒ほどの信仰
 ルカによる福音書では24章あるうちの前半、9章からイエス様がエルサレムへ向かわれる歩みについて記しています。主が十字架へと顔をまっすぐ向けて進まれる中に様々な教えを記すことで、聖霊はルカの筆を通して読者に「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(9:23)と招かれます。
 朗読の箇所は「イエスは弟子たちに言われた」(17:1)と切り出され、それまでのファリサイ派の人々との議論が打ち切られました。「つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である」とは厳しい語調で説かれます。

 不幸であると訳されている語は「恐ろしい、ぞっとするほどいやな、最悪、手に負えない人、災害、厄災」などという意味の単語です。単に不幸せであるとか可哀そうであるというものではなく、イエス様をして顔をそむけたくなるほど不快であるというのです。
 つまずきとは人に罪を犯す機会を与えること、転んで損失を受けるのは本人であってもそのきっかけとなるもののことです。イエス様がガリラヤ地方で宣教を始めた当初から律法学者たちやファリサイ派の人々が付け狙って、訴える口実を見つけようとした場面は4つの福音書に何度も記されています。

 従ってまずはファリサイ派の人々らが神の国の福音を説くイエス様の言葉尻や揚げ足を取ろうとしていることに対して「不幸である」、手に負えない人であると言われたことです。ぞっとするほどの嫌悪感であると弟子たちに吐露しされました。
 故意に人をつまずかせる者をどれほどイエス様が嫌われたかと申しますと、「首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである」(2)というほどです。顔も見たくない、沈んだら二度と浮かんでくるな、という言葉の勢いです。

 その上で「あなたがたも気をつけなさい」(3)と戒められていますから、弟子たちの間で足の引っ張り合いのようなことが小出しに起こっていたのではないでしょうか。「もし兄弟が罪を犯したら」どうするのか、直接には手を下さずとも過ちを犯しうるように兄弟を誘導しては、「ほら見たことか、あいつの正体はこんな悪いやつなのだ」と暴くのでしょうか。
 「戒めなさい」とは人を罪に定めて裁くことではなく、その罪を赦すために悔い改めに導くことです。「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回(略)赦してやりなさい」(4)と言われているからと言って、日に7回赦してやるために人をあげつらったり尻尾を掴もうとしたりするのでは言語道断です。

 そこで使徒たちは、「わたしどもの信仰を増してください」(5)と切り返します。兄弟を赦すことができるように信仰を求めるなら、きっと主は心がけをほめてくださるでしょう。
 ところが謙遜そうに見えるこの願い出もまた言葉の上では信仰を求めてはおりますが、「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論」(9:46)の延長線上にあるのです。彼らの本心が信仰とは別のところにあるので、主は「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば」つまり「増してくださいと言うけれど、そもそもからし種一粒ほどにも信仰がないではないか」とおっしゃったのです。

 からし種とは直径2㎜ほどの小さな種ですが、ここでは極めて小さなことを指す慣用句です。日本語であれば「けし粒ほど」という言い回しですから、いくらか増したところで「どんぐりの背比べ」にも及ばないほどその差は取るに足らないものです。
 たとえば「私はあの人のことをこれまでに何回も見逃してやったし、赦してやったことはいくらでもある」とおっしゃる人がいるとしましょう。ところが赦したとは言ってもそのことを恩に着せたり駆け引きの手札にしたりするならば、それは本当に赦したことになるのでしょうか。

 「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」(ローマ2:1)と使徒パウロが言うのです。罪のない方が十字架にかかり命まで捨ててまで罪を赦してくださったのに、その人をつまずかせたり裁いたりするようなことがあれば「不幸である」「海に投げ込まれてしまう方がましである」と主は見ておられるのです。


2.神の弱さは人よりも強い 
 「あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合」(7)とイエス様は弟子たちの注意を引きつけ、ご自身の立場になって考えるように導かれます。主人は本来であれば主イエス・キリストであり、私たちは主の命によって買い戻された僕つまり召し使いや奴隷の身分であるのです。
 当時の僕というものは雇用関係ではなく主人の所有とされた者ですから、主人が定めたとおりの務めを果たします。夕食を用意して給仕することも、命じられたままです(8)。

 同様に罪を犯した兄弟を赦すことは主が命じられたことですから、僕は「赦してやりなさい」と言われるままに何度でも赦すのです。「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ」(8-9)と主は弟子たちに、また福音書は読者である私たちに忠実を求めます。
 ではなぜキリストの弟子とされた私たちは、贖われた僕であるにも関わらず「赦す」という命令を守ることが難しいのでしょうか。理由や原因はいくつもあろうかと思われますが、突き詰めれば罪の性質すなわち神の御心に背くという性質によるのです。

 主なる神が赦しており私たちにも「赦しなさい」と命じているのに、私たちには罪があるので従うことができないのです。神に従わないということは人間にとって都合の良い解釈をして、思うように物事を行いたいという生き方です。
 神の前で罪を赦すことが命じられているのに、神に属さないこの世の正義感を振るって人を裁いてしまいます。たとえ聖書の言葉を用いたとしても個人や集団の都合によるのであれば、かつて律法学者たちやファリサイ派の人々がそう呼ばれたように私たちもまた主イエスから偽善者たちと呼ばれることでしょう。

 彼らはイエス様が罪人を赦すことを嫌いました。罪人が罪のままでいてくれれば、自分たちが正しい存在であり、赦すか赦さないかを握っていることができるのです。
 主が病人を癒すことも憎みました。病人が病人であり続けてくれるならファリサイ派の人々は施しをする側であり、いつも強く有利な立場を維持できるのです。

 守ってあげなければならない弱い立場を定義することには、ある一定の人々の強い立場を保つことになります。「あの人は弱い人」「あの人は気の毒な人」と決めつけて支援の手を差し伸べては、自分の優位性を保ち、相手を弱者として縛り付けるのでしょう。
 ところで、主はしばしばあえて弱い人や貧しい人を選んで用い(ヤコブ2:5)、あるいは弱い人を得るためにご自身の僕を弱い人のようになさいます(コリント一9:22)。たとえばその一つに献身の道があり、その多くは世にあって弱い者とされた中で主が招く声、静かにささやく声(列王上19:12)を聞くのです。

 教会に仕えるために神学校へ進むのですが、献身者は弱さを身に負わされて主に従うのです。そして主は選びの中でその人を更に弱く貧しい者とされ、この教師をどのように取り扱うのかと教会の忠実を試されます(マタイ25:40)。
 人の目には不十分で欠けがあるように見えても、神がその人を召した以上は神が所有する召し使いです。あなたの持ち物が誰かに傷つけられればあなたの心が痛むように、神の僕を損なうことは神ご自身に向かって傷をつけることになりましょう。

 話を戻しますと、主は小さい者の一人をもつまずかせないようにと命じておられます。それは旧約において「耳の聞こえぬ者を悪く言ったり、目の見えぬ者の前に障害物を置いてはならない」(レビ19:14)と、主がその人の心を見ておられることに通じます。
 意図せずともつまずかせたり歩みを妨げたりしてはいないでしょうか。聴覚や視覚に限ったことではなく、兄弟の罪を赦し弱者をいたわることは主の命令を全うするのです。

 「神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。」(コリント一1:25)


<結び>
 「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。」(ローマ15:1)

 もしあなたが今週のうちに世を去ると決まっているとして、誰かを恨んだり裁いたりしたまま生涯を終えることになってよいでしょうか。この世の富を持ったまま天の国に入ることができないように、他人の罪を赦していなければあなたの罪として残るのです。
 キリストの十字架の血によってすべての罪が赦されたのですから、私たちもすべての人の罪を赦します。身体や生活上の困難はもちろんのこと主が選んで弱くされた者もあるのですから、小さな者につまずきを与えないことは主にある弱者をいたわることなのです。

 「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです。」(ヤコブ2:13)

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